あなたを褒める仕事をしています

えんびあゆ

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三枝しの編

第40話 褒め屋は誰にも救われない[4]

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春だと気づいたのは、帰り道だった。

夜勤明け、コンビニの自動ドアが閉まる音を背中で聞きながら、圭一は一瞬だけ立ち止まった。
空はまだ暗い。
でも、吐いた息が白くならなかった。

「あれ……」

もう一度、息を吐く。
やっぱり白くならない。

少し前までは、この時間の空気は身体を拒んでいた。
指先がかじかみ、耳の奥が痛んで、息をするたびに「外にいる」という感覚を突きつけられた。
それが今は、ただ冷たいだけだ。

——季節、変わったんだな。

その事実が、少しだけ胸に引っかかった。
季節は、勝手に変わる。
自分がどうであろうと関係なく。

圭一は歩き出しながら、無意識にスマートフォンを取り出した。
通知はない。
特に見る必要もない。

それでも、指が勝手に動く。

三枝しののアカウント。

何度も見ている画面。
見慣れた文字。
見慣れすぎて、安心とも不安とも言えない場所。

投稿は、戻っている。
一時期より、明らかに安定している。

「本日は受付可能です」
「褒めは事実に基づきます」
「治療ではありません」

どれも短い。
以前より、さらに削ぎ落とされている。

そこに、説明はない。
感情もない。
「私は元気です」という報告もない。

——ああ、と思う。

この人は、何も語らないまま続けている。

圭一は、歩きながら投稿をスクロールした。
遡っても、何かが増えているわけじゃない。
むしろ減っている。

それなのに、目が離れない。

なぜだろう、と考える。

最初は、ただの興味だった。
変わった仕事だと思った。
言葉だけを渡す、という発想が面白かった。

次は、安心だった。
自分のことを「否定しない人」がいるという事実が、心地よかった。

その次は……。

圭一は、少しだけ立ち止まった。

——もう、それは終わっているはずだ。

しのに会ったあと、圭一の中で何かは確かに変わった。
夜勤は続いている。
生活も、環境も同じだ。

それでも、自分を殴る言葉が減った。

「だからダメだ」
「結局、何もできていない」
そういう言葉が、頭に浮かんでも、すぐには刺さらない。

——変わったのは、自分だ。

それは、もう否定できない。

それなのに。

なぜ、今も、しののことを見てしまうのか。

圭一はベンチに腰を下ろした。
春先の朝は、人が少ない。
音が少なくて、考え事が浮き彫りになる。

——答えは、たぶん簡単だ。

圭一は、しののことを「わかった気になっていない」。

褒めてもらった。
言葉をもらった。
救われた、と言ってもいい。

でも、その人自身がどうなっているのかは、何も知らない。

変わらず仕事をしている。
止まっていない。
壊れていない。

それだけが見える。

――でも、それは「大丈夫」とは違う。

圭一は、あの日のしのの表情を思い出した。
淡々としていて、優しくて、距離があった。

感情を向けているようで、向けていない。
関わっているようで、踏み込まない。

まるで、自分よりもずっと先にいる人みたいだった。

――この人は、ずっと走っている。

そう思ったとき、圭一は初めて、違和感を覚えた。

自分は、止まっていた。
だから、彼女の言葉に救われた。

でも、彼女自身は、止まったことがあるのだろうか。

止まらずに走り続ける人が、誰かを止める言葉を渡している。

それは、正しい。
間違ってはいない。

でも、圭一の中に引っかかりが残った。

――この人は、自分には向けない言葉を他人には向けている。

それが、気になって仕方なかった。

同情ではない。
恋でもない。
依存とも、少し違う。

もっと単純で、厄介な感覚。

「同じ場所に立って話したことが、一度もない」

それだけだ。
故に彼女自身は逆に褒められたことが無いのかもしれない。

圭一はスマートフォンを見下ろした。
固定投稿にある、予約フォーム。

以前は、開くだけで閉じていた。
今日は、閉じない。

名前の入力欄。

佐久間圭一。

それを書けばいい。
それが一番正しい。

でも、その名前を書いた瞬間、
これは「結果報告」になる気がした。

――あなたのおかげで、変われました。
――ちゃんと生きています。

それを言うために行くのは、違う。

圭一は、しのと「同じ高さ」で話したかった。

救われた側としてではなく、
観測者としてでもなく、
ただの一人として。

そのためには、名前を変える必要があった。

自分の名前。
佐久間圭一。

ローマ字にして、音を崩して、意味を薄めて、偶然みたいにする。

久間崎 一会(くまさき いちえ)。

一会。
一度きり。

――一度きりでいい。

もう、何度も通うつもりはない。
答えをもらうつもりもない。

ただ、今の自分を置いてみたい。
それだけだ。

圭一は、名前を入力した。

久間崎 一会

メモ欄に、短く打つ。

「自分で決めたことが、本当に自分の判断だったのか、確認したいです」

嘘はない。
でも、全部でもない。

送信ボタンの上で、指が止まる。

ここを押せば、
ただのフォロワーではいられなくなる。

圭一は、ゆっくり息を吸って、吐いた。

白くならない。

――春なんだ。

「……いいか」

それは、決意というより、自分への許可だった。

送信。

画面が切り替わり、受付完了の表示が出る。

世界は、何も変わらない。
朝は来て、街は動き、人は働く。

それでも、圭一は分かっていた。

これは、未練じゃない。
やり直しでもない。

「ただ眺めるだけの……傍観者をやめるための一歩」だ。

ベンチから立ち上がり、圭一は空を見上げた。
春の朝は、静かだった。

変わったのは、自分。
でも、確かめる必要があった。

変わらないまま走っている誰かと、
一度だけ、同じ場所に立つために。

圭一は、ゆっくり歩き出した。

季節は、確かに変わっていた。
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