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1月
2.
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――またね、元気で、そんな言葉は口にできなかった。
*
空港には見送りに行かなかった。
もともと慎一郎の部屋には何も残さなかった。置いておいたのはエプロンと炊事用の手袋とかキッチン周りのものだけだ。ユニセックスなデザインで千晶のものというより単なる台所用品、不要なら処分してくれるだろう。
(そういえば結局東京タワーに行かず終いだったな)
近いところ程いつでも行けると思って行かないものだ。
後期末試験明け、千晶は一番上までのチケットを買った。
お上りさんどころか日本語を話す人のほうが少ないんじゃないだろうか。
色んな国の言葉が混じるなかで見たてんぺんからの景色に何の感慨も抱かなかった。
富士山に沢山のビル群に橋に新しい電波塔もジオラマの一部みたいだ。ただ動いているものがあって営みはそこに確かにある。自宅の方向も海の向こうも霞んでいてここからはわからない、でもその先も存在する。
透明な床は足が竦んで踏み出せなかった、頭では安全だと理解しているのに一歩が踏み出せない。難なく歩く人、おそるおそる乗る人、そして千晶のように一歩も踏み出せない人。
千晶はしばらく眺めて、老若男女でその傾向に差がないと気づくと更に上の階に上がっていった。
記念にベタな栞を買った。家には兄が子供の頃に買ってきた立体パズルと弟が買ってきたスノードームがあったはず。
――シンボルは少し離れた所から見るのがちょうどいい。千晶は振り返って見上げた高すぎるタワーを前に思った。
浜松町駅のホームでは小便小僧が派手な紋付袴姿で致していた。千晶はスマホを取り出し写真に納めた。
***
東京でもここでも慎一郎は群衆の一人だ。千晶のくれた犬耳は暖かい、学生の街だからか皆カジュアルな服装だしこっちの人々はキュートだと声をかけてくれる、
肌ざわりもいい、うちのアフガンハウンドみたいだとか写真をみせてくる人もいて(千晶はグレイハウンドのつもりだった)二度目に会ったときはその犬に脚を抱えられそうになった。
今度のアパートメントは大学の近くの古い4階建ての3階。ジムもプールもないけれど、ペットフレンドリーだから小さなお客が遊びにやってくるかもしれない。
スーツケースを広げ、その中身を探る。その手に触れたものの存在に戸惑う。荷造りをしていて、シーツをどうしようかと迷っているうちについ持ってきてしまった。千晶の為に買ったものでも彼女に渡すのも失礼だろうし、あの部屋に残すのも何か嫌だった。きちんと洗濯してあるし、ただなんとなく持ってきただけ。頬ずりやニオイをかいだりなんてしてない、
――俺は大丈夫だよね、慎一郎はドロップをひとつ口に含んで独り言のようにつぶやいた。
***
「最近会ってないの?」
弟は勘が鋭い。
千晶はバイトに精を出し、空いた時間に友人とも遊ぶ。家にいることが増えたのは受験の弟に代わって家事を引き受けているから、いつもと変わらない日々のつもりだった。
「うん、もともと留学するから春までの期間限定だったし、もう日本にはいないよ」
「そう、……」
千晶の言い方はひどく穏やかで、弟は聞きたいことがあったはずなのに言葉は出なかった。
*
勉強に忙しい――はずの弟はまだ本命の試験が残っているのも構わず自動車教習所に通う。
「私もバイクの免許でも取ろうかな」
「あぁ? 車だけでいいだろ。つーか女がバイク乗ると男が寄ってくんぞ、それも勘違いしたのが」
千晶が独り言のように言えば兄が水を差す。
雪のちらつく今日は兄弟三人と猫二匹でこたつを囲む。
車は両親が大阪へ乗って行ったが、バイクなら家にある、正確に言えば年末にサンタさんから届いたのだ。
「えー、でも車は買えないしなぁ、なっちゃんのスクーターだってあれ車の免許じゃ乗れないでしょ」
「俺の乗る前提かよ…」
「男はどーした、「しっ」車持ってんだろ」
「終わり、気づいてたんだ」
弟の気遣いと、それを無視する兄。千晶は気にした風もなく、淡々と口にした。
「ふーん、あの辺住んでるって金あったんだろ、別れる前に車でも貰えばよかったのに」
無神経な発言を睨む姉弟。だいたいなんで知ってるんだと気味が悪い。
弟は姉にあのバイクを好きにしていいからと言って兄を手で払う。
姉は弟に礼を言ってから、兄に向き直る。
「カズこそオネーサマにご奉仕して車でもマンションでも貢がせたら?」
「ふざけんな、俺はもっと器用に要領よくって言ってんだよ」
たまに帰ってくれば偉そうに、人のことより自分の心配をしろと兄妹はお互いを棚に上げて言い合う。猫たちはやれやれとこたつに潜る。
「カズが言い出したんでしょ。俺は自分で動くとかあえないけどさぁ。カズは器用だもんね。
青山のバレーパーキングでさ、車はマセラティがいいなー」
「ターボSのカブリオレだ」
弟が煽れば、兄は軽く乗ってきた。
「やっすい男だね、僕たちには無理だもんねー、アキ」
「ねー、せいぜい痴情の縺れで刺されたりしないようにね」
「お前らなぁ」
「ねーこー、おにーちゃんはどうしようもないよね」
あと何年かしたら強かに器用になれるだろうか、千晶はこたつに頭をつっこみ猫たちを呼ぶ。ほれほれーー細長いぬいぐるみはひよのお気に入り。齧られ蹴られ、そのうち白い中身が飛び出しそう。
夜が更けると黒猫がちょこんと千晶の隣にやってきて、寝室へと誘う。
歯磨きをしてベッドに入れば、黒猫もふとんに入ってきて千晶の手をペロペロと舐める。千晶も撫で返してゴロゴロと喉を鳴らす音を聴く。
しばらくすると黒猫は出ていって次は弟を寝かしつけ、次いで兄…にはおやつの小袋で懐柔され。
そうして下僕共の寝かしつけが済むと黒猫は銀猫の脚の間に収まって、眠る。
静かな冬の夜。
*
空港には見送りに行かなかった。
もともと慎一郎の部屋には何も残さなかった。置いておいたのはエプロンと炊事用の手袋とかキッチン周りのものだけだ。ユニセックスなデザインで千晶のものというより単なる台所用品、不要なら処分してくれるだろう。
(そういえば結局東京タワーに行かず終いだったな)
近いところ程いつでも行けると思って行かないものだ。
後期末試験明け、千晶は一番上までのチケットを買った。
お上りさんどころか日本語を話す人のほうが少ないんじゃないだろうか。
色んな国の言葉が混じるなかで見たてんぺんからの景色に何の感慨も抱かなかった。
富士山に沢山のビル群に橋に新しい電波塔もジオラマの一部みたいだ。ただ動いているものがあって営みはそこに確かにある。自宅の方向も海の向こうも霞んでいてここからはわからない、でもその先も存在する。
透明な床は足が竦んで踏み出せなかった、頭では安全だと理解しているのに一歩が踏み出せない。難なく歩く人、おそるおそる乗る人、そして千晶のように一歩も踏み出せない人。
千晶はしばらく眺めて、老若男女でその傾向に差がないと気づくと更に上の階に上がっていった。
記念にベタな栞を買った。家には兄が子供の頃に買ってきた立体パズルと弟が買ってきたスノードームがあったはず。
――シンボルは少し離れた所から見るのがちょうどいい。千晶は振り返って見上げた高すぎるタワーを前に思った。
浜松町駅のホームでは小便小僧が派手な紋付袴姿で致していた。千晶はスマホを取り出し写真に納めた。
***
東京でもここでも慎一郎は群衆の一人だ。千晶のくれた犬耳は暖かい、学生の街だからか皆カジュアルな服装だしこっちの人々はキュートだと声をかけてくれる、
肌ざわりもいい、うちのアフガンハウンドみたいだとか写真をみせてくる人もいて(千晶はグレイハウンドのつもりだった)二度目に会ったときはその犬に脚を抱えられそうになった。
今度のアパートメントは大学の近くの古い4階建ての3階。ジムもプールもないけれど、ペットフレンドリーだから小さなお客が遊びにやってくるかもしれない。
スーツケースを広げ、その中身を探る。その手に触れたものの存在に戸惑う。荷造りをしていて、シーツをどうしようかと迷っているうちについ持ってきてしまった。千晶の為に買ったものでも彼女に渡すのも失礼だろうし、あの部屋に残すのも何か嫌だった。きちんと洗濯してあるし、ただなんとなく持ってきただけ。頬ずりやニオイをかいだりなんてしてない、
――俺は大丈夫だよね、慎一郎はドロップをひとつ口に含んで独り言のようにつぶやいた。
***
「最近会ってないの?」
弟は勘が鋭い。
千晶はバイトに精を出し、空いた時間に友人とも遊ぶ。家にいることが増えたのは受験の弟に代わって家事を引き受けているから、いつもと変わらない日々のつもりだった。
「うん、もともと留学するから春までの期間限定だったし、もう日本にはいないよ」
「そう、……」
千晶の言い方はひどく穏やかで、弟は聞きたいことがあったはずなのに言葉は出なかった。
*
勉強に忙しい――はずの弟はまだ本命の試験が残っているのも構わず自動車教習所に通う。
「私もバイクの免許でも取ろうかな」
「あぁ? 車だけでいいだろ。つーか女がバイク乗ると男が寄ってくんぞ、それも勘違いしたのが」
千晶が独り言のように言えば兄が水を差す。
雪のちらつく今日は兄弟三人と猫二匹でこたつを囲む。
車は両親が大阪へ乗って行ったが、バイクなら家にある、正確に言えば年末にサンタさんから届いたのだ。
「えー、でも車は買えないしなぁ、なっちゃんのスクーターだってあれ車の免許じゃ乗れないでしょ」
「俺の乗る前提かよ…」
「男はどーした、「しっ」車持ってんだろ」
「終わり、気づいてたんだ」
弟の気遣いと、それを無視する兄。千晶は気にした風もなく、淡々と口にした。
「ふーん、あの辺住んでるって金あったんだろ、別れる前に車でも貰えばよかったのに」
無神経な発言を睨む姉弟。だいたいなんで知ってるんだと気味が悪い。
弟は姉にあのバイクを好きにしていいからと言って兄を手で払う。
姉は弟に礼を言ってから、兄に向き直る。
「カズこそオネーサマにご奉仕して車でもマンションでも貢がせたら?」
「ふざけんな、俺はもっと器用に要領よくって言ってんだよ」
たまに帰ってくれば偉そうに、人のことより自分の心配をしろと兄妹はお互いを棚に上げて言い合う。猫たちはやれやれとこたつに潜る。
「カズが言い出したんでしょ。俺は自分で動くとかあえないけどさぁ。カズは器用だもんね。
青山のバレーパーキングでさ、車はマセラティがいいなー」
「ターボSのカブリオレだ」
弟が煽れば、兄は軽く乗ってきた。
「やっすい男だね、僕たちには無理だもんねー、アキ」
「ねー、せいぜい痴情の縺れで刺されたりしないようにね」
「お前らなぁ」
「ねーこー、おにーちゃんはどうしようもないよね」
あと何年かしたら強かに器用になれるだろうか、千晶はこたつに頭をつっこみ猫たちを呼ぶ。ほれほれーー細長いぬいぐるみはひよのお気に入り。齧られ蹴られ、そのうち白い中身が飛び出しそう。
夜が更けると黒猫がちょこんと千晶の隣にやってきて、寝室へと誘う。
歯磨きをしてベッドに入れば、黒猫もふとんに入ってきて千晶の手をペロペロと舐める。千晶も撫で返してゴロゴロと喉を鳴らす音を聴く。
しばらくすると黒猫は出ていって次は弟を寝かしつけ、次いで兄…にはおやつの小袋で懐柔され。
そうして下僕共の寝かしつけが済むと黒猫は銀猫の脚の間に収まって、眠る。
静かな冬の夜。
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