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章第四「熟穂屋姫命、八河江比売」
(三)
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きょうは疲れすぎて、そのまま自分のベッドで寝てしまいたかったが、天照大神との約束がある手前、三度、彩は天八重雲をかき分けていく。高天原へ戻ってきた彩の耳に、平穏を壊すような天鈿女神の悲鳴が聞こえてきた。声のする乾庭のほうへと急いで向かう。そこには、オオカマキリの足もとに目がけて大鎌を振りおろそうとする、建布都神の姿があった。彩が割って入る間もなく、その大鎌と既のところでかち合い、制止させる影があった。
「弱い者いじめはやめなさい」褌一丁の猿田彦祖父が、目を閉じたまま低い声を放つ。「大和の民にて、恥ぢに思はずや!(日本人として恥ずかしく思わないのか!)」
「弱い者? 誰のことだ?」まわりを包囲する刑部省の神々から、嘲るような笑いが起こる。「我らに辛き目を見せたる者らぞ。戒めを与ふるのみなり(我々をひどい目に遭わせた者たちである。罰を与えているだけだ)」
豊布都神も同意した。「然れば和らぎをもちて貴しとなす大和の民ぞ、世に余されたる徒ら者は是非許すまじ(だったら、調和を大切にする日本人だからこそ、和を乱す者は、是が非でも許せないな)」
「汝が和らぎ乱したるを覚えよ。大神の定め給ふることに逆ひたる故に(自分自身が和を乱していると自覚しなさい。大神のお決めになったことに逆らっているのだから)」瞼を開けないまま、猿田彦祖父は重々しい口調で言う。「我は案内者にあれど、役は道を認め設くのみならず。大神より、客人はみな饗するやう仰せ出されり(わたしの仕事は案内だが、役目は道路を予め整備するだけではない。大神から、客人は全員もてなすようにと、仰せつかっている)」
「どいつもこいつも……」暗に手を出すなと諭され、豊布都神は歯軋りした。「そんなに物の怪どもと馴れ合いたいのか」
「かばかり申せど心得ぬか。為む方なき痴れ者ぞや(これだけ言っても納得できないのか。どうしようもない馬鹿者だな)」
「んだとっ! やんのか、このジジイ……!」「や! 止むべし!(おい! やめたほうがいい!)」
仲間の制止も聞かずに、豊布都神は、怒り任せの大振りをかます。しかし、瞬殺だった。鞘から抜くのも見えぬ早業で、豊布都神は地べたに倒れ込んでいる。その様子を見て、呆気にとられていると、バタバタ足音が地面を伝わり、響いてきた。霞む目の端に、数柱の神々を伴ってくる谷蟇の姿が見えた。谷蟇同士の情報網でもあるのだろうか、さすが知識の象徴なだけあって、彩たちのやり取りをどこからか聞いていたらしい。応援を連れてきたみたいだ。
「なにをしているんですかっ……!」
その筆頭にいる天照大神が叫ぶ。その声に舌打ちを返し、大半の神々は散り散りになっていった。しかし依然として、建布都神と豊布都神の両名は、その場に残っている。豊布都神に関しては、動きたくても動けなさそうだが。横たわった状態のまま、困惑と憤怒の混じった声を荒らげる。
「な、なに者なんだ?」「彼は、もと使庁の別当だよ」
建布都神の答えに、大きく目を見開いた。「は? 別当って……検非違使庁の長官か? 猿田彦の家系だろ。なんで?」
「氏は漫ろなり。我、剛なるのみ(家系は無関係だ。わたしが強かっただけだ)」その質問には、猿田彦祖父が直々に回答する。豊布都神に向かって言う。「冠者よ。人の姿貌のみにて思ひ分くこと勿かれ(若造よ。他人を容姿だけで判断するな)」
天照大神は、「お手を煩わせてしまい、詫言(言い訳)のしようもありません」と、猿田彦祖父へ頭を下げる。猿田彦祖父は、ひとこと「ことにもあらず(たいしたことではない)」とだけ言って立ち去った。
「我々が保とうと励んだところで、その秩序を乱すのは、いつも決まって物の怪じゃないか。バカバカしい。そんな奴ら、片っ端より葬れば良いものを!」
息巻く豊布都神に、天照大神は、一瞬だけ悲しそうな表情をする。いつまで経っても理解しない、というより、初めから理解するつもりのない相手に、そこまで時間をかけるというのが、無駄なように思えてならない。彩は怒りを通り超して、もはや呆れ果てていた。言葉を失っている天照大神の気持ちを受け取り、菊理媛神が代弁する。「須らく、総ての人民を愛するべきというのが、先代の教えでした。神という存在も鬼という存在も、本来は目に見えない怪しげなものです。少数派はときとして崇められ、ときには恐れられる存在だったのです。神も妖怪も元を辿れば、そう変わらないのではないでしょうか」
彩は盛大な溜め息を吐いた。「そっ! 誰にだって、和魂も荒魂《あらみたま》もあるでしょうに。そんなことも、わからないなんて。天学院から、やりなおしたら? それとも衆怪院がご所望かしら?」
「な、なんたる屈辱……! 貴様っ!」
「あら? 貴様だなんて、そんな腰低くならなくて良いざますわよ」
「保食神」彩は自分の神名を呼ばれ、頬に手の甲を当てて高笑いしていたのを一時中断した。敬礼をせんばかりに背筋を伸ばす。民衆へ向きなおった天照大神は、手をパンっと叩いて満面の笑みを浮かべた。「それじゃあ皆さん、大内裏へきてください! 座敷童子たちも。腕に縒りをかけて、時間も時間なので夕食を振る舞いましょうっ!」
「コイツらなんか、たいして働いてもいないのに……」
遊び疲れた様子の座敷童子たちに向かって、今度は建布都神が悪態をつく。本人に聞こえるか聞こえないかの小声で言われるが、いちばん腹が立つ。本当に懲りない連中だ、とつくづく彩は思った。半ばケンカ腰の彩とは違い、いつでも菊理媛神は落ち着いた口調で話す。「『働かざる者食うべからず』とは言いますが、人生において最も重要な仕事は、食べることではないかと思うのです。ほら。『腹が減っては戦ができぬ』とも言うでしょう?」
確かに、と彩は同意した。中国に『民は食を以て天と為す』という言葉がある。食べることは、人民を養っていくうえで、最も大切なものだ。日本でも、たびたび米騒動が起きているように、うまく政治していくうえでも、食の豊かさは欠かせない。それを聞いていた道俣神が、陽気な感じで話に割って入った。「イエース! セイムのライス・ポットをエブリワンでイートするネ! エゲレス式もおんなじヨー! 仲間とカンパニーしようゼ!」
「そうですね! 乾杯しましょう!」
建布都神の悪態を聞いていなかった天照大神は、笑みを湛えたまま大路を進んでいく。道俣神が言ったのは、乾杯ではなくCOMPANY(会社)だ。しかし全面的にこの聞き間違いは、取り立てて説明しなかった道俣神が悪い。彩たちも大内裏へと向かう流れに乗り、天照大神の背中を追って歩き始める。立ち去り際、
「ふんっ」豊布都神と建布都神は、ほぼ同時に鼻を鳴らした。「……なにもなければ良いがな」
「弱い者いじめはやめなさい」褌一丁の猿田彦祖父が、目を閉じたまま低い声を放つ。「大和の民にて、恥ぢに思はずや!(日本人として恥ずかしく思わないのか!)」
「弱い者? 誰のことだ?」まわりを包囲する刑部省の神々から、嘲るような笑いが起こる。「我らに辛き目を見せたる者らぞ。戒めを与ふるのみなり(我々をひどい目に遭わせた者たちである。罰を与えているだけだ)」
豊布都神も同意した。「然れば和らぎをもちて貴しとなす大和の民ぞ、世に余されたる徒ら者は是非許すまじ(だったら、調和を大切にする日本人だからこそ、和を乱す者は、是が非でも許せないな)」
「汝が和らぎ乱したるを覚えよ。大神の定め給ふることに逆ひたる故に(自分自身が和を乱していると自覚しなさい。大神のお決めになったことに逆らっているのだから)」瞼を開けないまま、猿田彦祖父は重々しい口調で言う。「我は案内者にあれど、役は道を認め設くのみならず。大神より、客人はみな饗するやう仰せ出されり(わたしの仕事は案内だが、役目は道路を予め整備するだけではない。大神から、客人は全員もてなすようにと、仰せつかっている)」
「どいつもこいつも……」暗に手を出すなと諭され、豊布都神は歯軋りした。「そんなに物の怪どもと馴れ合いたいのか」
「かばかり申せど心得ぬか。為む方なき痴れ者ぞや(これだけ言っても納得できないのか。どうしようもない馬鹿者だな)」
「んだとっ! やんのか、このジジイ……!」「や! 止むべし!(おい! やめたほうがいい!)」
仲間の制止も聞かずに、豊布都神は、怒り任せの大振りをかます。しかし、瞬殺だった。鞘から抜くのも見えぬ早業で、豊布都神は地べたに倒れ込んでいる。その様子を見て、呆気にとられていると、バタバタ足音が地面を伝わり、響いてきた。霞む目の端に、数柱の神々を伴ってくる谷蟇の姿が見えた。谷蟇同士の情報網でもあるのだろうか、さすが知識の象徴なだけあって、彩たちのやり取りをどこからか聞いていたらしい。応援を連れてきたみたいだ。
「なにをしているんですかっ……!」
その筆頭にいる天照大神が叫ぶ。その声に舌打ちを返し、大半の神々は散り散りになっていった。しかし依然として、建布都神と豊布都神の両名は、その場に残っている。豊布都神に関しては、動きたくても動けなさそうだが。横たわった状態のまま、困惑と憤怒の混じった声を荒らげる。
「な、なに者なんだ?」「彼は、もと使庁の別当だよ」
建布都神の答えに、大きく目を見開いた。「は? 別当って……検非違使庁の長官か? 猿田彦の家系だろ。なんで?」
「氏は漫ろなり。我、剛なるのみ(家系は無関係だ。わたしが強かっただけだ)」その質問には、猿田彦祖父が直々に回答する。豊布都神に向かって言う。「冠者よ。人の姿貌のみにて思ひ分くこと勿かれ(若造よ。他人を容姿だけで判断するな)」
天照大神は、「お手を煩わせてしまい、詫言(言い訳)のしようもありません」と、猿田彦祖父へ頭を下げる。猿田彦祖父は、ひとこと「ことにもあらず(たいしたことではない)」とだけ言って立ち去った。
「我々が保とうと励んだところで、その秩序を乱すのは、いつも決まって物の怪じゃないか。バカバカしい。そんな奴ら、片っ端より葬れば良いものを!」
息巻く豊布都神に、天照大神は、一瞬だけ悲しそうな表情をする。いつまで経っても理解しない、というより、初めから理解するつもりのない相手に、そこまで時間をかけるというのが、無駄なように思えてならない。彩は怒りを通り超して、もはや呆れ果てていた。言葉を失っている天照大神の気持ちを受け取り、菊理媛神が代弁する。「須らく、総ての人民を愛するべきというのが、先代の教えでした。神という存在も鬼という存在も、本来は目に見えない怪しげなものです。少数派はときとして崇められ、ときには恐れられる存在だったのです。神も妖怪も元を辿れば、そう変わらないのではないでしょうか」
彩は盛大な溜め息を吐いた。「そっ! 誰にだって、和魂も荒魂《あらみたま》もあるでしょうに。そんなことも、わからないなんて。天学院から、やりなおしたら? それとも衆怪院がご所望かしら?」
「な、なんたる屈辱……! 貴様っ!」
「あら? 貴様だなんて、そんな腰低くならなくて良いざますわよ」
「保食神」彩は自分の神名を呼ばれ、頬に手の甲を当てて高笑いしていたのを一時中断した。敬礼をせんばかりに背筋を伸ばす。民衆へ向きなおった天照大神は、手をパンっと叩いて満面の笑みを浮かべた。「それじゃあ皆さん、大内裏へきてください! 座敷童子たちも。腕に縒りをかけて、時間も時間なので夕食を振る舞いましょうっ!」
「コイツらなんか、たいして働いてもいないのに……」
遊び疲れた様子の座敷童子たちに向かって、今度は建布都神が悪態をつく。本人に聞こえるか聞こえないかの小声で言われるが、いちばん腹が立つ。本当に懲りない連中だ、とつくづく彩は思った。半ばケンカ腰の彩とは違い、いつでも菊理媛神は落ち着いた口調で話す。「『働かざる者食うべからず』とは言いますが、人生において最も重要な仕事は、食べることではないかと思うのです。ほら。『腹が減っては戦ができぬ』とも言うでしょう?」
確かに、と彩は同意した。中国に『民は食を以て天と為す』という言葉がある。食べることは、人民を養っていくうえで、最も大切なものだ。日本でも、たびたび米騒動が起きているように、うまく政治していくうえでも、食の豊かさは欠かせない。それを聞いていた道俣神が、陽気な感じで話に割って入った。「イエース! セイムのライス・ポットをエブリワンでイートするネ! エゲレス式もおんなじヨー! 仲間とカンパニーしようゼ!」
「そうですね! 乾杯しましょう!」
建布都神の悪態を聞いていなかった天照大神は、笑みを湛えたまま大路を進んでいく。道俣神が言ったのは、乾杯ではなくCOMPANY(会社)だ。しかし全面的にこの聞き間違いは、取り立てて説明しなかった道俣神が悪い。彩たちも大内裏へと向かう流れに乗り、天照大神の背中を追って歩き始める。立ち去り際、
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