あなたを褒める仕事をしています

えんびあゆ

文字の大きさ
50 / 50
エピローグ

最終話 あなたを褒める仕事をしています

しおりを挟む
通知音は、突然だった。

三枝しのは、湯を沸かしている途中でそれに気づいた。
キッチンの隅に置いたスマートフォンが、机の上でわずかに震える。

反射的に振り向いて、すぐに視線を戻した。

——まだ、いい。

火を止め、カップに湯を注ぐ。
白い湯気が立ちのぼり、いつものように数秒で消える。

以前なら、通知音が鳴った瞬間に手が動いていた。
誰からの連絡か。
依頼か、キャンセルか、ただの問い合わせか。

今は、違う。

カップを持って椅子に座り、深呼吸を一つしてから、ようやくスマートフォンを手に取る。

新規予約。

名前は知らない。
内容は短い。

「少し、話を聞いてほしいです」

しのは画面を閉じた。

拒否でも、承認でもない。
ただ、いったん閉じた。

――逃げていない。
――急いでもいない。

そのことを、今の自分がちゃんと分かっている。

 

予約を止めていた数日のあいだ、しのはほとんど何もしていなかった。

仕事用の資料も、過去のメモも、開いていない。
褒めのフレーズを書き溜めていたノートにも触れていない。

代わりに、よく歩いた。

意味もなく、遠回りをして帰る日が増えた。
公園のベンチに座って、誰かの話し声を聞いた。
自分とは関係のない笑い声や、愚痴や、沈黙。

誰も、しのを必要としていない時間。

それを、思ったより長く受け止められた。

 

ある日、散歩の帰りに、ふと昔の依頼者たちの顔が浮かんだ。

白石ゆい。
承認を求める癖に、自分で気づいた人。

小川正平。
六十九歳まで働いてきた事実を、「すごいですね」ではなく、ただの事実として置かれた人。

芹沢ひなた。
「今日ここに来た」と言われて、泣かずに笑った人。

芦原大地。
納得した理由を、最後まで言葉にしなかった人。

宮原蒼太。
「きょうは それ やめて」それだけで進んでいくことが出来た人。

佐藤美代子。
褒めを確認の手段としたが、届かなかった人。

どの人も、人生が変わったわけではない。
問題が解決したわけでもない。

それでも、それぞれの時間に、確かに「言葉が置かれた瞬間」があった。

しのは、その事実だけを思い出していた。

 

そして、どうしても一人、浮かんでしまう顔があった。

佐久間圭一。
――久間崎一会。

最後のセッションのあと、彼から連絡は来ていない。

それでいい、と分かっている。

彼は「報告」をして帰った。
それ以上のやり取りは、必要なかった。

けれど、しのは時折、SNSを開く。

彼の投稿は多くない。
仕事の愚痴も、前向きな宣言もない。

ただ、たまに。

夜勤明けらしい時間帯に、短い文章が上がる。

「今日は、まあまあだった」

それだけ。

いい日でも、悪い日でもない。
評価を求めるでもなく、褒めを欲しがるでもない。

その文面を見るたびに、しのは胸の奥が静かに動く。

——生きている。

それだけで、十分だと思えた。

 

再び、スマートフォンの画面を見る。

新規予約の通知は、まだ残っている。

しのは、予約画面を開いた。

そして、初めて条件欄に文字を打つ。

「今日は、私の話もしていいですか」

それは条件ではなかった。
許可を求めているわけでもない。

ただの、宣言。

送信。

予約は、確定した。

 

当日。

しのは、いつもより少し早く部屋を整えた。
机の上には、ペンとメモ帳。
以前と同じ配置。

でも、違う。

「褒めの言葉」を用意するためではない。

何かが起きたときに、書いてもいい場所として、そこに置いただけだ。

ノックの音がする。

「どうぞ」

扉が開き、依頼者が入ってくる。

緊張した様子の、見知らぬ人。

以前なら、ここで一瞬の間に判断していた。
この人は、どんな褒めを求めているか。
どこが一番、弱っているか。

今は、違う。

ただ、座る姿勢を見る。
呼吸の速さを感じる。

「今日は……」
依頼者が口を開く。

しのは、先に言った。

「その前に、一つだけ」

依頼者が戸惑ったように顔を上げる。

「今日は、私の話もしていいですか」

一瞬の沈黙。

そして、依頼者は小さく頷いた。

「……はい」

それだけで、十分だった。

 

セッション中。

依頼者が、ふと尋ねる。

「……褒め屋って、どんな仕事なんですか」

しのは、少しだけ考える。

以前なら、難しく説明していた。
自己肯定感がどうとか、言葉の力がどうとか。

今は、違う。
もっと、単純に一言で。

しのは、ほんの少しだけ笑った。

そして、こう答える。

「あなたを褒める仕事をしています」

依頼者は、少し驚いた顔をしてから、困ったように笑った。

「……そうなんですね」

それ以上、何も言わなかった。

しのも、続けなかった。

 

扉が閉まる。

部屋に、静けさが戻る。

しのは、椅子に座ったまま、深く息を吐いた。

褒め屋は、終わっていない。

でも、もう同じではない。

誰も褒めない時間を知っている。
誰にも褒められない時間を、通ってきた。

その上で、もう一度、言葉を扱っている。

それだけで、十分だ。

しのは、机の上のメモ帳を閉じる。

ペンは、置いたまま。

――まだ、書かなくていい。

今日も、言葉は渡された。
でも、それが何だったのかは、すぐに名前をつけなくていい。

空白が、残っている。

その空白に、耐えられる。

しのは、静かにそう思った。

 

褒め屋。
褒めること――否、言葉を渡すこと。

それは、もう肩書きではない。

今のしのにとっては、ただの、選び直した言葉だった。

だから、この仕事を続けるのだ。
そして今日も、これからも――。

――あなたを褒める仕事をしています。

―了―
しおりを挟む
感想 1

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(1件)

マクスウェルの仔猫

タイトルとあらすじに惹かれて投票とお気に入り登録をしました!頑張ってください!(≧▽≦)

2026.01.10 えんびあゆ

応援ありがとうございます!
とても嬉しいです、頑張ります!!

解除

あなたにおすすめの小説

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。

ちゃんと忠告をしましたよ?

柚木ゆず
ファンタジー
 ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。 「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」  アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。  アゼット様。まだ間に合います。  今なら、引き返せますよ? ※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。

お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ

Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。 理由は決まって『従妹ライラ様との用事』 誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。 「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」 二人の想いは、重なり合えるのだろうか …… ※他のサイトにも公開しています。

愛していました。待っていました。でもさようなら。

彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。 やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?

アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。 泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。 16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。 マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。 あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に… もう…我慢しなくても良いですよね? この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。 前作の登場人物達も多数登場する予定です。 マーテルリアのイラストを変更致しました。

父が再婚しました

Ruhuna
ファンタジー
母が亡くなって1ヶ月後に 父が再婚しました

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。