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五
しかし不運は続き… (2)
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「宅急便でーす」
ドアのすぐ外で男の人が叫ぶ。
髪の毛を引っ張る力が緩んだ隙に、彼女を突き飛ばしドアを開けた。
「助けてっ」
肌けたバスローブを掻き寄せながら、外に飛び出した。
「待ちなさいよ」
凄みのある声で持田沙耶華が飛び出してくる。
私は宅配のお兄さんの背後に回った。
「え? えっ?」
若い宅配のお兄さんがオロオロする。
「何もしてないのに、襲われているんです」
「よくも抜け抜けと、巧を寝取っておきながら」
持田沙耶華も宅配のお兄さんの背後に回って、私を捕まえようとする。
その手から逃れようとして、私は転んだ。
「もう逃げられないわよ」
馬乗りになる持田沙耶華に、やめてーと叫ぶ私。
絶体絶命の危機と思った瞬間。
こともあろうに宅配のお兄さんが、スマートフォンで私と持田沙耶華の動画を撮り始めた。
私と持田沙耶華が固まる。
モデルの持田沙耶華はサッと立ち上がると、乱れた髪をかきあげ、カメラ目線で笑顔を作った。
私はその隙をついて、再び宅配のお兄さんの後ろに回り、バスローブを整える。
「それ、今すぐ消してくれる?」
モデルの持田沙耶華は、綺麗なポーズでスマートフォンを指差し命令する。
宅配のお兄さんがポロっとスマートフォンを落とし、あたふたと拾って動画を削除した。
それを確認すると、持田沙耶華は気品を保ったまま一旦玄関に戻り、エステで磨き上げていそうな足をサンダルに滑らせる。
口惜しそうに私を一睨みした後、かつかつとヒールの音を立てながら出て行った。
「助かりました」
私は頭を下げる。
私の胸辺りを見た宅配のお兄さんが慌てて目を反らした。
「ここにサインをお願いします」
バスローブの襟を寄せ直す私に、穢れたものから目を背けるように、宅配のお兄さんがそっぽを向いて伝票とボールペンを渡す。
書き終わると、宅配のお兄さんは私から伝票とボールペンをひったくるように受け取り、駆け出していった。
人前でノーブラ、ノーパン、バスローブ姿はいけない。
宅配のお兄さんの過剰な反応に、いたいけな青年をたぶらかした気分になる。
やれやれと首を振ると、バスルームに戻って洗濯物を乾燥機に入れた。
ふとバスルームのドアの前に置かれた紙袋が目に留まる。
シャワーを浴びる前はなかったから、持田沙耶華の忘れ物かもしれない。
そう思って中身をみると、ボーダーのTシャツにデニム、パンプスが入っている。
もしかして、これは着替えがない私のために、巧が彼女に頼んだ物なんじゃ……
ハッとすると、壁に掛けられた固定電話に突進した。
怒り狂った持田紗耶華が巧に怒りのラインを送っているかもしれない。
巧は仕事中で電話に出ないだろうけど、とにかく留守電にでも事の次第を説明しておかないと。
何度も掛けすぎて暗記した、巧のスマートフォン番号を掛けた。
数回電話が鳴った後、巧本人が出る。
「七瀬?」
いつものように、だるそうな声で私の苗字を呼んだ。
「巧、ごめんっ。たった今、持田沙耶華が来たんだけどっ」
モデルの彼女を芸能人のようにフルネームで呼ぶ。
「巧が私と浮気してるって勘違いして、出て行っちゃったの。どうしよう?」
「あ、いいよ。そう思わせとけば。それより、昨日は大変だったな」
痛くも痒くもなく、巧があっさり話を切り替える。
「そんな私のことより…… そう思わせとけばって。明日から彼女と温泉旅行するって言ってなかった?」
「あーそう。予約はしたけど、これでキャンセルできるな。助かったよ」
逆にお礼を言われる始末だ。
「……別れるつもりだったんだ」
「最近うまくいってなかったんだ。やたらと嫉妬深くなってきて、束縛するしさ。七瀬が火事に遭って俺のマンションに避難しているからって説明したのに、なんで浮気になるんだよ。だから、服一式持って行ってくれって頼んだのに」
「そうそう、服をありがとう。彼女が中に入ってきたとき、バスローブ姿だったから勘違いされちゃったのかも。あれ、彼女専用なんでしょ?」
「まあな」
「シャワー浴びた後、人形の髪を梳いていたら、いきなり彼女がドアに立っていたの。なんで人形の髪を梳いていたのかは、置いておいて――」
電話の向こうで、誰かが巧に話しかける声がする。
「ごめんね、仕事中に電話かけて」
「いいって。ゴールデンウィークで人そんなにいないしさ。七瀬のこと、心配していたんだ。何かあったら、またかけろよ」
巧の言葉が心に染みる。
ありがとうと言って、私は電話を切った。
受話器を戻したところで、めまいがする。
せめて水分補給しないと。
モダンアートのような時計を見ると、もう正午を過ぎたところだった。
水道の水をコップ一杯一気に飲み干して、生き返ったように深呼吸をすると、カウンターにサランラップに包まれたおにぎりが置いてあるのに気づいた。
「大変だったな。見舞金だ。今日はこれで乗り切ろ」という巧のメモと一万円札と一緒に。
わざわざご飯炊いて握ってくれたんだ。
立ったまま、のりが綺麗に巻かれた手作りのおにぎりを頬張った。
空腹が満たされると、気持ちが少しばかり癒される。
着替えて、一日を始めないと。
乾燥機から乾いた下着を取り出し、着替えに取り掛かった。
下着を着た後、ボーダーのTシャツを着て、きついデニムに無理やり体を押し込み、長すぎるデニムの裾をロールアップする。
着替えが済んだら、次にしなければいけないのは……?
どれから手をつけていいのか分からないほど、しなければいけないことが山済みだ。
オールホワイトの部屋に戻って、バタッと倒れるようにベッドにうつ伏せた。
デニムがきつすぎて、絞られるよう。
せめて着替えとか持って逃げていたら役に立ったのに、人形なんか持ってきてしまって。
ハーッとため息をついた。
なんで火事なんか起きたんだろう?
目が覚めたとき、部屋の中に火は見当たらなかったから、私が原因ではないと思うんだけど。
煙に包まれた息苦しさを思い出して、身震いをする。
布団の中に丸くうずくまった。
お気に入りの服も、思い出の写真も、長年住んでいた居心地よい空間も何もかも燃え尽きてしまった。
藤原さんが取り戻してくれたクマゾウでさえ――
あんなに大切にしていたクマゾウなのに、今はさほど落胆を感じない。
――連絡する。
彼はそう言っていたっけ?
別れ際のキスを思い出そうと、私の指が唇に触れた。
たった昨日のことなのに、百年も前に起こった遠い昔のことのようだ。
これからどうしよう?
仕事もないのに。
今後のことを現実的に考えた。
ハローワークに行かないといけないのに、口紅もファンデーションもない。
失業保険の手続きに、離職票がいるんだっけ?
離職票なんて薄い紙きれは、あっと言う間に燃えただろうな。
それどころか、印鑑も銀行の通帳も燃えてしまった。
買ったばかりのスマートフォンまで。
すっかり気落ちして、横になったまま、ぼんやり窓の外を眺めた。
青空が広がって、どこからともなく笑い声が聞こえる。
私はどん底にいるというのに。
本当は、アパートに戻って事故処理をしないといけないのだろうけど、そんな気になれない。
少しずつ買い集めた雑貨とか、初めてのお給料で買ったテーブルとかの無残な燃えカスを見ると、きっと悲しくなる。
また一から買い替えるなんて無理。貯金は生活費に消えていくかもしれないのに。
なんてウジウジ悲嘆に暮れていると、ハタと思い当たった。
火災保険!
私そう言えば、アパートに入居した際、新築でも木造建てだからと心配性の母に説得されて、火災保険に入っていたのだった。
ガバッと体を起こす。
バスルームに戻って髪を素早く整えると、ベッドの下に転がっていた自分のバッグを掴んだ。
持田沙耶華のパンプスに足を滑らせると、勢い良く外に飛び出した。
ドアのすぐ外で男の人が叫ぶ。
髪の毛を引っ張る力が緩んだ隙に、彼女を突き飛ばしドアを開けた。
「助けてっ」
肌けたバスローブを掻き寄せながら、外に飛び出した。
「待ちなさいよ」
凄みのある声で持田沙耶華が飛び出してくる。
私は宅配のお兄さんの背後に回った。
「え? えっ?」
若い宅配のお兄さんがオロオロする。
「何もしてないのに、襲われているんです」
「よくも抜け抜けと、巧を寝取っておきながら」
持田沙耶華も宅配のお兄さんの背後に回って、私を捕まえようとする。
その手から逃れようとして、私は転んだ。
「もう逃げられないわよ」
馬乗りになる持田沙耶華に、やめてーと叫ぶ私。
絶体絶命の危機と思った瞬間。
こともあろうに宅配のお兄さんが、スマートフォンで私と持田沙耶華の動画を撮り始めた。
私と持田沙耶華が固まる。
モデルの持田沙耶華はサッと立ち上がると、乱れた髪をかきあげ、カメラ目線で笑顔を作った。
私はその隙をついて、再び宅配のお兄さんの後ろに回り、バスローブを整える。
「それ、今すぐ消してくれる?」
モデルの持田沙耶華は、綺麗なポーズでスマートフォンを指差し命令する。
宅配のお兄さんがポロっとスマートフォンを落とし、あたふたと拾って動画を削除した。
それを確認すると、持田沙耶華は気品を保ったまま一旦玄関に戻り、エステで磨き上げていそうな足をサンダルに滑らせる。
口惜しそうに私を一睨みした後、かつかつとヒールの音を立てながら出て行った。
「助かりました」
私は頭を下げる。
私の胸辺りを見た宅配のお兄さんが慌てて目を反らした。
「ここにサインをお願いします」
バスローブの襟を寄せ直す私に、穢れたものから目を背けるように、宅配のお兄さんがそっぽを向いて伝票とボールペンを渡す。
書き終わると、宅配のお兄さんは私から伝票とボールペンをひったくるように受け取り、駆け出していった。
人前でノーブラ、ノーパン、バスローブ姿はいけない。
宅配のお兄さんの過剰な反応に、いたいけな青年をたぶらかした気分になる。
やれやれと首を振ると、バスルームに戻って洗濯物を乾燥機に入れた。
ふとバスルームのドアの前に置かれた紙袋が目に留まる。
シャワーを浴びる前はなかったから、持田沙耶華の忘れ物かもしれない。
そう思って中身をみると、ボーダーのTシャツにデニム、パンプスが入っている。
もしかして、これは着替えがない私のために、巧が彼女に頼んだ物なんじゃ……
ハッとすると、壁に掛けられた固定電話に突進した。
怒り狂った持田紗耶華が巧に怒りのラインを送っているかもしれない。
巧は仕事中で電話に出ないだろうけど、とにかく留守電にでも事の次第を説明しておかないと。
何度も掛けすぎて暗記した、巧のスマートフォン番号を掛けた。
数回電話が鳴った後、巧本人が出る。
「七瀬?」
いつものように、だるそうな声で私の苗字を呼んだ。
「巧、ごめんっ。たった今、持田沙耶華が来たんだけどっ」
モデルの彼女を芸能人のようにフルネームで呼ぶ。
「巧が私と浮気してるって勘違いして、出て行っちゃったの。どうしよう?」
「あ、いいよ。そう思わせとけば。それより、昨日は大変だったな」
痛くも痒くもなく、巧があっさり話を切り替える。
「そんな私のことより…… そう思わせとけばって。明日から彼女と温泉旅行するって言ってなかった?」
「あーそう。予約はしたけど、これでキャンセルできるな。助かったよ」
逆にお礼を言われる始末だ。
「……別れるつもりだったんだ」
「最近うまくいってなかったんだ。やたらと嫉妬深くなってきて、束縛するしさ。七瀬が火事に遭って俺のマンションに避難しているからって説明したのに、なんで浮気になるんだよ。だから、服一式持って行ってくれって頼んだのに」
「そうそう、服をありがとう。彼女が中に入ってきたとき、バスローブ姿だったから勘違いされちゃったのかも。あれ、彼女専用なんでしょ?」
「まあな」
「シャワー浴びた後、人形の髪を梳いていたら、いきなり彼女がドアに立っていたの。なんで人形の髪を梳いていたのかは、置いておいて――」
電話の向こうで、誰かが巧に話しかける声がする。
「ごめんね、仕事中に電話かけて」
「いいって。ゴールデンウィークで人そんなにいないしさ。七瀬のこと、心配していたんだ。何かあったら、またかけろよ」
巧の言葉が心に染みる。
ありがとうと言って、私は電話を切った。
受話器を戻したところで、めまいがする。
せめて水分補給しないと。
モダンアートのような時計を見ると、もう正午を過ぎたところだった。
水道の水をコップ一杯一気に飲み干して、生き返ったように深呼吸をすると、カウンターにサランラップに包まれたおにぎりが置いてあるのに気づいた。
「大変だったな。見舞金だ。今日はこれで乗り切ろ」という巧のメモと一万円札と一緒に。
わざわざご飯炊いて握ってくれたんだ。
立ったまま、のりが綺麗に巻かれた手作りのおにぎりを頬張った。
空腹が満たされると、気持ちが少しばかり癒される。
着替えて、一日を始めないと。
乾燥機から乾いた下着を取り出し、着替えに取り掛かった。
下着を着た後、ボーダーのTシャツを着て、きついデニムに無理やり体を押し込み、長すぎるデニムの裾をロールアップする。
着替えが済んだら、次にしなければいけないのは……?
どれから手をつけていいのか分からないほど、しなければいけないことが山済みだ。
オールホワイトの部屋に戻って、バタッと倒れるようにベッドにうつ伏せた。
デニムがきつすぎて、絞られるよう。
せめて着替えとか持って逃げていたら役に立ったのに、人形なんか持ってきてしまって。
ハーッとため息をついた。
なんで火事なんか起きたんだろう?
目が覚めたとき、部屋の中に火は見当たらなかったから、私が原因ではないと思うんだけど。
煙に包まれた息苦しさを思い出して、身震いをする。
布団の中に丸くうずくまった。
お気に入りの服も、思い出の写真も、長年住んでいた居心地よい空間も何もかも燃え尽きてしまった。
藤原さんが取り戻してくれたクマゾウでさえ――
あんなに大切にしていたクマゾウなのに、今はさほど落胆を感じない。
――連絡する。
彼はそう言っていたっけ?
別れ際のキスを思い出そうと、私の指が唇に触れた。
たった昨日のことなのに、百年も前に起こった遠い昔のことのようだ。
これからどうしよう?
仕事もないのに。
今後のことを現実的に考えた。
ハローワークに行かないといけないのに、口紅もファンデーションもない。
失業保険の手続きに、離職票がいるんだっけ?
離職票なんて薄い紙きれは、あっと言う間に燃えただろうな。
それどころか、印鑑も銀行の通帳も燃えてしまった。
買ったばかりのスマートフォンまで。
すっかり気落ちして、横になったまま、ぼんやり窓の外を眺めた。
青空が広がって、どこからともなく笑い声が聞こえる。
私はどん底にいるというのに。
本当は、アパートに戻って事故処理をしないといけないのだろうけど、そんな気になれない。
少しずつ買い集めた雑貨とか、初めてのお給料で買ったテーブルとかの無残な燃えカスを見ると、きっと悲しくなる。
また一から買い替えるなんて無理。貯金は生活費に消えていくかもしれないのに。
なんてウジウジ悲嘆に暮れていると、ハタと思い当たった。
火災保険!
私そう言えば、アパートに入居した際、新築でも木造建てだからと心配性の母に説得されて、火災保険に入っていたのだった。
ガバッと体を起こす。
バスルームに戻って髪を素早く整えると、ベッドの下に転がっていた自分のバッグを掴んだ。
持田沙耶華のパンプスに足を滑らせると、勢い良く外に飛び出した。
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