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エッチするまでの話⑫
しおりを挟む一番古い記憶は淡い光。
そのあとは断片的で、光、揺れる影、光、赤、青、ほらママだよ、リッカ。―――安心する声だ。
ねぇ、見てあなた、笑った。
赤、赤赤赤、赤。
畳の匂い、電球。蝿。汗と、涙。
嬌声、嬌声、嬌声、嬌声、嬌声。
白米を食べた。お片付け。
泣いてる子がいる。
笑った方がいいと言われた。
お母さん。
………?
お母さん。
馬鹿な女だ!
肉、肉肉肉肉、お肉をたくさん食べるといいって。じゃないと大きくなれないから。
石階段。
鉄格子。
木目の柄を数えてみる。
いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち。
雛鳥。
―――安心する声だ。
生まれる前からの記憶がある。
母親のお腹の中、生まれて、視力ができて、ハイハイして、歩いて、走って。二歳頃からの記憶はもうハッキリと覚えていた。
医者にかかったことがないので断言できないが、『瞬間記憶能力』やら『完全記憶能力』と呼ばれる能力なのだと思う。白鶴自身もよく分かっていなかった。
ただ、自分は一度見たものは決して忘れない。
それは特別良いことのようにも思えたが、これまでの人生苦しむことの方が断然多かった。
父親と母親が殺された光景も鮮明に覚えていて、それからのことも勿論、全て覚えている。
孤児院での生活は地獄だった。
子どもは大人よりもずっと純粋で残酷だ。自分の秘密を漏らしてしまえば瞬く間に噂は広がり、正義を執行する。悪魔の子どもは悪魔。退治するのが是だと、彼らは信じて疑わなかった。
白鶴は気が進まなかった。
だけど輪の中で倒れる死にかけの蝉みたいな子どもを断罪しなければ、裏切り者だ!と今度は自分がそれになる。
赤黒い血痕の付いた拳大の石を振り上げて、叩き付けるしか選択肢はなかった。
次々と子どもたちが貰われていくのを、屠殺場に連れられる豚のように哀れんだ。幸せになれるはずがない。教祖の子どもかもしれない孤児を引き取るなど、正気の沙汰とは思えなかった。
用途は色々と考えられる。人身売買か、性処理か、教団への憎悪を晴らすのに孤児は丁度いいだろう。
ひとり、またひとり、消えていく。
次は自分の番だった。
そして―――ひっくり返るかと思うほど驚いた。
ふわふわ、へらへら、にこにこと笑って、貧乏ながらも懸命に愛してくれる血の繋がらない親。
理解が、ちょっとまだ、できなかった。
食事、お風呂、睡眠、学校にも行こうか。友だちができた、勉強して、世界は依然として暗かったが家の中はなぜか明るかった。
ちょっとだけ、幸せだと気付いてきた。
だけどそんなに甘くないもので、その年の夏に母親が死んだ。父の稼ぎで高校を出て、母の保険金で大学に入った。お前の人生の選択肢を広げてやりたいのだと父は笑っていた。
警察官になった。
人並み以上に金を稼ぎ、父に少しでも恩を返せるように懸命に働いた。そして教祖がまだ生きていると知った。
一度足りとも忘れたことのない鮮やかな紅。
父は体を壊して入院生活を余儀なくされた。長年の無理が祟ったのだろう。俺は海外に飛んだ。金はほとんどを父の入院費に充てて、それだけだ。
追いかけて、追いかけて、捨てられて。
置いて行かれた子どもみたいにぽつねんと立ち尽くしたが、いの一番に高めのバーに忍び込んだ。払える金はなかったから、絶対にこの店の客を口説き落とさないとならない。
体を売る。それしか金を稼ぐ方法はない。
身なりの良い男を捕まえて、二人でホテルに向かった。本当は女が良かったがそんな我儘は言ってられないし、今のご時世女が一人で夜の店に来ることなどほとんどない。
でっぷりとした腹は富の証だ。金はあるのだろう。ベッドの上でアルコールを飲んだ。気持ちが良くなる薬だと粉末を混ぜられたが何も言わなかった。正気のまま知らない男に抱かれるなど耐えられる気がしなかったから。
安いドラッグだったのか酷い頭痛がする。
後孔をまともに解かされることもなく怒張を捩じ込まれ、肉の裂ける感覚に悲鳴を上げれば男は喜んだ。内臓がぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。うなじを噛まれて、喉仏を押し潰されて、関節が外れるような体勢で揺さぶられ続けて、何時間もそんな風に玩具みたいに弄ばれた。
気付いた時にはスラム街みたいなところに捨てられていて、手にはぐしゃぐしゃの札が握らされていた。吐き気と倦怠感。ぼんやりと鈍色の空を眺めていたら、ぞろぞろと汚ねぇジジイが集まってくる。
―――汚物にたかる蠅みたいだな。
白鶴が吐き捨てると同時に襲いかかってきた男たちと取っ組み合いをして、命からがら逃げ出した。まだ捜査本部として使われていたビルの一室に戻れば、何をして来たのか一目で分かったのだろう。数日前まで寝食をともにしてきた仲間から侮蔑の目で見られた。四.五十代のおじさん連中は同性愛に理解が乏しく、エリート気質な性格で、体を売るなどと低俗な真似をする白鶴が信じられなかったのだろう。陰口を叩かれ、馬鹿にされたが、一人、また一人と白鶴を見下す者はいなくなる。
誰もが生き抜く術を模索して、結局行き着く先は自分と同じなのだ。
汗水、涎、体中の体液を垂らして、日銭を稼ぐ。心を強く保っていなければ今すぐにでも発狂しそうな日々だった。世界が優しくなることも、救いの手を差し伸べてくれることもない。それでも生きて、生きて、教祖を追いかけることだけを考え続けて、自分の人生に意義と意味を見出さなければ正気ではいられなかった。
体を売らなくても生きていけるようになった。
元より能力の高い集団だったので国によっては重宝されたし、犯罪紛いなことも大きな声では言えないがやった。
教祖は方々で信者を増やし、その国で悪を撒き散らす。白鶴たちが向かうと途端に逃げ出すので教祖専門の警察として名が広がっていった。
日本警察として諸外国を巡った。組織として稼働し始めてからは皆、捨てられる前のような凛々しい顔付きに戻ったし警察官として正しい関係性でいられた。
あの時期はお互いに無かったことにしたがって、誰も過去の話はしない。記憶に蓋をして二度と思い出さないだろう。
そんな時、ふと白鶴は思うのだ。
自分も普通ならば良かった。
記憶は薄れていく。心に傷は残るがそれも時間が解決してくれる。そんな普通の人間ならば、今も夜な夜な吐き気を催して飛び起きることもないだろう。冷や汗を拭って目を瞑っても、つい先ほどの出来事のように鮮明にあれらを思い出してしまう。
忘れられない。
醜悪なおとこたちの卑俗な顔が。サッパリと忘れられる人間ならよかった。
忘れられない。
痛みと、味わいたくもない、それでも確かな快感に嬌声する自分が。仲間と笑っていても、頭の中はいつもそればっかりだ。
忘れられない。
クソジジイどもの歯くそがついた汚い口の中。蛆虫が湧いた赤子の死体。体内からこぼれ落ちる臓物。赤、赤赤赤、鮮血が。
―――全て。
忘れられないのだ。
水滴がグラスを伝ってテーブルを濡らす。水と溶け合って薄くなったビールで喉を潤してみたが、喉の渇きは癒えやしなかった。
フルフェイスからは一ミリも感情は伺えなくて、それがむしろ安心する。同情されたいわけでも、慰めて欲しいわけでもなかったし、エルがそんな感情を抱く奴じゃないとわかっていたから白鶴も初めて自分のことを誰かに話したのだ。
――義父は多分死んだ。
入院費は白鶴の給与から出していた。それが国に捨てられ、仕事を失い、給与も出ず、連絡も取れない。病院を追い出され、働き口も働ける気力もないまま衰弱死したのだろう。
死の間際、父は何を思ったのか。
きっと白鶴を恨んだに決まっている。養子に迎えてくれたのに恩を仇で返したなんて、取らなきゃ良かったと思って死んでいったに違いない。子ども一人いないだけで母と父の生活はもっと楽になれたのに。そうすりゃ過労で倒れることも、もしかしたら母が死ぬこともなかったかもしれない。
心が暗く沈んでいく。
ソファーにもたれると白鶴はそのままズルズルと体を落とした。もう、やだなってどうしようもない虚無感が体と心をズンと重くする。だから酒と煙草と、たまに性欲に逃げた。そうじゃなきゃやってらんないから。
「―――私は」
ついに言葉を発した相棒に白鶴は目だけでチラリと見た。
「この仕事を終えたら新大陸へ向かう」
ふーん、と気のない相槌を打って、そういや新大陸ってどこにあるんだろうと純粋な疑問が湧く。正直そこまで詳しくない。ただ世界にとって有益な資源に溢れた大地で、それでいてとても危険な場所としか知らない。
噂だと人を食う化け物とか、怪我を一瞬で治せる植物とか、不老不死を手に入れることさえもできると聞く。それが本当なら教団がそこを神の土地と崇めるのもなんとなく頷けた。だが所詮、噂だ。実際に足を踏み入れて帰って来たのは、目の前にいるエルと、その上司しか知り得ない。
記憶を消す果物でもあればいいのに。なんて少し考えて都合が良すぎるかと笑えば、膝を叩くようにエルの手が置かれた。
「山壁を登る魚を見たことは?」
「…………はい?」
岩のように硬く背中に苔を生やしたサイ、オレンジの輪切りみたいに水々しくて半透明なトサカを持つ鳥、体液を吸う水、色鮮やかなキノコ、空気は澄んでいて、空は青々としている。
だけど常に命と隣り合わせだ。
危険生物を覚え、その生態を覚え、弱点を覚え、対処を覚え、道なき道を覚え、全てを覚えなければただの人間など生きては帰れない。
「一緒に行くか、白鶴」
これはスカウトだとエルは言った。
一度捨てられた組織を今度はこちらから捨ててやれ。給与も良く、専用のマンションがあるから住まいにも困らない。これまでの人生全てを忘れてしまうほどの景色と経験を味わせてやる。
命は保証しないし怪我だって耐えないかもしれないけれど。
ただ、そうだな、大袈裟に言うならば世界を救う一員になれる。
―――これほどの大義はないだろう?
エルのシールドに反射した自分の唖然とした顔に、白鶴は吹き出した。
顔を両手で覆い肩が揺れて、ケタケタと笑っているが泣いているようにも見えたのはエルの気のせいだろう。
しばらくそれを眺めていれば、白鶴は目尻の涙を指で拭ってまた笑う。今度は優しい微笑みだった。
数度頷いて、頷いて、何かを決めたようにエルを見る。それから真面目な顔つきになると、膝に置かれたエルの手を強く掴んだ。
向けられた真っ直ぐな瞳の奥は微かに揺れていた。
「俺に、教祖を捕まえさせてくれ」
それは言葉通りの頼みだった。
「アメリカでも、公安の誰かでもない。黒崎を一番最初に捕まえるのは俺がいい」
「……かなり難しいと思うが」
そもそもアメリカは自軍のみで作戦を実行するだろう。白鶴どころか公安ですらそこに入れる余地があるかどうかすら怪しい。それは白鶴も分かっているはず。だからこそエルに頼むのだ。
「プライドがとか、仲間と家族の無念を晴らすとか、そんな理由は言わない。俺の、俺だけの為に捕まえたい」
そしたら俺は過去の痛みを忘れられるような気がするんだ。
出会った時と変わらない。邪心のない、純粋な、ただ捕まえたいと強く願う瞳だった。
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