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23.泣くな。(ゼロ視点)
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突然、男の身体が大きく震え出す。呻き声を上げながら、何かを恐れている。目を覚ましたかと思ったが、どうやらうなされているようだった。
「い、あ……うぅ……」
男の目から涙が流れ落ちる。鼻梁の山を越えて抱き枕へと吸い込まれていく。涙の河は絶え間なく流れ続ける。
人間の泣き顔など見飽きている。それなのに、涙に濡れて束になった睫毛から目が離せない。朝露に濡れた葉先から生まれた雫のようだと、綺麗だと思った。
人間の体液とは思えないほど澄んでいる気がした。
見入ってしまい、仕事のことは頭から消えていた。初めてのことだった。
ずっと、マリオネットのように任務を遂行することだけが取り柄だった。どんなことにも心を揺さぶられたことなどなかったのに。自分はどうしてしまったのか。
「おい……」
気付けば眠る男に声を掛けていた。愚かな行為だ。自ら面倒ごとを引き起こそうとしていると理解はしていた。
このまま拘束し、脅し、拷問で心身ともに追い詰めるはずが、なぜか、今すぐ悪夢から救ってあげたい衝動に駆られた。
少し、躊躇いながら男の細い腕に触れ、揺らした。
寝入りが深い者でも、それだけで意識が覚醒へと向くはずなのに、目の前の男は全く反応がなかった。これは、睡眠というよりも、昏睡レベル。夢魔に取り憑かれているのではないかとゾッとする。
「おい、起きろ。……照国……京。──照国京、起きろ」
名を呼び、先ほどよりも激しく揺すってみたが、京は一向に目覚める気配がなかった。震える手で抱き枕を何度も握り直している。まるで、母親の乳をねだる赤子のようだった。
ゼロは思わずこめかみに流れる涙を拭い、頭を撫でた。前髪を掻き上げ、さわさわと指を動かす。
──大丈夫だ、心穏やかに眠れ。
泣き止んで欲しいが、どうすればいいのか戸惑うゼロ。慰める方法なんて知らないし、涙を止める方法も知らない。
ゼロは柔らかい絹糸のような髪を丁寧に撫で続けた。こうして誰かの涙を拭うことも、慰めることも初めてで、ゼロは正解が分からないまま京の前髪がスズメの巣状になるまで撫でた。
京は緩やかに表情が穏やかになっていった。もうすぐ悪夢から覚めるかもしれないと、ゼロは慌てて部屋から引き上げた。
あくる日、草木も眠る丑三つ時にゼロは京の元へと向かった。仕事道具は所持しなかった。
ただ、京が苦しんでいないか、ちゃんと穏やかな眠りについているのかを確認すると立ち去った。
それからは麻薬に嵌ったようだった。
なんでも屋の仕事の合間に京の様子を見に行った。夜更けに訪れ、寝苦しそうにもがく姿を見た時は悲しかった。
身を縮め、震える背中を撫で、頬に触れ、大丈夫だと声をかけると、京は寝ぼけながらふわっと綿あめのような笑みを浮かべた。「ばあちゃん」と呼ばれた時には何とも言えない気持ちになったが、握り返された手の暖かさに不満は消え失せた。
しばらくして、ゼロはすっかり気が大きくなっていた。
京に触れるだけではなく、声を顰めることなく話し掛け、さらに食べ物を拝借し、空腹や喉の渇きを満たすようになった。京の冷蔵庫はいつも豊かだ。珈琲も美味いが、四角いプラスチックに入っているおかずが大変美味だった。もしかしたら京の前職は三つ星ホテルのシェフかもしれないとさえ思った。
特に白と赤の糸が絡み合ったものを食した時は衝撃だった。
脳に響く衝撃と、夏を忘れるほどの清涼感……さらに食べるほどに食欲が増すという謎のスパイス(?)が絶妙だ。未知との遭遇──まさにそれだった。
京は天使だ。
長い睫毛、震える瞼、助けを求める白い手、陶器のような滑らかな肌はいつまでも触れていたくなる。可愛い可愛い可愛い。すっごく可愛い。
その頃には京に手を掛けるどころか、どうすれば京を護れるのか……それだけを考えるようになっていた。涎を垂れていようが、汗だくだろうがその清純さは変わらなかった。
仕事は不履行になってしまうので、ペナルティーが発生する。評判が悪くなっても良かった。ゼロは依頼主からの再三の催促連絡をのらりくらりとかわし続けた。
京のそばにいたいと、そう願ってしまった。
その日は雲の多い日だった。
雷雲が発生し、至る箇所で雷鳴が轟いていた。晩に歓楽街で不届き者を一掃する仕事を請け負った後、慌てて京の元へと向かった。
普段より訪問時間が遅くなったのもあるが、雷のせいで、京が更にひどい悪夢に苦しんでいるのではと心配になったからだ。
その日、初めて京に認識されたゼロだったが……慌てていたため返り血を浴びたままの初対面になってしまった。京はうろ覚えだったようで正直ホッとした。
まぁ、その後あろうことかトイレで鉢合わせてしまったので、どうしようもなかった。
それからは認識されたことを良いことに京の元へと通い、ご飯をご馳走になった。ソフレになった。親友、同居仲間になった。穏やかな毎日に荒んだ心が凪いだ。
自分は普通の生活を送れる人間ではない。それなのに馬鹿みたいにしがみ付きたくなった。ずっと、こうしていられたらと、愚かな事を祈ってしまった。
そして、ゼロはミスを犯した。
依頼主の京への執着を見誤っていた。
京はこのままでは消されてしまう……ゼロ以外の刺客たちの手によって。
「い、あ……うぅ……」
男の目から涙が流れ落ちる。鼻梁の山を越えて抱き枕へと吸い込まれていく。涙の河は絶え間なく流れ続ける。
人間の泣き顔など見飽きている。それなのに、涙に濡れて束になった睫毛から目が離せない。朝露に濡れた葉先から生まれた雫のようだと、綺麗だと思った。
人間の体液とは思えないほど澄んでいる気がした。
見入ってしまい、仕事のことは頭から消えていた。初めてのことだった。
ずっと、マリオネットのように任務を遂行することだけが取り柄だった。どんなことにも心を揺さぶられたことなどなかったのに。自分はどうしてしまったのか。
「おい……」
気付けば眠る男に声を掛けていた。愚かな行為だ。自ら面倒ごとを引き起こそうとしていると理解はしていた。
このまま拘束し、脅し、拷問で心身ともに追い詰めるはずが、なぜか、今すぐ悪夢から救ってあげたい衝動に駆られた。
少し、躊躇いながら男の細い腕に触れ、揺らした。
寝入りが深い者でも、それだけで意識が覚醒へと向くはずなのに、目の前の男は全く反応がなかった。これは、睡眠というよりも、昏睡レベル。夢魔に取り憑かれているのではないかとゾッとする。
「おい、起きろ。……照国……京。──照国京、起きろ」
名を呼び、先ほどよりも激しく揺すってみたが、京は一向に目覚める気配がなかった。震える手で抱き枕を何度も握り直している。まるで、母親の乳をねだる赤子のようだった。
ゼロは思わずこめかみに流れる涙を拭い、頭を撫でた。前髪を掻き上げ、さわさわと指を動かす。
──大丈夫だ、心穏やかに眠れ。
泣き止んで欲しいが、どうすればいいのか戸惑うゼロ。慰める方法なんて知らないし、涙を止める方法も知らない。
ゼロは柔らかい絹糸のような髪を丁寧に撫で続けた。こうして誰かの涙を拭うことも、慰めることも初めてで、ゼロは正解が分からないまま京の前髪がスズメの巣状になるまで撫でた。
京は緩やかに表情が穏やかになっていった。もうすぐ悪夢から覚めるかもしれないと、ゼロは慌てて部屋から引き上げた。
あくる日、草木も眠る丑三つ時にゼロは京の元へと向かった。仕事道具は所持しなかった。
ただ、京が苦しんでいないか、ちゃんと穏やかな眠りについているのかを確認すると立ち去った。
それからは麻薬に嵌ったようだった。
なんでも屋の仕事の合間に京の様子を見に行った。夜更けに訪れ、寝苦しそうにもがく姿を見た時は悲しかった。
身を縮め、震える背中を撫で、頬に触れ、大丈夫だと声をかけると、京は寝ぼけながらふわっと綿あめのような笑みを浮かべた。「ばあちゃん」と呼ばれた時には何とも言えない気持ちになったが、握り返された手の暖かさに不満は消え失せた。
しばらくして、ゼロはすっかり気が大きくなっていた。
京に触れるだけではなく、声を顰めることなく話し掛け、さらに食べ物を拝借し、空腹や喉の渇きを満たすようになった。京の冷蔵庫はいつも豊かだ。珈琲も美味いが、四角いプラスチックに入っているおかずが大変美味だった。もしかしたら京の前職は三つ星ホテルのシェフかもしれないとさえ思った。
特に白と赤の糸が絡み合ったものを食した時は衝撃だった。
脳に響く衝撃と、夏を忘れるほどの清涼感……さらに食べるほどに食欲が増すという謎のスパイス(?)が絶妙だ。未知との遭遇──まさにそれだった。
京は天使だ。
長い睫毛、震える瞼、助けを求める白い手、陶器のような滑らかな肌はいつまでも触れていたくなる。可愛い可愛い可愛い。すっごく可愛い。
その頃には京に手を掛けるどころか、どうすれば京を護れるのか……それだけを考えるようになっていた。涎を垂れていようが、汗だくだろうがその清純さは変わらなかった。
仕事は不履行になってしまうので、ペナルティーが発生する。評判が悪くなっても良かった。ゼロは依頼主からの再三の催促連絡をのらりくらりとかわし続けた。
京のそばにいたいと、そう願ってしまった。
その日は雲の多い日だった。
雷雲が発生し、至る箇所で雷鳴が轟いていた。晩に歓楽街で不届き者を一掃する仕事を請け負った後、慌てて京の元へと向かった。
普段より訪問時間が遅くなったのもあるが、雷のせいで、京が更にひどい悪夢に苦しんでいるのではと心配になったからだ。
その日、初めて京に認識されたゼロだったが……慌てていたため返り血を浴びたままの初対面になってしまった。京はうろ覚えだったようで正直ホッとした。
まぁ、その後あろうことかトイレで鉢合わせてしまったので、どうしようもなかった。
それからは認識されたことを良いことに京の元へと通い、ご飯をご馳走になった。ソフレになった。親友、同居仲間になった。穏やかな毎日に荒んだ心が凪いだ。
自分は普通の生活を送れる人間ではない。それなのに馬鹿みたいにしがみ付きたくなった。ずっと、こうしていられたらと、愚かな事を祈ってしまった。
そして、ゼロはミスを犯した。
依頼主の京への執着を見誤っていた。
京はこのままでは消されてしまう……ゼロ以外の刺客たちの手によって。
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