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三枝しの編
第49話 褒め屋は誰にも救われない[13]
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予約の通知が鳴らない朝は、久しぶりだった。
三枝しのは、目覚ましよりも早く目を覚ましたまま、天井を見ていた。
スマートフォンは枕元に置いたまま、画面を確認しない。
以前なら、起きてすぐに通知を確かめていた。
未読のメッセージ。
新規の依頼。
キャンセルの連絡。
それらがあるだけで、一日の輪郭が決まった。
今日は、何もない。
しのはゆっくりと起き上がり、カーテンを少しだけ開ける。
光はいつもと同じ強さで差し込んでくる。
外の世界は、何も変わっていない。
――変わっていない、という事実が、少しだけ怖い。
新規受付を停止してから、何日が経ったのか。
数えようとして、やめた。
数え始めると、「止まっている時間」を測ることになる。
それは、今はしたくなかった。
キッチンで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。
豆の香りが立ち上るまでの数十秒。
この時間も、以前は「何もしない隙間」だった。
今は、ただそこに立っていられる。
カップを持って机の前に座る。
パソコンは閉じたまま。
スケジュール帳も開かない。
何かを始めなければ、と思う気持ちはある。
でも、「何か」を探そうとはしない。
――誰も、私を褒めない。
その言葉が、ふと浮かぶ。
昨日までは、それが仕事だった。
今日は、それが現実だ。
不思議と、胸は痛まなかった。
少し前なら、この沈黙を「失敗」と呼んでいただろう。
売上がない。
評価がない。
必要とされていない。
そう定義して、自分を責めていたはずだ。
でも今は、違う。
評価がない。
だからこそ、比べるものがない。
うまくいっているかもしれない。
失敗しているかもしれない。
何も変わっていないかもしれない。
でも、それを「知りたい」とは思わなかった。
結果を知った瞬間、それはまた「評価」になる。
評価は、比較を生む。
比較は、褒めを呼ぶ。
――私は、もう、それをしない。
決めたわけではない。
誓ったわけでもない。
ただ、今は「しない状態」に耐えている。
スマートフォンが、机の上で静かに光る。
通知ではない。
ただの画面点灯。
反射的に手を伸ばしかけて、止める。
止まる。
この感覚は、少し前に誰かが話していたものと似ている。
途中で、殴るのをやめる話。
フルスイングしない話。
しのは、口元をわずかに緩めた。
――似ている。
誰かに教えた覚えはない。
でも、確かに「渡ってしまったもの」がある。
それは言葉ではなく、態度だったのかもしれない。
昼になっても、連絡は来ない。
予約は入らない。
問い合わせもない。
それでも、しのは仕事机を片づけなかった。
片づける理由がない。
終わった、とは思っていない。
続ける、とも言っていない。
ただ、ここにある。
午後、散歩に出る。
特別な目的はない。
公園のベンチに座り、子どもたちの声を聞く。
犬を連れた人が通り過ぎる。
スマートフォンを見ながら歩く人。
何かを考えている顔。
誰も、しのを知らない。
誰も、彼女に期待していない。
それが、思ったよりも楽だった。
――役割がない、というのは、こんな感じか。
役割がない。
だから、失敗もしない。
「褒め屋」という看板を外したわけではない。
でも、背負っていない。
夕方、部屋に戻る。
机の上に、白紙のメモ帳がある。
以前は、そこに「褒めの言葉」を書き留めていた。
使う予定のフレーズ。
感情の整理用のメモ。
今は、何も書かない。
ペンを手に取る。
一瞬、何かを書きたくなる。
――今日は、誰を救ったか。
――今日は、何を渡したか。
そんな問いが浮かんで、消える。
代わりに、こう思う。
――今日は、何も渡さなかった。
それが、今日の事実だ。
夜になる。
部屋の灯りを落とす。
しのはソファに座り、深く息を吐いた。
誰も褒めない一日。
誰にも褒められない一日。
それを、やり過ごせた。
胸の奥に、かすかな疲れはある。
でも、壊れてはいない。
耐えた、というほど大げさでもない。
逃げた、という感じでもない。
ただ、過ぎた。
――私は、空白に耐えられる。
そう断言はしない。
今日、たまたま大丈夫だっただけかもしれない。
でも、それでいい。
その数日後。
しのは、褒め屋の予約受付を、そっと再開した。
スマートフォンの通知。
新規予約。
しのは、すぐには開かない。
深呼吸を一つする。
逃げない。
急がない。
画面を開く。
名前は、知らない人だった。
内容は、短い。
「一度、話を聞いてほしいです」
しのは、すぐに承認しなかった。
しばらく、指が止まる。
止まること。
空白に耐えること。
それでも前に進むこと。
胸の奥で、何かが静かに動いた。
褒め屋は、終わっていない。
ただ、同じ場所には、もう立っていない。
誰も褒めない。
それでも、何かは残る。
それを「救い」と呼ぶのかどうかは、まだ分からない。
その意味が、ようやく分かり始めていた。
三枝しのは、目覚ましよりも早く目を覚ましたまま、天井を見ていた。
スマートフォンは枕元に置いたまま、画面を確認しない。
以前なら、起きてすぐに通知を確かめていた。
未読のメッセージ。
新規の依頼。
キャンセルの連絡。
それらがあるだけで、一日の輪郭が決まった。
今日は、何もない。
しのはゆっくりと起き上がり、カーテンを少しだけ開ける。
光はいつもと同じ強さで差し込んでくる。
外の世界は、何も変わっていない。
――変わっていない、という事実が、少しだけ怖い。
新規受付を停止してから、何日が経ったのか。
数えようとして、やめた。
数え始めると、「止まっている時間」を測ることになる。
それは、今はしたくなかった。
キッチンで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。
豆の香りが立ち上るまでの数十秒。
この時間も、以前は「何もしない隙間」だった。
今は、ただそこに立っていられる。
カップを持って机の前に座る。
パソコンは閉じたまま。
スケジュール帳も開かない。
何かを始めなければ、と思う気持ちはある。
でも、「何か」を探そうとはしない。
――誰も、私を褒めない。
その言葉が、ふと浮かぶ。
昨日までは、それが仕事だった。
今日は、それが現実だ。
不思議と、胸は痛まなかった。
少し前なら、この沈黙を「失敗」と呼んでいただろう。
売上がない。
評価がない。
必要とされていない。
そう定義して、自分を責めていたはずだ。
でも今は、違う。
評価がない。
だからこそ、比べるものがない。
うまくいっているかもしれない。
失敗しているかもしれない。
何も変わっていないかもしれない。
でも、それを「知りたい」とは思わなかった。
結果を知った瞬間、それはまた「評価」になる。
評価は、比較を生む。
比較は、褒めを呼ぶ。
――私は、もう、それをしない。
決めたわけではない。
誓ったわけでもない。
ただ、今は「しない状態」に耐えている。
スマートフォンが、机の上で静かに光る。
通知ではない。
ただの画面点灯。
反射的に手を伸ばしかけて、止める。
止まる。
この感覚は、少し前に誰かが話していたものと似ている。
途中で、殴るのをやめる話。
フルスイングしない話。
しのは、口元をわずかに緩めた。
――似ている。
誰かに教えた覚えはない。
でも、確かに「渡ってしまったもの」がある。
それは言葉ではなく、態度だったのかもしれない。
昼になっても、連絡は来ない。
予約は入らない。
問い合わせもない。
それでも、しのは仕事机を片づけなかった。
片づける理由がない。
終わった、とは思っていない。
続ける、とも言っていない。
ただ、ここにある。
午後、散歩に出る。
特別な目的はない。
公園のベンチに座り、子どもたちの声を聞く。
犬を連れた人が通り過ぎる。
スマートフォンを見ながら歩く人。
何かを考えている顔。
誰も、しのを知らない。
誰も、彼女に期待していない。
それが、思ったよりも楽だった。
――役割がない、というのは、こんな感じか。
役割がない。
だから、失敗もしない。
「褒め屋」という看板を外したわけではない。
でも、背負っていない。
夕方、部屋に戻る。
机の上に、白紙のメモ帳がある。
以前は、そこに「褒めの言葉」を書き留めていた。
使う予定のフレーズ。
感情の整理用のメモ。
今は、何も書かない。
ペンを手に取る。
一瞬、何かを書きたくなる。
――今日は、誰を救ったか。
――今日は、何を渡したか。
そんな問いが浮かんで、消える。
代わりに、こう思う。
――今日は、何も渡さなかった。
それが、今日の事実だ。
夜になる。
部屋の灯りを落とす。
しのはソファに座り、深く息を吐いた。
誰も褒めない一日。
誰にも褒められない一日。
それを、やり過ごせた。
胸の奥に、かすかな疲れはある。
でも、壊れてはいない。
耐えた、というほど大げさでもない。
逃げた、という感じでもない。
ただ、過ぎた。
――私は、空白に耐えられる。
そう断言はしない。
今日、たまたま大丈夫だっただけかもしれない。
でも、それでいい。
その数日後。
しのは、褒め屋の予約受付を、そっと再開した。
スマートフォンの通知。
新規予約。
しのは、すぐには開かない。
深呼吸を一つする。
逃げない。
急がない。
画面を開く。
名前は、知らない人だった。
内容は、短い。
「一度、話を聞いてほしいです」
しのは、すぐに承認しなかった。
しばらく、指が止まる。
止まること。
空白に耐えること。
それでも前に進むこと。
胸の奥で、何かが静かに動いた。
褒め屋は、終わっていない。
ただ、同じ場所には、もう立っていない。
誰も褒めない。
それでも、何かは残る。
それを「救い」と呼ぶのかどうかは、まだ分からない。
その意味が、ようやく分かり始めていた。
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