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三枝しの編
第39話 褒め屋は誰にも救われない[3]
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しのは本業の仕事に従事していた。
オンライン会議の画面は、いつもより静かだった。
参加者の名前が縦に並び、何人かのカメラはオフのまま。
声だけが淡々と行き来する。
進行役が議題を読み上げ、数字と期限と確認事項が順番に置かれていく。
三枝しのは、マイクをオフにしたまま、画面を見ていた。
発言が必要なところだけ、タイミングを逃さずに口を開く。
感情は乗せない。
事実だけを、短く。
それで十分だった。
――仕事は、問題なく進んでいる。
そう判断できる状態は、しのにとって心地よかった。
不安もない。
高揚もない。
ただ、滞りがない。
進行役が「では次の件です」と言い、画面が切り替わる。
新しく表示されたウィンドウの中に、しのは一瞬、視線を留めた。
名前を、読む。
――栗原雅子
昔の上司――すぐには、確信しなかった。
数年ぶりだ。
髪型も、違う。
画面の向こうの女性は、首の真ん中あたりで切り揃えたショートヘアだった。
以前のように長い髪をまとめてはいない。
輪郭が、はっきりしている。
それでも。
姿勢。
視線の置き方。
言葉を発する前の、ほんの一拍の間。
――ああ、としのは思った。
本人だ。
雅子はカメラをオンにしていた。
表情は落ち着いている。
年齢は、四十代後半だろう。
肌に張りはないが、衰えた印象もない。
背筋がまっすぐで、画面越しでも身体の軸がぶれない。
「こちらの件ですが」
雅子が話し始める。
声は低く、よく通る。
語尾を伸ばさない。
感情を混ぜない。
内容は、的確だった。
無駄がなく、反論もない。
会議の流れが、わずかに整う。
しのは聞きながら、自分の発言の順番を待つ。
呼ばれ、短く意見を述べる。
事実と選択肢を提示するだけ。
「なるほど」「助かります」と、他の参加者が言う。
画面の端で、誰かがうなずく。
雅子は、何も言わない。
否定もしない。
評価もしない。
ただ、そのまま次の話題へ進める。
しのは、それを見ていた。
――ああ、と、もう一度思う。
変わっていない。
会議の音声が、少し遠のく。
画面は見ているのに、意識が別の場所へ滑る。
改札の前で、立ち止まった朝のことが浮かんだ。
定期券を持った手が宙に浮いたまま、身体が動かなかった。
人の流れだけが進んでいく。
スーツの肩が擦れ、コートの裾が揺れる。
背後から、短く呼ばれた。
「三枝」
振り返ると、雅子が立っていた。
当時は、長い髪をきちんとまとめていた。
姿勢は、今と同じだった。
「……すみません」
事情ではなく、謝罪が口から出た。
止まっていることが、悪いことだと思っていたから。
雅子は、眉も動かさずに言った。
「止まっていい。今、止まってるでしょ」
断定。
感情のない声。
「でも……」
「でも、じゃない」
それだけで、逃げ道が消えた。
「止まることは、悪いことじゃない」
あの言葉は、慰めではなかった。
許しでも、励ましでもない。
ただの、事実だった。
――今、止まっている。
――止まること自体は、間違いではない。
それ以上でも、それ以下でもない。
その後も、雅子はしのを褒めなかった。
仕事を任せた。
守った。
判断を委ねた。
でも、「よくやった」とは言わなかった。
「助かった」とも言わなかった。
「あなたが必要だ」とも。
なのに、不思議と壊れなかった。
会議の声が、また近づく。
誰かが「では以上です」と言い、画面が一つずつ消えていく。
最後に残った雅子の画面も、無言のまま暗くなった。
画面が暗くなる、その直前。
ほんの一瞬だけ、音声が戻った。
「……三枝」
名前を呼ぶ声は、昔と同じだった。
業務用でも、親しげでもない。
確認するみたいな、短い呼び方。
しのが顔を上げる前に、雅子は続けた。
「止まることは、悪いことじゃない」
それだけだった。
言い切りでも、助言でもない。
昔、改札の前で言われた言葉と、まったく同じ温度。
しのが何か言う前に、画面は暗くなった。
会議は、完全に終わった。
――褒めなかったんじゃない。
心の中で、言葉が形になる。
――止まる場所を、私のものにしたかっただけだ。
雅子は、しのを止めた。
でも、代わりに走り続ける理由は与えなかった。
止まるかどうかを、選ばせただけだ。
しのは、その後も止まらなかった。
止まれることを知ったまま、走り続けた。
だから今。
誰かを褒める仕事をしている。
言葉を渡す側に立っている。
そして、自分は、受け取らない。
会議を閉じ、パソコンの画面を落とす。
部屋が静かになる。
机の端に置いたスマホが、短く震えた。
通知が一件。
新規予約。
依頼者名:久間崎 一会(くまさき いちえ)
見覚えのない名前だった。
ありふれているようで、どこか引っかかる並び。
しのは、それ以上考えなかった。
初回。
簡単なメモ。
感情のない、いつもの予約。
しのは画面を閉じた。
気づかなかった。
この名前が、あとから何度も思い返されることを。
だけど、今日はそれだけで十分だった。
オンライン会議の画面は、いつもより静かだった。
参加者の名前が縦に並び、何人かのカメラはオフのまま。
声だけが淡々と行き来する。
進行役が議題を読み上げ、数字と期限と確認事項が順番に置かれていく。
三枝しのは、マイクをオフにしたまま、画面を見ていた。
発言が必要なところだけ、タイミングを逃さずに口を開く。
感情は乗せない。
事実だけを、短く。
それで十分だった。
――仕事は、問題なく進んでいる。
そう判断できる状態は、しのにとって心地よかった。
不安もない。
高揚もない。
ただ、滞りがない。
進行役が「では次の件です」と言い、画面が切り替わる。
新しく表示されたウィンドウの中に、しのは一瞬、視線を留めた。
名前を、読む。
――栗原雅子
昔の上司――すぐには、確信しなかった。
数年ぶりだ。
髪型も、違う。
画面の向こうの女性は、首の真ん中あたりで切り揃えたショートヘアだった。
以前のように長い髪をまとめてはいない。
輪郭が、はっきりしている。
それでも。
姿勢。
視線の置き方。
言葉を発する前の、ほんの一拍の間。
――ああ、としのは思った。
本人だ。
雅子はカメラをオンにしていた。
表情は落ち着いている。
年齢は、四十代後半だろう。
肌に張りはないが、衰えた印象もない。
背筋がまっすぐで、画面越しでも身体の軸がぶれない。
「こちらの件ですが」
雅子が話し始める。
声は低く、よく通る。
語尾を伸ばさない。
感情を混ぜない。
内容は、的確だった。
無駄がなく、反論もない。
会議の流れが、わずかに整う。
しのは聞きながら、自分の発言の順番を待つ。
呼ばれ、短く意見を述べる。
事実と選択肢を提示するだけ。
「なるほど」「助かります」と、他の参加者が言う。
画面の端で、誰かがうなずく。
雅子は、何も言わない。
否定もしない。
評価もしない。
ただ、そのまま次の話題へ進める。
しのは、それを見ていた。
――ああ、と、もう一度思う。
変わっていない。
会議の音声が、少し遠のく。
画面は見ているのに、意識が別の場所へ滑る。
改札の前で、立ち止まった朝のことが浮かんだ。
定期券を持った手が宙に浮いたまま、身体が動かなかった。
人の流れだけが進んでいく。
スーツの肩が擦れ、コートの裾が揺れる。
背後から、短く呼ばれた。
「三枝」
振り返ると、雅子が立っていた。
当時は、長い髪をきちんとまとめていた。
姿勢は、今と同じだった。
「……すみません」
事情ではなく、謝罪が口から出た。
止まっていることが、悪いことだと思っていたから。
雅子は、眉も動かさずに言った。
「止まっていい。今、止まってるでしょ」
断定。
感情のない声。
「でも……」
「でも、じゃない」
それだけで、逃げ道が消えた。
「止まることは、悪いことじゃない」
あの言葉は、慰めではなかった。
許しでも、励ましでもない。
ただの、事実だった。
――今、止まっている。
――止まること自体は、間違いではない。
それ以上でも、それ以下でもない。
その後も、雅子はしのを褒めなかった。
仕事を任せた。
守った。
判断を委ねた。
でも、「よくやった」とは言わなかった。
「助かった」とも言わなかった。
「あなたが必要だ」とも。
なのに、不思議と壊れなかった。
会議の声が、また近づく。
誰かが「では以上です」と言い、画面が一つずつ消えていく。
最後に残った雅子の画面も、無言のまま暗くなった。
画面が暗くなる、その直前。
ほんの一瞬だけ、音声が戻った。
「……三枝」
名前を呼ぶ声は、昔と同じだった。
業務用でも、親しげでもない。
確認するみたいな、短い呼び方。
しのが顔を上げる前に、雅子は続けた。
「止まることは、悪いことじゃない」
それだけだった。
言い切りでも、助言でもない。
昔、改札の前で言われた言葉と、まったく同じ温度。
しのが何か言う前に、画面は暗くなった。
会議は、完全に終わった。
――褒めなかったんじゃない。
心の中で、言葉が形になる。
――止まる場所を、私のものにしたかっただけだ。
雅子は、しのを止めた。
でも、代わりに走り続ける理由は与えなかった。
止まるかどうかを、選ばせただけだ。
しのは、その後も止まらなかった。
止まれることを知ったまま、走り続けた。
だから今。
誰かを褒める仕事をしている。
言葉を渡す側に立っている。
そして、自分は、受け取らない。
会議を閉じ、パソコンの画面を落とす。
部屋が静かになる。
机の端に置いたスマホが、短く震えた。
通知が一件。
新規予約。
依頼者名:久間崎 一会(くまさき いちえ)
見覚えのない名前だった。
ありふれているようで、どこか引っかかる並び。
しのは、それ以上考えなかった。
初回。
簡単なメモ。
感情のない、いつもの予約。
しのは画面を閉じた。
気づかなかった。
この名前が、あとから何度も思い返されることを。
だけど、今日はそれだけで十分だった。
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