あなたを褒める仕事をしています

えんびあゆ

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佐久間圭一編

第2話 褒め屋は、検索すれば出てくる[2]

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――行くまでに、もう一度やめたくなる

それから二日後。
圭一は、駅から少し離れた雑居ビルの前に立っていた。

午前十一時。
夜勤明けで、身体は眠りたがっているはずなのに、頭だけが妙に冴えている。

こういう日は、だいたい碌なことにならない。

ビルは三階建てで、外壁は少し色褪せていた。
新しくもないし、古すぎもしない。
人の出入りはあるが、目的が分からない建物だ。

入口のガラス扉には、貼り紙がいくつも重なっている。
英会話。
ネイル。
占い。
どれも、圭一の生活とは交わらない言葉だ。

その中に、「レンタルスペース303号室」とだけ書かれた小さな案内があった。

控えめな字。
主張しない配置。

――本当に、ここか。

分かっている。
地図も、住所も、何度も確認した。
なのに、足が止まる。

圭一は無意識に、自分の服装を確認していた。

黒いパーカー。
色の落ちたジーンズ。
スニーカーは、かかとが少し擦り減っている。

清潔ではある。
だが、「ちゃんとしている」と胸を張れる格好でもない。

――浮かないか。
――馬鹿にされないか。
――変な客だと思われないか。

考え出すと、止まらない。

逃げる理由なら、いくらでもある。

仕事で疲れている。
知らない人に会うのは怖い。
お金を払って褒めてもらうなんて、情けない。

それでも、圭一はここに立っている。

二日前、予約完了の画面を閉じたあと、一度も「やっぱりやめよう」と思えなかった。

思えなかった、というより。
思っても、すぐに消えてしまった。

――行かない理由が、もう残っていなかった。

圭一はガラス扉を押した。

中は思ったより静かだった。
駅前の雑踏が一気に遠のく。

正面に、階段。
エレベーターはない。

――三階。

たったそれだけの距離が、やけに遠い。

一段、上る。
靴音が、想像以上に響く。

二段、三段。

夜勤明けの身体は正直で、足が少し重い。
それでも、止まらない。

踊り場で、圭一は一度だけ立ち止まった。

手すりに触れる。
冷たい。

――帰れる。

ここで引き返せば、誰にも知られない。
責められる理由もない。

それでも、胸の奥に浮かぶのは、
検索窓に打ち込んだ、あの言葉だった。

「褒めてほしい」

あれは、冗談じゃなかった。
弱音を装った言い訳でもなかった。

――誰かに、ちゃんと見てほしかった。

役に立つかどうかじゃない。
仕事ができるかどうかでもない。

ただ、生きている自分を。

圭一は、もう一度だけ深呼吸をして、階段を上った。

三階。
短い廊下の突き当たりに、303号室がある。

扉の横に、小さな表札が貼られている。
手書きの字で、「本日:予約あり」とだけ。
その文字を見た瞬間、胸が小さく跳ねた。

――俺のことだ。

そう思うと、急に現実味が増す。

圭一はノックをした。
二回。
力は入っていない。

「……失礼します」

返事はすぐだった。
「どうぞ」

女の声。
落ち着いている。
感情が前に出てこない。
それだけで、背中が少し強張る。


ドアを開けると、部屋は思ったより明るかった。
部屋は、拍子抜けするほど普通だった。

白い壁。
小さな机。
椅子が二脚。

アロマも、音楽も、装飾もない。

あるのは、電気ケトルと紙コップ。
メモ帳とペン。

――演出がない。

それが、なぜか怖い。

そして、椅子の向こう側に女性が座っていた。

年齢は三十前後だろうか。
髪は肩の少し上で揃えられていて、派手さはない。
服もシンプルで、色は落ち着いている。

だけど、目だけが妙に澄んでいた。
澄んでいるのに、距離がある。
近づけない水面みたいな目。

「佐久間さん、ですよね。佐久間圭一さん」

名前を呼ばれただけで、圭一は背筋が伸びた。
自分が“客”として扱われていると分かったからだ。
変に慰められるより、よほど楽だった。

「はい。……佐久間です」

「三枝しの(さえぐさしの)です。今日は来てくださってありがとうございます」

礼儀正しい声。
優しいと言えば優しい。
でも、温度は一定。
そこが逆にありがたい。

「……えっと。これ、先に」

圭一は封筒を差し出した。
事前決済も可能だったが、彼は現金を選んだ。
形として渡したかった。
自分がここに来たことを、目で確認したかったのだ。

しのは封筒を受け取り、さっと確認してから脇に置いた。

「では、一時間です。途中でやめたくなったら、やめて大丈夫です。無理はしないでください」

その言い方も、慰めじゃない。
ルールの説明だ。
だから圭一は頷けた。

「褒めてほしいポイント、空欄でしたね」

しのが、メモ帳に視線を落とす。

「……すみません。書けなくて」

視線を落とす。
圭一の声は、自分でも情けないほど小さかった。
しのは、責めるように見ない。
ただ、淡々と頷く。

「大丈夫です。書けない方の方が多いです」

それが本当かどうかは分からない。
でも圭一は、その言葉で、少しだけ息が抜けた。

「じゃあ、まず、今日ここに来た理由を聞かせてください。褒めてほしい、と思った理由。雑でもいいです」

圭一は口を開けて、すぐに閉じた。
言葉が出ない。
理由なんて、説明できない。

――疲れた。
――ずっと。
――ずっと、何もできていない気がする。
――理由なんて、説明できない。

ただ、耐えられなくなっただけだ。
圭一は、やっとのことで言う。

「……仕事が、夜勤で。コンビニで……」

「はい」

「毎日、同じで……。誰にも必要とされてないっていうか。必要とされてるのは、レジ係としてで……」

しのは、途中で遮らない。
相槌も最小限。
言葉を急がせない。

自分の声が、部屋に残る。
逃げ場がない。

それでも、しのは遮らない。

圭一は、その沈黙の中で初めて気づく。

――ここは、救われる場所じゃない。
――逃げる場所でもない。
――立ち止まる場所だ。

その気づきが、胸の奥を少しだけ締めた。
そして圭一は、まだ知らない。

――この先で、「自分がなぜ褒められたいのか」を自分の口で言わされることになるのを。
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