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えんびあゆ

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宮原蒼太編

第31話 ほめられたことが、よくわからない[4]

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翌日。
空は薄い灰色で、雲が低かった。
冬の午前の光は、明るいのにあたたかくない。

宮原蒼太は、学校の門の前で一度だけ足を止めた。
昨日みたいに固まったわけじゃない。
ただ、胸の奥に小さい石が入っていて、それが歩くたびに転がる感じがした。

ポケットの中には紙がある。
ノートに挟んだはずなのに、朝、もう一度取り出して、結局ポケットに入れた。
紙は薄い。
薄いのに、手で触ると確かにそこにある。

――きょうは それ やめて

蒼太は、頭の中でその一行を読み上げた。
声にしない。声にしたら、震える気がした。

教室に入ると、いつもの匂いがした。
消しゴムのカスと、暖房の乾いた空気と、床のワックス。
友だちの笑い声。椅子の引きずる音。
いつも通りで、蒼太は少しだけほっとした。

“いつも通り”は、嫌なことも連れてくる。
でも、嫌なことだけじゃない。
そのことを、蒼太は昨日の夜に少しだけ思い出した。

席につくと、隣の席はまだ空いていた。
篠原陽菜の席だ。

陽菜は、いつも早い。
早く来て、教科書を机に揃えて、鉛筆を削って、周りに小さく命令して、勝手に場を回す。
先生より先に教室の温度を決めるみたいな子だ。
それなのに今日は、少し遅い。

蒼太は、そのことが気になってしまって、自分に腹が立った。
気にするな。
気にするほど、また言われる。
また、泣く。

そう思っているうちに、教室のドアが勢いよく開いた。

「おっはよー!」

陽菜だった。
赤いマフラーを巻いて、髪が少しだけ跳ねている。
走ってきたみたいに頬が赤い。
机にカバンを投げるように置いて、椅子に座った。

それから、蒼太の方を見た。

「……宮原、今日なんか変」

心臓が跳ねた。
“変”と言われると、蒼太はすぐに悪い方に考える。

「え……」

「いつもより、ぼーっとしてる。寝てないの?」

陽菜の声は、いつものように強い。
でも、いつもと違うところがあった。
“ノロマ”じゃない。
“男子?”でもない。

蒼太は返事に困った。
返事に困ると、黙る。
黙ると、陽菜が勝手に結論を出す。

「ま、いいや。国語のプリント、出した?」

それは命令みたいで、でも助け舟みたいでもあった。
蒼太はランドセルからプリントを探した。

探し方が遅い。
陽菜が舌打ちする。

「ほら、そういうとこ。……はい、これだろ」

陽菜は、自分の机の端に置いてあったプリントを一枚、蒼太の机に滑らせた。
蒼太の名前が書いてある。
昨日、蒼太が出し忘れて、陽菜が拾ったやつだ。

「……あ」

「“あ”じゃない。出し忘れは、迷惑」

言い方はきつい。
でも、行動は、蒼太の穴を塞いでいる。

蒼太の胸の中で、昨日の言葉が小さく動いた。

――同じ人が、同じ言葉を言っていますね。

陽菜は確かに、同じところを叩く。
蒼太が遅いこと。ぼんやりしていること。出し忘れること。
そこは毎日、同じだ。

でも、蒼太はもう一つ、昨日はっきり聞いた。

――違う言葉は?

違う言葉。
たとえば、陽菜が蒼太を“仲間外れ”にする言葉を言ったことがあったか。
“あっち行け”とか、“こっち来るな”とか。
そういうのは、ない。

蒼太は、そこに今朝初めて気づいた。
気づいた瞬間、胸が少し痛かった。
痛いのは、今まで自分が全部まとめて「いじめ」と呼んでいたからだ。

授業が始まる。
先生が黒板に書く。
蒼太はノートを取る。
集中しようとしても、頭の片隅がずっと“今”じゃなく、“放課後”に引っぱられていた。

――公園。

陽菜に呼ばれている。

昨日、陽菜は蒼太の机を拳で軽く叩いて言った。

「放課後、南の公園。来て」

それだけ言って、陽菜は友だちの方へ行った。
友だちは「何それ、呼び出し?」と笑っていた。
陽菜は笑わなかった。
いつもなら、その場を面白くするために何か言うはずなのに。

蒼太は、その“笑わなかった”が怖かった。
笑いがないと、陽菜が何を考えているか分からない。

授業の合間、蒼太は何度もポケットに手を入れそうになった。
紙を確認したくなる。
触れば落ち着く気がする。
でも、触った瞬間に、昨日の場所がバレそうでやめた。

給食の時間。
陽菜は蒼太の牛乳パックの開け方を見て、いつも通り言った。

「宮原、それ逆。ほんと不器用」

蒼太は小さく「うん」と言った。
言い返したい気持ちは、少しだけある。
でも、その少しが育つ前に、陽菜が続けた。

「……でもさ」

言い方が、少しだけ変だった。
いつもは切って終わるのに、今日は“続き”があった。

「牛乳、ちゃんと飲め。今日寒いんだから」

蒼太は目を丸くした。
その言葉は、褒めでもないし、からかいでもない。
ただの指示。
ただの世話。

蒼太は、返事が遅れた。
遅れたから、陽菜が眉を寄せる。

「なに、その顔。意味わかんない。……ほら、早く食べろ」

きつい。
でも、蒼太は気づいてしまった。
陽菜はいつも、“蒼太の手が止まる瞬間”に言葉を投げてくる。
止まると、詰まると、蒼太は泣く。
陽菜はそれを嫌がっているように見えるのに、止まらせないように押してくる。

押し方が雑で、痛い。
でも、押している。

そのことが、蒼太の中でゆっくり形になっていった。
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