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蓋然
2.
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今日もいいタイミングだった、慎一郎はエントランスからやたらと着込んで鷹揚に歩く姿がこちらに気づくのを待っていた。
長かった髪は肩下で切りそろえられてワンカール、そのせいかほんの少しまるく若く見えた。何度か目にした隣の男性二人と語り合う雰囲気は以前と同じ。
変わらずおだやかな顔が慎一郎に気づくや、いろんな感情が混じった複雑な顔に変化していく。
すると隣の男が千晶の視線の先を追って苦笑する。もう一人、その隣の男も場の変化に気づき表情を変える代わりに口を開いた。彼らは状況判断が素早い。軽く千晶と言葉を交わすとじゃーなと去って行く。
「真打か」「オッズ比の再――」すれ違い際、慎一郎の耳に何やら聞こえてきた。だが、振り返る余裕はない、なぜなら千晶の視線が射るように近づいてくるから。
その剣呑な面持ちに慎一郎は身構え、とんできた右手を反射的にかわしてしまった。なぜ右手だったのか気づけばよかった。次いで左からの一撃には一瞬遅れた。
「惜しいわー」顔じゃなく真ん中を狙えと通りすがりの声がした。千晶は手をひらひらと振って応える余裕をみせつつ、怒りの感情が強くなっていく。彼女は矯正済みだが本来左利き、渾身の左ストレートが、受け身で引いて形だけしか入ってないのは言われなくても手ごたえで分かったのだ。
慎一郎は痛そうに頬に手をやってみせたが何もかも遅すぎ――どころか余計に怒りを増幅させてしまった。更に悪手を重ねたのは“やれやれどうしたんだい”的な、東京の日本人にはやや大げさなリアクション。
まだ冷静さを失っていない千晶の手を引き場所を移す。無言で眉を寄せているうちは大丈夫。
なだめるように肩を抱くと眉間の皺が深くなる、不機嫌さを現しているうちは大丈夫。
てのひらでぽんぽんと背中を叩いてあやす、腰にも手を廻して触れればその厚みと固さに違和感を覚えた。
改めて千晶の姿を確認する。
Aラインのゆったりしたコート、ラベンダーカラーのそれは千晶の母親のもので、やわらかな厚みがきれいなドレープをつくっている。女の服装に無頓着な慎一郎がそのレトロ感に気づいたかはわからない。
ゆったり目が流行ったという当時のサイズ感が母親より5センチ背の高い彼女にうまくはまっている。襟の形が大振りで今の流行りとは違うが、東京はどんな格好をしていても注目されることはまずない。足元はレギンスの上にレッグウォーマーまで重ねている。
千晶は寒がり、にしても。慎一郎は確かめるように両手をしっかり腰に回す。
千晶は身体をよじり首を横に振る。
――どういう意味なのかは二通り考えられるだろう、彼女がこれほど感情を顕わにしたのは初めてだ。
表情は豊かなのに思い浮かぶのは落ち着いた横顔。いつも冷静沈着、努めてそうしているのではなくて元々の性質らしい。同年代にしては落ち着きすぎている、もともとおだやかな性格なのだろうけれど、時々ひどく消え入りそうに瞳に色がないことがあった。
人の感情に左右されないよう躾けられた。
まっすぐに思いついた感想をもらしてはいけないのに、おもわず微笑みともにこぼれた。
「We got it」
千晶の身体の動きが止まった。――慎一郎は上体をひいて腰を落として顔を合わせ、こめかみに唇をよせた。ほんのりと甘い香りが微かに感じられた。
と、そこへ再び千晶の右手が飛んできた。覚悟して打たれた、左からも来ると覚悟をしたら、下から膝で蹴り揚げられた。教訓、コートの前は閉じておくべし。
「!!!!!」
身体を折り悶絶する慎一郎を、千晶は少し顎を上げて満足そうに睥睨し、一言も発さずに去って行った。
*
「こんばんは」
「どーぞ、上って。どうです?」
「よくないね、――」
慎一郎は千晶を追いかけて自宅までやってきた。弟にすげなく追い返され……もせず、型通りの挨拶と近況と、つまり自然な流れだった。
「髪いいね」
「ありがと、アキが学生最後だからって染めてくれちゃって」弟の髪は長めのアップからシルバーグレイのベリーショートに変わっていた。初めて会った時はまだ前髪を降ろしていた。美少年から青年へ、甘さを残しつつも理知的な印象が強くなっている。
「夕飯は? ちょうどいいや鍋にしよ」一人だったから湯豆腐で済ませるつもりだった、男だけの鍋てのもいいよね、と、ここで、慎一郎が首を傾げる。
「アキは今日は帰らないよ、雌猫も向こう。もう雄猫におやすみって声がしてた」
「…そのアキに殴られた」
板の間まできて、やっと本題。テープで補修され、紐で柱に括り付けられたハイテク給餌器はまだ現役である。
慎一郎は自らの左手を軽く両頬に当てた。少し赤くなっているが寒さのせいにも見える。その程度。それと蹴られた、と目線を下半身に移して少しバツが悪そうに付け足した。
「なるほどね、アキは何か言ってた?」
「いいや、何も言わずにいきなり殴られて、そのまま一言も。ってアキはあれ」
言葉もジェスチャーもしあぐねる。
「さぁ、俺の口からは何とも。藤堂さんは(殴られるような)何か言ったの?」
頬の左手を喉と顎に降ろして、一瞬口ごもる。突然意味もなく怒り出す(ようにみえる)のが女、理由を聞くとさらに怒るのが女、だが、千晶は別だ。
慎一郎のほうが自分をわかっていなかった、彼女の大学を訪ねたのも、ここへ来たのも何も考えなしだったのだから。
何か知っていそうな顔は目の前にも他にも居たのに、誰にも確かめずに真っすぐ来てしまった。
「やったねって」
早く言ったら、という視線に促され、慎一郎は両手を広げて揚げて見せる。正確な言い回しをしていたらここで殴られたに違いない。日本語は主語が曖昧でどうとでもとれる。
「ふーん。でも生きてここまで来れたってことは」弟は首を傾げ、再度、何も言われなかったのか、と確認する。
「俺も殴っていい?」
「ああ」
慎一郎の答えに満足したのか、弟は薄く口角を上げた。腕はだらりと下げたままピクリとも動かない。猫がやってきて慎一郎の足元に纏わり付くと、「今日はやめとくよ」と笑った。
長かった髪は肩下で切りそろえられてワンカール、そのせいかほんの少しまるく若く見えた。何度か目にした隣の男性二人と語り合う雰囲気は以前と同じ。
変わらずおだやかな顔が慎一郎に気づくや、いろんな感情が混じった複雑な顔に変化していく。
すると隣の男が千晶の視線の先を追って苦笑する。もう一人、その隣の男も場の変化に気づき表情を変える代わりに口を開いた。彼らは状況判断が素早い。軽く千晶と言葉を交わすとじゃーなと去って行く。
「真打か」「オッズ比の再――」すれ違い際、慎一郎の耳に何やら聞こえてきた。だが、振り返る余裕はない、なぜなら千晶の視線が射るように近づいてくるから。
その剣呑な面持ちに慎一郎は身構え、とんできた右手を反射的にかわしてしまった。なぜ右手だったのか気づけばよかった。次いで左からの一撃には一瞬遅れた。
「惜しいわー」顔じゃなく真ん中を狙えと通りすがりの声がした。千晶は手をひらひらと振って応える余裕をみせつつ、怒りの感情が強くなっていく。彼女は矯正済みだが本来左利き、渾身の左ストレートが、受け身で引いて形だけしか入ってないのは言われなくても手ごたえで分かったのだ。
慎一郎は痛そうに頬に手をやってみせたが何もかも遅すぎ――どころか余計に怒りを増幅させてしまった。更に悪手を重ねたのは“やれやれどうしたんだい”的な、東京の日本人にはやや大げさなリアクション。
まだ冷静さを失っていない千晶の手を引き場所を移す。無言で眉を寄せているうちは大丈夫。
なだめるように肩を抱くと眉間の皺が深くなる、不機嫌さを現しているうちは大丈夫。
てのひらでぽんぽんと背中を叩いてあやす、腰にも手を廻して触れればその厚みと固さに違和感を覚えた。
改めて千晶の姿を確認する。
Aラインのゆったりしたコート、ラベンダーカラーのそれは千晶の母親のもので、やわらかな厚みがきれいなドレープをつくっている。女の服装に無頓着な慎一郎がそのレトロ感に気づいたかはわからない。
ゆったり目が流行ったという当時のサイズ感が母親より5センチ背の高い彼女にうまくはまっている。襟の形が大振りで今の流行りとは違うが、東京はどんな格好をしていても注目されることはまずない。足元はレギンスの上にレッグウォーマーまで重ねている。
千晶は寒がり、にしても。慎一郎は確かめるように両手をしっかり腰に回す。
千晶は身体をよじり首を横に振る。
――どういう意味なのかは二通り考えられるだろう、彼女がこれほど感情を顕わにしたのは初めてだ。
表情は豊かなのに思い浮かぶのは落ち着いた横顔。いつも冷静沈着、努めてそうしているのではなくて元々の性質らしい。同年代にしては落ち着きすぎている、もともとおだやかな性格なのだろうけれど、時々ひどく消え入りそうに瞳に色がないことがあった。
人の感情に左右されないよう躾けられた。
まっすぐに思いついた感想をもらしてはいけないのに、おもわず微笑みともにこぼれた。
「We got it」
千晶の身体の動きが止まった。――慎一郎は上体をひいて腰を落として顔を合わせ、こめかみに唇をよせた。ほんのりと甘い香りが微かに感じられた。
と、そこへ再び千晶の右手が飛んできた。覚悟して打たれた、左からも来ると覚悟をしたら、下から膝で蹴り揚げられた。教訓、コートの前は閉じておくべし。
「!!!!!」
身体を折り悶絶する慎一郎を、千晶は少し顎を上げて満足そうに睥睨し、一言も発さずに去って行った。
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「こんばんは」
「どーぞ、上って。どうです?」
「よくないね、――」
慎一郎は千晶を追いかけて自宅までやってきた。弟にすげなく追い返され……もせず、型通りの挨拶と近況と、つまり自然な流れだった。
「髪いいね」
「ありがと、アキが学生最後だからって染めてくれちゃって」弟の髪は長めのアップからシルバーグレイのベリーショートに変わっていた。初めて会った時はまだ前髪を降ろしていた。美少年から青年へ、甘さを残しつつも理知的な印象が強くなっている。
「夕飯は? ちょうどいいや鍋にしよ」一人だったから湯豆腐で済ませるつもりだった、男だけの鍋てのもいいよね、と、ここで、慎一郎が首を傾げる。
「アキは今日は帰らないよ、雌猫も向こう。もう雄猫におやすみって声がしてた」
「…そのアキに殴られた」
板の間まできて、やっと本題。テープで補修され、紐で柱に括り付けられたハイテク給餌器はまだ現役である。
慎一郎は自らの左手を軽く両頬に当てた。少し赤くなっているが寒さのせいにも見える。その程度。それと蹴られた、と目線を下半身に移して少しバツが悪そうに付け足した。
「なるほどね、アキは何か言ってた?」
「いいや、何も言わずにいきなり殴られて、そのまま一言も。ってアキはあれ」
言葉もジェスチャーもしあぐねる。
「さぁ、俺の口からは何とも。藤堂さんは(殴られるような)何か言ったの?」
頬の左手を喉と顎に降ろして、一瞬口ごもる。突然意味もなく怒り出す(ようにみえる)のが女、理由を聞くとさらに怒るのが女、だが、千晶は別だ。
慎一郎のほうが自分をわかっていなかった、彼女の大学を訪ねたのも、ここへ来たのも何も考えなしだったのだから。
何か知っていそうな顔は目の前にも他にも居たのに、誰にも確かめずに真っすぐ来てしまった。
「やったねって」
早く言ったら、という視線に促され、慎一郎は両手を広げて揚げて見せる。正確な言い回しをしていたらここで殴られたに違いない。日本語は主語が曖昧でどうとでもとれる。
「ふーん。でも生きてここまで来れたってことは」弟は首を傾げ、再度、何も言われなかったのか、と確認する。
「俺も殴っていい?」
「ああ」
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