Bittersweet Ender 【完】

えびねこ

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願わくは

9.

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 ノープロブレム、言葉通りその後もつつがなく……とは行かなかった。
 動悸がして目の前が真っ暗になり、市役所のベンチで10分ほど休むはめになった、とは娘の戸籍を閲覧しに行った父親の談。多分盛っている。
 千晶も書類を確認すると直嗣にアポを取らせ――た場で、人払いが済むなり初老の男性が無言で慎一郎を殴り、彼も殴り返し、避けては返し、
 直嗣は頭を抱え、彼の祖父はやってくれたなと高笑いをし、怖い者知らずな女は孫と一緒に精密検査を受けてきたらどうかと嫌味を言って返した。白紙の証人になるのも、偽装書類にサインするのもどちらも問題だ。

「おばさんには悪いけど、兄さん位強引でないと前には進まないのかな…」
「直ちゃん…」

 早まるな、君はそういうキャラじゃない。斜め前に座る直嗣の小さな呟きは、千晶にだけ届いた。
 その隣、同じ三人掛けのソファーに座るのが千晶の兄で、その斜め横に座る慎一郎の祖父と、ここは女が少ないだの、あの二人の周りだけだとか、ここまでボディチェックもなかったけれどいいのかとか、しようもない雑談を交わしている。
 慎一郎と初老の男性――見た目にも状況的にも父親――が立ったまま睨み合うのはどうでもいい態である。

(まだ大丈夫そうだけれど、早くしたほうがいいのは確かだな)
 千晶は祖父と父親と慎一郎、と直嗣の頭を見比べ、軽くため息をついた。直嗣も千晶の視線を受け、取り込み中の兄と父にため息をつく。

「これが不肖の父、慧一です。父さん、こちら高遠さんご兄妹、兄さんの友人で――だった千晶さんが兄さんの――、千晶さんの夫が兄さん?」
配偶者すぱぅずね」
「……」
「こんにちは、今日はその件で直嗣さんと次郎さんに時間を作ってもらいました」
 
 父親は慎一郎より数センチ、直嗣より拳ひとつ背が低いだろうか。腹も出でおらず壮健といった印象だ。祖父の次郎も同じ位の背でやや細身、同年代平均より高く、父は当然として祖父も栄養状態は良好であったのだろう。

「慧一、」
「……」

 慧一は無言で千晶を一瞥したきり。次郎のとがめる調子にも変化はない。不肖の息子にふさわしい態度である。

「親子ねぇ?」

 千晶は持参したハーブティを飲みながら独り言のように感想をもらす。誰と誰が、は言っていない。慎一郎は直嗣と父親を見て鼻で笑い、直嗣は胸倉を掴み合う父親と兄に呆れた視線を送る。それを見た次郎と千晶の兄が何をかいわんやと口角を上げる。

「父さんいい年してみっともないですよ。高遠さんに失礼でしょ」
「別にいいよ。子どもの不始末に親が出てくるような年でもないでしょう、まぁ、かわいい息子ちゃんだけでなく親御さんまで共謀したんじゃ――心配よねー」

 あなたは呼んでない、千晶のニュアンスはしっかり伝わっているようで、慧一の蟀谷に血管が浮く。千晶のことは調査済みだろうに、どう報告を受けているのか。
 千晶は慧一の態度をどうとも思っていない。一部の人間には舐められやすい雰囲気なのも自覚している。歓迎されるとは思っていないし、謝られても困る。かといって責められるのもお角違いだ。
 
 慎一郎は面白そうに微笑みながら千晶の隣に座ろうとして追い払われ、渋々向かいのソファーへ座る。
 千晶は慎一郎のことも呼んでくれとは言っていない。

「慎一郎さんも怒ってくれるパパがいてよかったね、なんとかな子ほど可愛いっていうもんね」
「だぁっど、僕は何も間違えてないよ」

 慧一は一瞬瞳目し、怒りのオーラを放つ。直嗣は再び頭を抱えため息をひとつ、他は軽く肩を震わせた。
 
「ちあ、失礼だろ。ご子息は変わった趣味をお持ちでいらして、どなたに似たのでしょう、位にしておきなさい。いやぁ愚妹は口の利き方を知りませんでお恥ずかしい。馬鹿な身内を持つと苦労しますね」
「ええ、まったく。兄は勝手についてきただけですからどうぞお構いなく」

 慇懃な言葉と裏腹にソファーにふんぞり返って足まで組んでいるのが千晶の兄。今日は黒に近い紫のシャドーストライプのスリーピース。千晶はへちまカラーにマーメイドラインのボルドーのツーピース。姿勢よく足を揃え浅く腰掛けている。微笑みから繰り出される言葉は直截すぎるが。
 こんな兄妹も必要とあれば外面を取り繕うのは得意で、両親に頭を下げさせるようなヘマはしなかった。慎一郎もそうだったろう。

「だって面白そうだろ」と兄は言い捨て、妹は虎柄のが好きなんだ、ここのもうまいんだよ、と祖父と雑談混じりにどら焼きを食べ始める。二人はジローちゃんハルちゃんと呼び合っている。

 千晶は横目で軽く息を吐く。兄同伴で正解だったのだろうか。父親や七海では常識的過ぎるし、いきなり代理人もやりすぎな気がしたのだ、もちろん万一に備えに訴状他は預けてきた、余罪も含めて。

 慧一は千晶の兄のことも、ちらっと見ただけで何も言わない。小さく息を整え、自らの気をコントロールしようと努力はしている。思うように冷静になれないのは、年齢的に前頭葉の抑制が効かなくなっているからだろう。

「父さん、興奮して血が昇りすぎると息子のケツ叩くどころか自分のケツを拭けなくなりますよ」
「……」

 とうとう可愛い下の息子にまで品格を疑う言葉で畳みかけられ、父親は思わず千晶を睨む。千晶がそそのかしたと思いたいのだろうが、自分の胸に手を当てたほうがいい。

「僕は叩かれるなら千晶ちゃんがいいw」
「兄さん…」

 千晶は首を振って否定するが、千晶と慎一郎に対する直嗣の視線が微妙に湿り気を帯びていく。彼は兄と嗜好が逆方向、そんなどうでもいい情報を思い出した千晶は再度ゆっくりと首を振って否定する。
 直嗣は千晶の肩を軽く叩くような仕草で頷く。おばさんも大変だね、同情するなら誤解を解いて欲しい。

 慧一は眩暈にも似た感覚に襲われ、空いている一人掛けのソファーに座った。呼んでいない父と息子が千晶と兄の対面という図。席次はもうどうでもいい。
 蟀谷に手を当てたまま小さく息を吐いた息子に、祖父は顎をしゃくる。
 
「ほら、どんな傾城かと思えば豚犬は気立てで選んだと見える位返したらどうだ? お前は冗談のひとつも言えんで」
 
 容赦のない祖父の皮肉に千晶と兄は笑ったが、慎一郎と直嗣は微妙な顔で目を合わせた。そこは笑えよ。
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