73 / 138
偶然
6.
しおりを挟む
翌朝、茶の間の隣の和室を、少し開けた襖の間から姉と弟がそっと覗いて笑っている。そこには布団で眠る慎一郎と、その顔にお尻を付けて寝る大猫と、足元にも黒猫もいる。なんともおかしな光景を、弟は写真に納める。
「…懐いてんね」
「ひよがブレインだから」
慎一郎はまだ夢うつつ。
――頭に触れる暖かさと人の倍以上の早さの鼓動。手を伸ばすとふわふわに触れた。ジェットラグの抜けきらない頭にラジオの音声が入ってくる。それから猫と――アキと弟の声も。
それからしばらくして、慎一郎は大猫の視線と鼻息を感じて目を覚ました。
――よく寝た。
「おはよう、アキは早出、これ昼に予定がなければ食べくれって。要らなければ俺が大学で売り付ける」
「――頂くよ、おいくら?」
「冗談だよ」
少し開いた襖を更に開けると弟が声をかけてきた。一度は寝ぼけて千晶に返事をしていたらしい。弟は笑いながら手に持ったいくつかの折り包みを、新聞に持ち替えて差出し、出立までの時間と朝食を確認する。
「何時に出る? 駅まで乗せてくよ」
「ありがとう」
朝の時間を謙虚さの応酬で無駄にしない、簡潔なやりとりが気持ちいい。弟は声のトーンと話しかたが穏やかで言葉少なさを補って余りある。
猫がまた家を案内してくれる。昨晩遅くまで付き合ってくれたのは猫だけ。適度に休憩を促すように伸びて邪魔をし、電話中はにゃごなご言って会話に加わろうとし、風呂に布団に先導して見守ってくれた。
身支度を済ませると朝食が用意されていた。具沢山の味噌汁に卵焼きに紅鮭に五目豆に青菜、にヨーグルト。
「納豆と生卵がダメだって聞いてる、変わってない?」
「ああ、ありがとう、聞いてるのはそれだけ?」
「それだけだよ、ああ、――期間限定だったのは聞いたよ」
「アキらしいな、そして君も」
弟は軽く目を細めた。
無関心ではない、詮索する必要がないのだろう。聞きたいことは自分で聞く。千晶と同じ色素の薄い髪と肌、彼は以前より背も伸び甘さのなかに男らしさが見えてきていた。ただ、眼の奥は変わらず読めない。
「それなら聞いてもいい? 仕事は何してるの?」
「ただのリサーチャーだよ、
はい、どうぞ」
慎一郎が名刺を差し出すと、ちょっといたずらそうに微笑んだ。
「いいの? 悪用するかもしれないよ」
「悪人なら黙って受け取るさ」
「ふふ、じゃ遠慮なく頂戴いたします。
改めまして、国立商大、商学部経営学科3年 高遠七海です」
「堅実だね、国際関係論の渡辺先生がそっちに移動したって」
「2年で採りましたよ、なかなか面白い視点のセンセで」
「言いようだね、って普通に話してよ」
軽い振りのあと質疑応答が始まった。推論と検証、行く行くは兄姉のサポートも片隅に考えつつ、キャリアと選択肢を広げたい七海は真剣に慎一郎の意見に耳を傾ける。
慎一郎も聞き上手で柔軟性に富み、かつ忌憚のない考えを口にする弟は話し相手に十分だった。
*
紙のランチボックスの中身はサンドウィッチとささみのフライと鶏のから揚げにポテトサラダに果物。これも夕飯同様シンプルな味付けで、フライの下味はほんのりカレースパイスだった。
ごちそうさま、新幹線の車内で食べ終えた慎一郎は車内販売を呼び止めてカップアイスとコーヒーを買った。
――穏やかな家だった。
そっけないようで気遣いのある距離感は猫も弟君も同じだった。けっして美味しいとは言い難いコーヒーも、固すぎるアイスも、あわせて食べると、ほろ苦さと甘さと、熱さと冷たさとがまじりあってとてもいい。まるで、彼らのように。
*
「悪いですねスクーターで」
弟は丁寧に除菌シートで拭いてからヘルメットを渡す。もう一台も乗れないこともないけれど、と彼の視線の先にあるバイクは、リヤステップはつけたままでシングルシート仕様に換えてあった。
さらにもう一台、ガレージで一番スペースを占拠している青い車。なかなか拘る性格らしい弟君は、その軽トラの存在を視界から完全に排除していた。
何も聞かないで、何も聞かないよ、そんな阿吽の呼吸。
慎一郎は代わりに別の話を振る。
「ナツって呼ぶのは夏生まれだからなの?」
「そう、俺は7月で、アキが9月でしょ、俺は予定日10日前だけど父親鬼畜だよね。そのせいで兄貴がアキを橋の下で拾ったっての、アキはほぼ信じちゃってるの」
嘘も百遍、母子手帳も戸籍もどうにでも出来ると吹き込まれている。一方の兄は、散歩中の両親が落ちてきた宇宙船の中から発見したことになっている。
卒業式では兄自身が家族を『宿主一家』だと周囲に紹介していたが、信じた者はいないだろう。どこかできいたような設定を皆笑って流した。
「自己防衛か」
「兄貴が宇宙人てのはネタで済ませてるくせにね」
「…よく似てたけどね」
「でも他人って言われたほうが気楽でしょ、うちは兄妹で比較されないけど意識せずにいられないから」
「それもそうだね」
「ま、アレが弟でなかっただけマシだよ」
千晶は兄弟で一番賢いのは七海だと言う、確かにそうだろう。だが、兄は兄で別次元だ。彼が自分の兄だったら、弟だったら――二人で苦笑する。
「兄貴は4月生まれだけど、誰もハルとは呼ばないんだ、わかるでしょ」
「space odysseyか、やばいね」
エンジンを掛けた弟に続きシートに跨る、オイルの混じった白煙の香りが鼻にくすぐったい。
「サインは肩か足を叩いて、1回でスローダウン、2回でストップね」
「okay, booorn to beee~」
「古っ、そこはQuadrophoniaでしょ」
「peoppppple trry~ ってもっと古いじゃないの」
「ふふっ」
慎一郎がロードムービーの代名詞的な曲を口ずさむと、七海が青春映画を持ち出す。どっちでもいい、気安いやりとりが通じることが二人とも嬉しいのだ。
七海がスロットルを開けると、慎一郎はニーグリップを利かせ、両手を翼のように広げる。
――ベスパでタンデムしたって知ったら彼女はなんて言うだろう。やんちゃな高校生のような童心を笑うだろうか。
「…懐いてんね」
「ひよがブレインだから」
慎一郎はまだ夢うつつ。
――頭に触れる暖かさと人の倍以上の早さの鼓動。手を伸ばすとふわふわに触れた。ジェットラグの抜けきらない頭にラジオの音声が入ってくる。それから猫と――アキと弟の声も。
それからしばらくして、慎一郎は大猫の視線と鼻息を感じて目を覚ました。
――よく寝た。
「おはよう、アキは早出、これ昼に予定がなければ食べくれって。要らなければ俺が大学で売り付ける」
「――頂くよ、おいくら?」
「冗談だよ」
少し開いた襖を更に開けると弟が声をかけてきた。一度は寝ぼけて千晶に返事をしていたらしい。弟は笑いながら手に持ったいくつかの折り包みを、新聞に持ち替えて差出し、出立までの時間と朝食を確認する。
「何時に出る? 駅まで乗せてくよ」
「ありがとう」
朝の時間を謙虚さの応酬で無駄にしない、簡潔なやりとりが気持ちいい。弟は声のトーンと話しかたが穏やかで言葉少なさを補って余りある。
猫がまた家を案内してくれる。昨晩遅くまで付き合ってくれたのは猫だけ。適度に休憩を促すように伸びて邪魔をし、電話中はにゃごなご言って会話に加わろうとし、風呂に布団に先導して見守ってくれた。
身支度を済ませると朝食が用意されていた。具沢山の味噌汁に卵焼きに紅鮭に五目豆に青菜、にヨーグルト。
「納豆と生卵がダメだって聞いてる、変わってない?」
「ああ、ありがとう、聞いてるのはそれだけ?」
「それだけだよ、ああ、――期間限定だったのは聞いたよ」
「アキらしいな、そして君も」
弟は軽く目を細めた。
無関心ではない、詮索する必要がないのだろう。聞きたいことは自分で聞く。千晶と同じ色素の薄い髪と肌、彼は以前より背も伸び甘さのなかに男らしさが見えてきていた。ただ、眼の奥は変わらず読めない。
「それなら聞いてもいい? 仕事は何してるの?」
「ただのリサーチャーだよ、
はい、どうぞ」
慎一郎が名刺を差し出すと、ちょっといたずらそうに微笑んだ。
「いいの? 悪用するかもしれないよ」
「悪人なら黙って受け取るさ」
「ふふ、じゃ遠慮なく頂戴いたします。
改めまして、国立商大、商学部経営学科3年 高遠七海です」
「堅実だね、国際関係論の渡辺先生がそっちに移動したって」
「2年で採りましたよ、なかなか面白い視点のセンセで」
「言いようだね、って普通に話してよ」
軽い振りのあと質疑応答が始まった。推論と検証、行く行くは兄姉のサポートも片隅に考えつつ、キャリアと選択肢を広げたい七海は真剣に慎一郎の意見に耳を傾ける。
慎一郎も聞き上手で柔軟性に富み、かつ忌憚のない考えを口にする弟は話し相手に十分だった。
*
紙のランチボックスの中身はサンドウィッチとささみのフライと鶏のから揚げにポテトサラダに果物。これも夕飯同様シンプルな味付けで、フライの下味はほんのりカレースパイスだった。
ごちそうさま、新幹線の車内で食べ終えた慎一郎は車内販売を呼び止めてカップアイスとコーヒーを買った。
――穏やかな家だった。
そっけないようで気遣いのある距離感は猫も弟君も同じだった。けっして美味しいとは言い難いコーヒーも、固すぎるアイスも、あわせて食べると、ほろ苦さと甘さと、熱さと冷たさとがまじりあってとてもいい。まるで、彼らのように。
*
「悪いですねスクーターで」
弟は丁寧に除菌シートで拭いてからヘルメットを渡す。もう一台も乗れないこともないけれど、と彼の視線の先にあるバイクは、リヤステップはつけたままでシングルシート仕様に換えてあった。
さらにもう一台、ガレージで一番スペースを占拠している青い車。なかなか拘る性格らしい弟君は、その軽トラの存在を視界から完全に排除していた。
何も聞かないで、何も聞かないよ、そんな阿吽の呼吸。
慎一郎は代わりに別の話を振る。
「ナツって呼ぶのは夏生まれだからなの?」
「そう、俺は7月で、アキが9月でしょ、俺は予定日10日前だけど父親鬼畜だよね。そのせいで兄貴がアキを橋の下で拾ったっての、アキはほぼ信じちゃってるの」
嘘も百遍、母子手帳も戸籍もどうにでも出来ると吹き込まれている。一方の兄は、散歩中の両親が落ちてきた宇宙船の中から発見したことになっている。
卒業式では兄自身が家族を『宿主一家』だと周囲に紹介していたが、信じた者はいないだろう。どこかできいたような設定を皆笑って流した。
「自己防衛か」
「兄貴が宇宙人てのはネタで済ませてるくせにね」
「…よく似てたけどね」
「でも他人って言われたほうが気楽でしょ、うちは兄妹で比較されないけど意識せずにいられないから」
「それもそうだね」
「ま、アレが弟でなかっただけマシだよ」
千晶は兄弟で一番賢いのは七海だと言う、確かにそうだろう。だが、兄は兄で別次元だ。彼が自分の兄だったら、弟だったら――二人で苦笑する。
「兄貴は4月生まれだけど、誰もハルとは呼ばないんだ、わかるでしょ」
「space odysseyか、やばいね」
エンジンを掛けた弟に続きシートに跨る、オイルの混じった白煙の香りが鼻にくすぐったい。
「サインは肩か足を叩いて、1回でスローダウン、2回でストップね」
「okay, booorn to beee~」
「古っ、そこはQuadrophoniaでしょ」
「peoppppple trry~ ってもっと古いじゃないの」
「ふふっ」
慎一郎がロードムービーの代名詞的な曲を口ずさむと、七海が青春映画を持ち出す。どっちでもいい、気安いやりとりが通じることが二人とも嬉しいのだ。
七海がスロットルを開けると、慎一郎はニーグリップを利かせ、両手を翼のように広げる。
――ベスパでタンデムしたって知ったら彼女はなんて言うだろう。やんちゃな高校生のような童心を笑うだろうか。
0
あなたにおすすめの小説
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
橘若頭と怖がり姫
真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。
その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。
高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
**2026.01.02start~2026.01.17end**
◆エブリスタ様にも掲載。人気沸騰中です!
https://estar.jp/novels/26513389
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
19時、駅前~俺様上司の振り回しラブ!?~
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
【19時、駅前。片桐】
その日、机の上に貼られていた付箋に戸惑った。
片桐っていうのは隣の課の俺様課長、片桐課長のことでいいんだと思う。
でも私と片桐課長には、同じ営業部にいるってこと以外、なにも接点がない。
なのに、この呼び出しは一体、なんですか……?
笹岡花重
24歳、食品卸会社営業部勤務。
真面目で頑張り屋さん。
嫌と言えない性格。
あとは平凡な女子。
×
片桐樹馬
29歳、食品卸会社勤務。
3課課長兼部長代理
高身長・高学歴・高収入と昔の三高を満たす男。
もちろん、仕事できる。
ただし、俺様。
俺様片桐課長に振り回され、私はどうなっちゃうの……!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる