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第20話:いじめの証拠
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第3進路室のドアが、遠慮がちに二回ノックされた。
「開いてる」
桐生静が顔を上げると、廊下に立つ女子が鞄の持ち手を握り潰すようにしていた。高瀬ミナ。いつも目だけが先に動く子だ。
「……今、いいですか」
「座って。名前書く?」
静が指したのは、机の端に置いた来室記録の紙だった。ミナはペンに手を伸ばしかけて、やめた。
「書いたら、バレます」
「誰に」
ミナは口を開けて閉じる。喉の奥で言葉が引っかかっているのが見えた。
奥の長机では、山科レオがプリントを広げ、小森シンがスマホの画面を伏せていた。二人とも会話を止めて、視線だけをこちらに寄せる。
静は椅子を一つ引き、ミナと机を挟まない位置に座った。
「書かないでいい。代わりに、何が起きてるか言って」
ミナは鞄を膝に置いたまま、ファスナーを少し開けた。中から出てきたのは、A4のクリアファイル。角が擦れて白くなっている。
「これ……」
静が受け取ろうとすると、ミナは反射で引っ込めた。
「先生、誰にも見せないって言えます?」
「言える。でも、守れる範囲には限界がある」
ミナの眉がわずかに動く。
「……何それ」
「学校の中で動くなら、校内のルールと人が絡む。完全に秘密で解決はできない。だから、先に選択肢を出す」
静は机の上のメモ帳を裏返し、何も書かずに置いた。
「一つ。証拠を集めて、学校に正式に動かせる形にする。二つ。学校が動かない前提で、外の機関につなぐ。三つ。あなた自身の安全を優先して、いったん距離を取る」
「距離って……逃げろってこと?」
「避難。逃げじゃない」
ミナはファイルの端を爪で弾いた。カチ、カチと乾いた音。
「でも、距離取ったら、あいつら勝ちじゃん」
その言い方が、誰かのための怒りだと静にはわかった。本人のためだけなら、ここまで固くならない。
「誰がやられてる」
ミナの視線が、レオとシンを一瞬だけ掠めた。違う。別の場所を見ている目だ。
「……一年。西野。クラス違う」
「西野さん、今どんな状態」
「保健室。昼休みも。教室、無理って」
「担任は」
「『気のせいじゃない?』って。証拠がないって」
ミナの声が少しだけ大きくなって、すぐ自分で抑えた。
静は頷いた。
「だから、集めてる」
ミナはようやくファイルを机に置いた。透明な表紙越しに見えるのは、印刷したスクショと、手書きの時系列。日付、場所、言葉。細かい。
静は一枚だけ抜いて目を通した。グループチャットの画面。名前は伏せてあるが、言葉の刺さり方が生々しい。
「これ、誰が撮った」
「私」
「西野さんのスマホじゃない?」
「違う。……私の」
ミナは言い直した。
「西野のは、取られたら終わるから。私が、見える範囲で」
「見える範囲で、ここまで揃えるのは才能だよ」
静がそう言うと、ミナは顔を上げた。
「……才能とか、いらない」
「いらないなら、捨ててもいい。けど、武器になる。武器は持ってた方がいい」
ミナは唇を噛んだ。痛みをごまかす癖みたいに。
奥でシンが小さく息を吐いた。
「……それ、証拠って言えるの?」
ミナが睨む。シンは肩をすくめた。
「いや、変な意味じゃなくて。学校ってさ、都合悪いと『弱い』って言うじゃん」
レオが低く言った。
「証拠が弱いって言われたら、集めた方が悪いみたいになる」
ミナの指がファイルの端を強く押さえた。
「そう。だから、もっと要る。動画とか。音声とか」
静が即座に首を振った。
「それは危ない」
「でも!」
「危ない。あなたが」
静は声を強めない。短く切る。
「録音や撮影は状況によっては有効。でも、相手に気づかれた瞬間に、あなたが標的になる。学校は守ると言う。でも守れない時がある」
ミナが椅子の背にもたれず、前のめりのまま固まった。
「……じゃあ、どうしろって」
「まず、今あるものを『学校が無視できない形』に整える」
静はファイルを閉じ、机の上に揃えた。
「時系列はいい。スクショもいい。次に必要なのは、第三者のメモ。見た人の名前と、見た日時。あなた一人の記録にしない」
ミナが眉を寄せる。
「誰も書いてくれない。みんな、関わりたくない」
「関わりたくないのは普通。だから、書くのは先生側がやる」
ミナの目が揺れる。
「先生が?」
「私が、あなたから聞いたことを『聞き取り記録』として残す。あと、保健室の利用記録。欠席遅刻の変化。廊下での指導記録。積み上げる」
「それで、動くの?」
「動かすには、校内の窓口を通す必要がある」
静は言葉を選んだ。ここで「教頭」が絡むと、ミナの肩がさらに上がる。
「……生徒指導」
ミナが吐き捨てるように言った。
「生徒指導の先生、あいつらと仲いい」
「仲いい先生もいる。逆に、厳しくする先生もいる。どっちに当たるかは運がある。だから、外の線も同時に引く」
「外って?」
「市の子ども家庭支援の窓口。スクールソーシャルワーカー。必要なら警察の相談窓口もある。今すぐ『事件』にするんじゃなくて、記録を残す相談」
ミナは目を細めた。
「警察とか、やりすぎって言われる」
「言われる。だから順番を作る。『やりすぎ』って言葉で黙らされない順番」
静の声は低いまま、硬い。
「西野さんの安全、あなたの安全、証拠、手続き。これを同時に回す」
ミナはしばらく黙っていた。沈黙の間に、廊下の足音が遠くで反響する。進路室の壁は薄い。
レオが小さく言った。
「……高瀬、これ、誰にも見せてないの?」
ミナが首を横に振る。
「見せたら、広まる」
「広まったら、終わり?」
「……終わり」
ミナの声がかすれた。自分のことじゃないのに、喉が砂を噛む。
静は机の引き出しから封筒を出し、無地のテープで口を留めた。
「ここに入れて。今日の分は私が預かる」
ミナが封筒を見つめる。
「先生、信用していいの」
「信用の代わりに、確認を増やす」
静は封筒に日付を書き、ミナの前に置いた。
「封筒にあなたのサイン。私もサイン。預かった記録を残す。勝手に開けたらバレるようにする」
ミナはペンを握った。書く手が少し震えて、文字が細く歪む。
サインを終えると、ミナは封筒を押し込むように静へ渡した。渡した瞬間、指が離れない。静は引っ張らず、待った。
「……西野、転校したいって言ってる」
ミナが小さく言った。
「逃げたって言われるの、嫌だって」
「転校は逃げじゃない。生き残り」
静は言い切った。
「でも、手続きは簡単じゃない。席があるか、学区、家庭の同意。時間もかかる。だから、今ここで決めなくていい。決めるための材料を集める」
ミナの指がようやく離れた。
「先生、学校はさ……こういうの、嫌がるじゃん」
「嫌がる人はいる」
静の脳裏に、鍵ケースの監査と言った教頭の声が刺さる。数字にならない面倒事を、できるだけ「なかったこと」にしたい空気。
「嫌がる人がいるなら、なおさら記録が必要」
ミナは息を吸って、吐いた。
「……私、成績悪いし。先生たち、私の言うこと、信用しない」
「信用させるのが仕事。あなたの成績は関係ない。関係あるのは、事実の積み方」
静が立ち上がると、ミナも反射で立った。
「今日、放課後、西野さんに会える?」
「保健室にいる。……でも、先生が行ったら、目立つ」
「じゃあ、保健室の先生に先に話す。あなたは廊下で待ってて。二分で戻る」
ミナが頷きかけて、止まった。
「でも、担任にバレたら」
「担任が誰かは知ってる。勝手に話を回さない。必要なときだけ、必要な形で伝える」
ミナはようやく椅子に腰を落とした。落としたというより、力が抜けて沈んだ。
シンがぽつりと言った。
「……証拠集めるの、しんどいよね」
ミナはシンを見ない。
「しんどい。けど、見て見ぬふりの方が、もっとしんどい」
レオが目を伏せたまま、小さく頷いた。
静は封筒を鍵付きのキャビネットに入れた。鍵を回す音が、やけに大きい。
キャビネットの上には、鍵ケースの点検用チェック表が置きっぱなしになっている。黒川の圧が、紙の白さでそこに居座っていた。
静はそれを裏返し、ミナに向き直った。
「高瀬。今から保健室に行く。相沢、ここ、頼める?」
相沢陸は窓際の椅子から背筋を伸ばした。いつからいたのか、静にはわからなかった。彼は来室記録の紙を静の目に入る位置へそっとずらす。
「……はい。誰か来たら、止めます」
「止めるって」
陸は小さく肩をすくめた。
「“今、先生いません”って言うくらいは」
静が頷くと、ミナが立ち上がった。
「私も行きます」
「廊下で待つ。約束」
「……はい」
二人が進路室を出ると、廊下の空気がひやりとした。遠くの職員室側で、誰かが書類を束ねる音がする。
ミナは歩きながら、静の横顔を盗み見た。
「先生、こういうの……怒られますよね」
静は足を止めずに言った。
「怒られるかどうかは、相手次第」
「じゃあ」
「でも、怒られるのが怖くて何もしないなら、最初からこの部屋は要らない」
ミナの指が制服の袖を握った。握って、ほどいた。
保健室の扉が見えてくる。ミナの歩幅が少しだけ遅くなる。
静は扉の前で立ち止まり、ミナの方を向いた。
「最後に確認。西野さんが『やめて』と言ったら、止める。本人の意思が最優先」
ミナは一瞬、唇を開いた。反論が出かけて、引っ込む。
「……分かりました」
静が扉に手をかけた瞬間、廊下の向こうから男性教員の声が飛んだ。
「桐生先生、ちょっといい?」
声は柔らかい。けれど、急かす響き。職員室側から近づいてくる足音は一人分じゃない。
静は扉から手を離さず、振り返った。
「今、保健室に用がある。要件は短く」
ミナは反射で一歩下がった。背中が壁に触れる。
近づく影の先に、黒いネクタイが揺れた。教頭ではない。だが、教頭の言葉を運ぶ人間の顔をしている。
静はミナにだけ聞こえる声で言った。
「ここで待って。絶対に一人で動かない」
ミナは小さく頷き、壁に背をつけたまま、廊下の影を見据えた。
「桐生先生、職員室に一度」
声をかけてきたのは学年主任の北村だった。後ろに、生徒指導の札を首から下げた教師が半歩遅れてついてくる。二人とも、笑っているのに目が笑っていない。
静は保健室の扉に手を置いたまま言った。
「今、保健室。急ぎ」
「急ぎならなおさら。教頭から」
北村が視線だけで、扉の前のミナを一瞬見た。ミナは壁に背をつけ、口を結んだ。
「高瀬さんだよね」
生徒指導の教師が、やわらかい声を作った。
「ちょっと、職員室で話そうか」
ミナの肩が跳ねる。静が間に入った。
「高瀬は今、私の指導中。話すなら私が同席する」
「桐生先生、これは生徒指導案件です」
「進路室の生徒でもある」
静は扉から手を離し、二人の前に立った。通路の幅が一気に狭くなる。
北村が息を吐いて、声を落とす。
「……騒ぎにするなって。上の判断」
「上って誰」
「教頭」
静の喉が少しだけ鳴った。飲み込む音が自分でも聞こえる。
「今、いじめの相談が来てる。上の判断が先?」
生徒指導の教師が、困ったように眉を寄せた。
「いじめって断定はね。慎重に。証拠も、まだ——」
「証拠ならある」
ミナが絞り出すように言った。声が震えたまま、でも引っ込めない。
北村がすぐ被せる。
「高瀬さん、こういうのはね、間違いがあったら大変なんだよ。君も傷つく」
ミナが唇を噛む。静が短く言った。
「傷ついてるのは、もういる」
「桐生先生」
北村の声が硬くなる。
「学校としては、まず当事者同士で話し合いを——」
「当事者同士で? 一年の子を、複数の前に座らせるの?」
生徒指導の教師が言葉を探す。
「いや、それは……配慮して……」
「配慮の結果が保健室登校なら、配慮が足りない」
静は言い切って、息を整えた。怒鳴れば負ける。ここは勝ち負けの場にされる。
北村が手を上げ、静の胸元の名札を指すようにして言った。
「先生、進路室の鍵ケース、今日中に監査だよね。教頭、相当怒ってる。余計な火種は増やさないで」
静は笑わなかった。
「火種じゃない。火だ」
「言い方」
「現状の言い方」
生徒指導の教師が、ミナに向かって片手を差し出した。
「高瀬さん、じゃあ、今持ってるものを一度預からせて。こちらで精査——」
ミナが反射で鞄を抱える。静が即座に言った。
「預からない。押収もしない」
「押収って、そんな」
「言葉はどうでもいい。本人の意思がないなら渡さない」
北村が眉間を押さえた。
「桐生先生、こういうのは学校として一本化しないと。情報が散ると、混乱する」
「混乱してるのは、大人の都合」
静の声が少しだけ低くなる。ミナが静の袖をつかんだ。小さな力。止めるためじゃない。ここにいるための力。
北村はその手を見て、ため息をついた。
「……とにかく、教頭が呼んでる。今すぐ」
静は一拍置いた。
「分かった。行く。ただし、高瀬はここに残す。保健室の先生に預ける」
生徒指導の教師が首を振る。
「いや、本人から直接——」
「直接は、私が同席できる時だけ」
北村が苛立ちを隠さず、声を小さく尖らせた。
「先生、学校は企業なんだよ。評判が落ちたら、生徒全員が困る」
静は視線を北村に固定した。
「評判が落ちたら困るのは分かる。でも、今困ってる子を先にする」
北村の口元が引きつる。
「正義感で動くなって言ってるんじゃない。順序の話」
「順序なら、私が作る」
静はミナに向き直った。
「高瀬。保健室に入って、先生に『桐生が来るまで誰とも話さない』って言って。言える?」
ミナは頷いた。頷き方が早すぎて、怖さが残っている。
「……言えます」
「鞄、絶対に手放すな。トイレも一人で行かない。誰か呼ぶ」
ミナが顔を上げる。
「私、そんな……」
「そんな、って思うなら、なおさら。現実は優しくない」
静は言い切って、ミナの肩を軽く叩いた。慰めじゃない合図。
ミナが保健室の扉に手をかけた瞬間、生徒指導の教師が言った。
「高瀬さん、君が変なことしたって思われたくないでしょ? だから——」
「思われる」
静が遮った。
「何しても言う人は言う。だから、こちらは記録で守る」
北村が静の腕を軽く引く。
「行くよ」
静は最後にミナの背中を見た。扉の向こうに吸い込まれる細い背。
そのまま職員室へ向かう廊下を歩く。窓の外、グラウンドの声が遠い。学校の中だけ、音が固い。
職員室の入口で北村が言った。
「教頭、機嫌悪いから。余計なこと言うなよ」
静は靴音を揃えて中に入った。
教頭席の周りだけ、空気が薄い。黒川恒一は書類の山から顔も上げず、ペンを走らせている。静が近づいても、紙をめくる音だけが続いた。
「桐生先生」
ようやく黒川が顔を上げた。目が静を測る。
「保健室で何をしていた」
「相談対応です」
「相談は結構。しかし、今は監査が優先だ」
黒川は机の端のチェック表を指先で叩いた。
「鍵ケース。管理簿。貸出記録。今日中に提出」
静は息を吸って、吐いた。
「鍵の管理は出します。ですが、いじめの相談が——」
黒川の目が細くなる。
「いじめ、という言葉を軽々しく使うな。学校の信用に関わる」
「信用は、守り方を間違えると崩れます」
黒川は椅子にもたれ、指を組んだ。
「君は、波風を立てるのが好きだな」
静は笑わない。
「好きじゃない。必要な波があります」
「必要かどうかを決めるのは組織だ」
黒川の声は穏やかなまま、刃だけが増える。
「君の役目は、進路実績を落とさないこと。余計な案件を抱え込むな」
静の喉が動いた。言い返せる言葉は山ほどある。だがここで噛みつけば、ミナのルートが塞がる。
静は視線を落とさず、言葉を短くした。
「抱え込みません。繋ぎます」
黒川が眉を動かす。
「どこに」
「校内の正式手続きと、必要なら外部」
黒川が一瞬だけ黙り、机の上のペンを置いた。
「外部? 勝手に動くなよ。学校を通せ」
「通します。記録も残します」
黒川は静を見つめたまま、ゆっくり言った。
「記録は便利だ。だが、記録は刃にもなる。誰に向けるつもりだ」
静は答えを選んだ。選ぶ時間が、怒りを鎮める。
「生徒を守るためです」
黒川が鼻で笑うような息を漏らした。
「生徒を守る? 君一人で?」
「一人でやりません。だから、協力を求めます」
静は一歩も引かない代わりに、声の温度を落とした。
「教頭、いじめ対応の窓口を明確にしてください。誰が一次受けで、誰が記録し、誰が保護者対応するか。曖昧だと揉めます」
黒川の指先が机を叩いた。トン、と一回。
「……君は口が回るな」
「回さないと潰れます」
黒川が静の机の方を顎で示す。
「進路室に戻れ。監査の準備をしろ。いじめの件は、生徒指導に回せ。君は関わるな」
静の中で何かが跳ねた。だが、顔には出さない。出せば、ここで終わる。
「関わりません、とは言えません」
黒川の目が鋭くなる。
「命令だ」
静は一拍置き、言葉の角を落とした。
「では、同席だけ許可をください。本人が安心して話せる大人が必要です。記録は生徒指導に渡します。窓口は一本化します」
黒川が黙る。周囲の教師たちがキーボードを叩く音だけがやけに大きい。
やがて黒川が言った。
「同席は一回だけだ。余計なことはするな」
静は頷いた。
「一回で、必要なことを揃えます」
黒川が手を振った。
「行け」
静が職員室を出ると、廊下の空気が少しだけ戻った。ポケットの中でスマホが震える。画面には、相沢陸からの短い通知。
『進路室に生徒指導の先生来た。鍵ケース見せろって。レオとシン、固まってる』
静は歩幅を速めた。保健室の扉の前で待つミナの顔が浮かぶ。進路室のキャビネットに入れた封筒の重さも。
「……波風、立てない方法で立てる」
静は小さく息を吐き、曲がり角を曲がった。進路室のドアの前に、人影が二つ見えた。
第3進路室のドアの前に、生徒指導の教師と北村が立っていた。北村は腕時計を見て、わざとらしく首を傾げる。
「遅いよ、桐生先生」
静は鍵束を鳴らさずにポケットから出した。
「監査の準備はできてる。中に入る」
生徒指導の教師が一歩前に出る。
「鍵ケース、今すぐ確認します。教頭の指示で」
「分かってる」
静がドアを開けると、室内の空気が固まっていた。
相沢陸が机の端に立っている。山科レオは椅子に座ったまま、背筋が不自然に伸びている。小森シンは手元のプリントをぐしゃっと握り、すぐ開いた。握ったことをなかったことにするみたいに。
「先生」
陸が小さく言った。
静は視線だけで「大丈夫」と返し、鍵ケースの入った引き出しを開けた。
「どうぞ。貸出簿もここ」
生徒指導の教師はケースの番号を指でなぞり、チェック表に印をつけていく。北村は部屋を見回し、キャビネットの上をちらりと見た。封筒が入っている鍵付きキャビネット。静はその視線を見逃さない。
「……このキャビネットも開ける?」
北村が軽い調子で言う。
静は頷かなかった。
「監査対象は鍵ケースと管理簿。教頭の指示はそこまで」
生徒指導の教師が口を挟む。
「でも、情報が——」
「情報は監査じゃない」
静は淡々と言った。言い方を間違えると、封筒が「証拠」じゃなく「問題物件」になる。
北村が鼻で笑う。
「相変わらず守りが固い」
「守らないといけないものがある」
生徒指導の教師がチェックを終え、紙を揃えた。
「……分かりました。鍵ケースは問題なし。ですが桐生先生、例の件。生徒指導室で、今日のうちに」
静は短く頷いた。
「同席は一回だけ。教頭と約束した」
北村の眉が動く。教頭の名が出ると、空気の主導権が変わる。
「じゃあ、連れてきて」
静は首を振った。
「連れてこない。来るかどうかは本人が決める。今日は『相談の手順』だけ整える」
生徒指導の教師が言葉を飲み込む。
「……では、後ほど」
二人が出ていくと、ドアが閉まった音がやけに大きかった。
レオが息を吐いた。
「……全部持ってかれるかと思った」
シンが唾を飲む音を立てる。
「鍵ケースってさ、あれ、何がそんな大事なの」
静は椅子に座らず、机の角に腰を預けた。
「鍵は学校の“管理できてる証拠”になる。管理が崩れると、責任が崩れる」
陸が苦い顔をする。
「責任って、いつもこっちに落ちてくるやつ」
静は返事をせず、キャビネットの鍵を確かめた。回る感触がいつもより重い気がする。
「相沢。高瀬、今どこ」
「保健室です。さっきLINEで、『誰とも話してない』って」
静は頷き、スマホを取り出した。
「今から呼ぶ。ここで短く、手順だけ教える」
シンが目を丸くする。
「ここで? また来るかもしれないのに」
「来る。だから、時間をかけない。要点だけ」
静は保健室へメッセージを送った。『今、進路室に来れる? 来るなら一人じゃなく保健室の先生に声かけてから。無理なら無理でいい』
数十秒後、既読がつき、短い返事が返った。『行ける。先生に言った』
静はドアの外を一度見て、陸に言った。
「相沢、廊下。人が来たら合図」
「はい」
陸が出ていくと、レオがぽつりと言った。
「高瀬って、あの……目が怖い子?」
「怖くない」
シンが即答して、気まずそうに咳払いした。
「いや、怖いっていうか、見てるって感じ」
静はレオとシンを見た。
「二人は今日は、聞くだけ。口を挟まない。高瀬の話は高瀬のもの」
「……はい」
シンが頷く。レオも頷いた。
ノックが二回。静が「どうぞ」と言うと、高瀬ミナが入ってきた。鞄を胸に抱え、視線は部屋の隅まで一度で走る。誰がいるか、何が動いたか。確認してから、静の前に立った。
「……まだ、誰にも取られてない」
「よし」
静は椅子を一つ引き、ミナに座るよう示した。ミナは座らず、立ったまま言う。
「職員室、呼ばれました?」
「呼ばれた。『波風立てるな』って」
ミナの肩がわずかに上がる。
「やっぱり」
「だから、こっちは波風じゃなく手順でいく」
静は机の上に白紙を置き、ペンを転がした。書き始める前に、ミナの目を見る。
「高瀬。目的、確認する。あなたは何がしたい」
ミナの唇が動いた。最初に出た言葉は、飲み込まれた。代わりに、硬い声。
「……あいつら、終わらせたい」
静は頷かない。否定もしない。
「終わらせ方はいくつかある。潰す、晒す、追い込む。どれも“すぐ”は気持ちいい。でも、そのあとが地獄になることがある」
ミナが睨む。
「じゃあ、我慢しろって?」
「我慢じゃない。守り方を選ぶ」
静は紙に線を一本引いた。
「復讐は相手を変える。守りは状況を変える」
ミナの指が鞄の持ち手を握り直す。
「状況なんて、変わらない」
「変えるには時間が要る。時間を稼ぐには手順が要る」
静は紙に小さく書いた。
「一、相談窓口。二、記録。三、第三者」
ミナが眉を寄せる。
「またそれ」
「またそれ。これが一番効く」
静は一つずつ指で叩いた。
「相談窓口。校内は生徒指導。保健室。担任は当てにならない時があるから、必ず複数に言う。言う相手は“役職”で選ぶ」
「役職……」
「担任がダメなら学年主任。学年主任がダメなら教頭。教頭が止めるなら——」
静は言い切らず、少し間を置いた。
ミナが先に言った。
「外」
「そう。市の窓口、SSW、児相の相談、警察の生活安全の相談。『通報』じゃなく『相談』で記録を残す」
ミナの目が揺れる。
「学校にバレたら……」
「バレる可能性はある。だから、バレた時に『正しい順序で動いた』って言えるようにする。あなたが悪者にならないように」
ミナが小さく息を吐く。
「……私が、悪者」
静は紙の「二、記録」を指した。
「記録。スクショ、時系列、保健室利用。これに加えて、今日からは“あなたの行動”も記録する。いつ誰に相談したか。何を言われたか。短くでいい」
「そんなの、面倒」
「面倒が一番強い。面倒は嘘をつけない」
シンが小さく笑いそうになって、慌てて口を押さえた。ミナが睨み、シンは手を下ろして「すみません」と小声で言った。
静は最後の「三、第三者」を指す。
「第三者。あなたと西野さん以外の目。保健室の先生、私、できればSSW。学校の中だけで完結させない」
ミナが静を見た。
「先生、同席してくれるって言った」
「一回だけ許可が出た。だから、その一回を無駄にしない」
ミナが唇を噛む。
「一回で、全部言えるかな」
「言えない。だから、言うことを絞る」
静は紙をミナの方へ滑らせた。
「今日、言うのは三つだけ。西野さんの今の状態。具体的に何が起きてるか。学校に何をしてほしいか」
ミナが紙を見つめる。ペンを取らない。
「何をしてほしいかって……」
「守ってほしい、でいい。でも“守る”は曖昧だから、行動にする」
静は言葉を短く区切った。
「席替え。加害側の指導。西野さんの別室対応。登下校の見守り。SNSの削除指導。保護者連絡。できることを要求にする」
ミナの目が少しだけ開く。
「そんなの、言っていいの?」
「言わないと、何も起きない」
ミナは鞄からスマホを出し、画面を見た。指が迷って、止まる。
「……私、晒したいって思ってた。SNSに全部載せて」
静は黙って待った。ミナが続ける。
「それなら、あいつら困るし。みんな味方してくれるって」
静が言った。
「味方は増える。敵も増える。西野さんの名前も一緒に広がる」
ミナの喉が詰まる。静はそこで初めて、少しだけ声を柔らかくした。
「守りたいのは、相手を痛くすること? 西野さんが明日学校に来れること?」
ミナの目が赤くなる手前で止まった。瞬きを一回、強くする。
「……西野が、来れる方」
「なら、晒さない」
ミナは頷いた。頷き方が、さっきより遅い。
「……でも、あいつら、許せない」
「許さなくていい。許さないまま、手順で潰す」
静は紙を折って、ミナの鞄の外ポケットに差し込んだ。
「これ、カンペ。生徒指導室で手が震えたら、見ていい。恥ずかしくない」
ミナが小さく笑いそうになって、すぐ真顔に戻った。
「先生、私、言い方きついかも」
「きつくていい。事実だけ言え。相手の人格を罵らない。罵ると“喧嘩”にされる」
ミナが頷く。
「事実だけ」
「そう。感情は消さなくていい。けど、武器にしない。手順の邪魔になる」
ドアがノックされた。相沢陸の声が外からする。
「先生。廊下に、生徒指導の先生。あと……北村先生も」
ミナの肩が固まる。静は立ち上がった。
「来た。予定より早い」
シンが言った。
「今、行くんですか」
静がミナを見る。
「行くか、今日はやめるか。決めるのは高瀬」
ミナは一度だけ目を閉じた。開いた目は、さっきより乾いている。
「……行く。西野のために」
静は頷いた。
「じゃあ、私が前に立つ。あなたは後ろで、紙を見ていい。途中で止めたくなったら、私の袖を引け。そこで止める」
ミナが静の袖を軽くつまむ練習をした。指先が小さく震えた。
「……こう?」
「そう。十分」
静がドアへ向かうと、レオが椅子から半分立ち上がった。
「先生、もし……また鍵、って言われたら」
「鍵は私が持つ。君らは関係ない顔してろ」
シンが口を尖らせる。
「関係ない顔、できないんだけど」
「できなくていい。黙ってればいい」
静がドアを開ける。廊下に北村と生徒指導の教師が立っていた。北村が笑う。
「準備できた?」
静はミナの肩の高さに手を添え、半歩前に出た。
「できた。話すのは事実と要望。記録も取る」
生徒指導の教師が少し身構える。
「記録は——」
「こちらでも取る。双方で残す。後で“言った言わない”にしない」
北村の笑いが薄くなる。
「……やりにくいな」
静は同じ温度で返した。
「やりにくい方が、雑に扱われない」
ミナが一歩踏み出した。鞄を抱えたまま、でも足は止まらない。
静は廊下の先、職員室の方向を見た。黒川の机の周りの空気がまた濃くなるのが分かる。それでも、ここで引けば、ミナは次に一人で戦うことになる。
静はミナにだけ聞こえる声で言った。
「守りを選んだ。十分強い」
ミナは頷き、静の半歩後ろに位置を取った。
三人の足音が、廊下に並んで響き始めた。生徒指導室のドアが近づくにつれて、ミナの指が静の袖をそっとつまんだまま離れなかった。
生徒指導室は、窓が小さくて息が詰まった。机の上の湯呑みだけが妙に生活感を出している。
「座って」
生徒指導の教師が椅子を勧める。ミナは一度椅子を見てから、静の隣に座った。鞄は膝。ファスナーを握ったまま。
北村が壁際に立ち、腕を組む。
「じゃあ、高瀬さん。何があったのか、落ち着いて」
「落ち着いてます」
ミナの声は細い。けれど、言葉の端が折れていない。
静はスマホを机の端に置いた。画面を伏せず、録音アプリの赤い点だけを見えるようにする。
生徒指導の教師が眉をひそめた。
「録音……?」
「双方のためです」
静が言う。
「あとで『言ってない』を防ぎたい」
北村が鼻で笑う。
「大げさだな」
静は返さない。返すと、ここが“感情の場”にされる。
生徒指導の教師が咳払いをした。
「……分かりました。では、事実を。いつから?」
ミナは鞄の外ポケットから折り畳んだ紙を出した。静が渡したカンペだ。ミナはそれを開いて、目を落とす。
「文化祭の準備の前から。九月の二週目」
「対象は」
「一年の西野。クラスは一組」
「加害……その、関わってる子は?」
ミナの指が紙の端を握り込む。静が小さく首を振った。名前は後回し。まず状況。
ミナが息を吸う。
「やってることは、SNSでの悪口。教室での無視。物を隠す。体育の時に、わざと当たる」
北村が口を挟む。
「それ、見たの?」
「見た」
ミナが即答した。
「いつ、どこで」
「先週の水曜、体育館。西野がボール拾ってた時に、肩にぶつけて『邪魔』って」
生徒指導の教師がメモを取る。ペン先が紙を擦る音が、ミナの言葉を追いかける。
「SNSは、どのグループ?」
「二年の女子のグループ。西野は入ってない。西野のことを話してる」
「それは——」
北村が静を見る。
「高瀬さんが覗いたってこと?」
ミナの顔が一瞬で固くなる。静が言った。
「覗きではありません。相談を受けて、見える範囲で記録した。違法な侵入はしていない」
北村が肩をすくめる。
「そういうの、揉めるんだよ。君もトラブルに——」
「トラブルは、もう起きてます」
ミナが言った。言い返したのに、声が上ずらない。
生徒指導の教師が北村を手で制し、ミナに向き直る。
「西野さんの今の状態は?」
ミナが紙を見たまま、短く言う。
「保健室登校。教室に入れない。昼も、トイレも、誰かがついてないと怖いって」
「怖い、って——」
北村がまた口を挟みかけて、静の目に止められた。北村は口を閉じる。
生徒指導の教師がゆっくり頷く。
「分かりました。学校としては、まず状況確認を——」
「要望があります」
ミナが言った。紙の三つ目の項目に指を置いている。
生徒指導の教師が顔を上げる。
「要望?」
「西野を、別室対応にしてください。保健室だけじゃなくて、授業も。あと、席替え。登下校の見守り。SNSの指導。保護者に連絡」
言い切った瞬間、ミナの肩が少し落ちた。吐いた息が、やっと通ったみたいに。
北村が笑った。
「全部は無理だよ。学校にも限界がある」
「限界は分かってます」
ミナが言う。静は横で、ミナの膝の鞄が微かに震えているのを見た。
「だから、優先順位」
静が口を開いた。
「第一は別室対応の確保。教室復帰は今じゃない。第二は席替え。第三は保護者連絡。SNSは指導計画を立ててください」
生徒指導の教師は頷いたが、次の言葉が遅い。
「別室対応は……教室数が……」
静が即座に言う。
「進路室は使えません。監査が入ってる。保健室も常時は厳しい。なら、空き教室の鍵管理を生徒指導で。責任者を決めて」
北村が不機嫌そうに言った。
「また鍵の話か」
静は淡々と返す。
「鍵の話です。鍵がないと人は守れない」
生徒指導の教師がペンを止めた。
「……分かりました。検討します。ただ、席替えは担任が——」
「担任は動きません」
ミナが言った。目線が上がる。静の袖をつまんでいた指が離れ、机の上に置かれた。
「『気のせい』って言いました」
北村が眉を上げる。
「佐伯が?」
静はその名に反応しない。ここで担任を槍玉に上げると、組織は守りに入る。
生徒指導の教師が喉を鳴らす。
「……担任にはこちらから確認します。ですが、いじめと断定するには——」
「断定しなくていい」
静が言った。
「断定できないなら、なおさら安全確保を先に。断定は後でいい」
生徒指導の教師が小さく頷く。だが、北村が言う。
「学校の信用ってのがある。大事にしたら、他の保護者も騒ぐ。受験にも影響する」
ミナの目が北村に向いた。刺すような目じゃない。見逃さない目。
「西野が受験する前に、壊れたらどうするんですか」
北村が言葉に詰まる。
「……だから、慎重に——」
「慎重って、止めることじゃない」
ミナが言った。机の上の紙を折り、鞄に戻す。手が少しだけ震れているのに、動作は丁寧だ。
生徒指導の教師が静のスマホを見た。
「録音、こちらにも共有を?」
「議事録として要点を文書にします。今日の面談記録、作成して、あなたと私で署名。高瀬にも控えを渡す」
北村が笑う。
「そこまで?」
静は目を逸らさない。
「そこまでしないと、消える」
北村の笑いが止まる。生徒指導の教師が唇を引き結び、頷いた。
「……分かりました。では、こちらで面談記録を作成します。高瀬さん、スクショ等は——」
ミナが鞄を抱え直す。
「渡しません」
生徒指導の教師が驚いた顔をする。
「え……? 提出が——」
「預けると、消えるかもしれない」
ミナの声が少しだけ低くなる。
静が補う。
「原本は本人が保持。学校にはコピー。必要な部分だけ。提出の受領印を押してください。受領印がないなら渡さない」
北村が舌打ちを飲み込む。
「……面倒な」
「面倒にします」
静が言った。
「面倒にしないと、弱い側が負ける」
生徒指導の教師が視線を落とし、机の引き出しから朱肉を出した。小さな丸い印鑑も。
「受領印……押します。コピーを持ってきてください」
ミナの手が止まる。静を見る。静は頷く。
「今日、家でコピーはできる?」
「コンビニで……」
ミナが言うと、生徒指導の教師が言った。
「校内のコピー機、使っていい。私が立ち会う。個人情報は隠して」
北村が不満そうに言う。
「そこまでする必要——」
生徒指導の教師が初めて北村を見た。
「必要です。今、目の前の子が言ってます」
北村は肩をすくめ、壁にもたれ直した。
静はミナの横顔を見る。唇が乾いている。けれど、背中は丸まっていない。
生徒指導の教師が声を落とす。
「高瀬さん。西野さん本人の意思確認も必要です。あなたが代表みたいに動くのは、負担になる」
ミナが頷く。
「分かってます。西野が『やめて』って言ったら、止める」
静が一瞬だけ目を細める。ミナは覚えていた。
「でも」
ミナが続けた。
「止めるって言っても、記録は残す。消さない」
北村が鼻で笑う。
「消すって、誰が消すんだよ」
ミナは北村を見て、言った。
「消えるんです。勝手に。そういうの、見てきた」
言い切ったあと、ミナは自分の胸元を指で叩いた。制服の布が小さく鳴る。
「私は、消されない」
部屋が一瞬静かになった。生徒指導の教師のペンが止まり、北村の視線が泳ぐ。静は何も言わず、ただ頷いた。
生徒指導の教師が喉を鳴らし、事務的な声に戻る。
「……では、次の手順です。西野さん本人の面談。保護者連絡。別室対応の調整。席替えは担任と協議」
静が言う。
「期限を決めて。『検討』で終わらせない」
生徒指導の教師が頷く。
「明日の昼までに、別室の場所を決めます。保護者連絡は今日中に一度。担任には今日中に伝えます」
北村が口を開く。
「教頭にも報告——」
静が遮らずに言った。
「報告するなら、事実と手順だけ。余計な感想はいらない」
北村が苦い顔をする。
「……分かったよ」
面談が終わり、ミナが立ち上がる。足が少しふらついて、静の袖に指が触れる。つまむほどじゃない。触れて、離れる。
廊下に出ると、空気が少し冷たく感じた。
ミナが小さく言った。
「……終わった?」
「始まっただけ」
静が言う。
「明日、別室が出なかったら次の手。外部の相談記録を作る」
ミナが頷く。顔は疲れているのに、目だけは前を見ている。
進路室へ戻る途中、相沢陸が廊下の柱の影から顔を出した。
「先生。レオの母親、月曜の通話……時間変えろってLINE来てます。あと、シンの方も“今日中に返事”って家から」
静の足が止まる。月曜の18:30。二人分の家庭が、その時間にぶつかってくる。
ミナが静を見る。
「先生、忙しい?」
静は短く息を吐いた。
「忙しい。だから順番を作る」
ミナが鞄の紐を握り直す。
「……私、明日。西野、保健室から別室に移るとき、ついていく」
「一人で背負うな。保健室の先生にも言って、許可取って」
ミナが頷く。
「分かった」
静が進路室のドアノブに手をかけると、廊下の向こうで職員室の電話が鳴った。黒川の席の方向から、誰かが短く返事をする声が聞こえる。
静はドアを開けた。
中ではレオとシンが顔を上げる。陸も戻ってきて、静の表情を探る。
静はミナに言った。
「今日は帰る前に、コピー。受領印もらう。できる?」
ミナは頷いた。
「できます。……消されないから」
その言葉を、今度は自分に言い聞かせるみたいに。
静は進路室の机に手を置いた。ここから先は、いじめだけじゃない。家のこと、鍵のこと、面談の時間。全部が同時に押してくる。
「相沢」
「はい」
「月曜の面談、時間調整する。レオとシン、どっちも外せない」
レオが言った。
「俺、別に……」
静が被せる。
「別に、じゃない。外せない」
シンが笑うでもなく言った。
「先生、倒れるよ」
「倒れないように、手順で回す」
静はキャビネットの鍵を指先で確かめた。封筒はまだそこにある。
ミナがドアのところで振り返る。
「先生」
「何」
ミナは一瞬だけ口を開けて、閉じた。代わりに短く言う。
「……明日、また来ます」
静が頷く。
「来い。明日は明日の戦い方がある」
ミナが廊下へ出る。ドアが閉まる直前、廊下の遠くで誰かが言った。
「教頭が、進路室の運用見直しだってさ」
声は小さかったが、確かに届いた。
静はドアの向こうを見たまま、手を離さなかった。
「開いてる」
桐生静が顔を上げると、廊下に立つ女子が鞄の持ち手を握り潰すようにしていた。高瀬ミナ。いつも目だけが先に動く子だ。
「……今、いいですか」
「座って。名前書く?」
静が指したのは、机の端に置いた来室記録の紙だった。ミナはペンに手を伸ばしかけて、やめた。
「書いたら、バレます」
「誰に」
ミナは口を開けて閉じる。喉の奥で言葉が引っかかっているのが見えた。
奥の長机では、山科レオがプリントを広げ、小森シンがスマホの画面を伏せていた。二人とも会話を止めて、視線だけをこちらに寄せる。
静は椅子を一つ引き、ミナと机を挟まない位置に座った。
「書かないでいい。代わりに、何が起きてるか言って」
ミナは鞄を膝に置いたまま、ファスナーを少し開けた。中から出てきたのは、A4のクリアファイル。角が擦れて白くなっている。
「これ……」
静が受け取ろうとすると、ミナは反射で引っ込めた。
「先生、誰にも見せないって言えます?」
「言える。でも、守れる範囲には限界がある」
ミナの眉がわずかに動く。
「……何それ」
「学校の中で動くなら、校内のルールと人が絡む。完全に秘密で解決はできない。だから、先に選択肢を出す」
静は机の上のメモ帳を裏返し、何も書かずに置いた。
「一つ。証拠を集めて、学校に正式に動かせる形にする。二つ。学校が動かない前提で、外の機関につなぐ。三つ。あなた自身の安全を優先して、いったん距離を取る」
「距離って……逃げろってこと?」
「避難。逃げじゃない」
ミナはファイルの端を爪で弾いた。カチ、カチと乾いた音。
「でも、距離取ったら、あいつら勝ちじゃん」
その言い方が、誰かのための怒りだと静にはわかった。本人のためだけなら、ここまで固くならない。
「誰がやられてる」
ミナの視線が、レオとシンを一瞬だけ掠めた。違う。別の場所を見ている目だ。
「……一年。西野。クラス違う」
「西野さん、今どんな状態」
「保健室。昼休みも。教室、無理って」
「担任は」
「『気のせいじゃない?』って。証拠がないって」
ミナの声が少しだけ大きくなって、すぐ自分で抑えた。
静は頷いた。
「だから、集めてる」
ミナはようやくファイルを机に置いた。透明な表紙越しに見えるのは、印刷したスクショと、手書きの時系列。日付、場所、言葉。細かい。
静は一枚だけ抜いて目を通した。グループチャットの画面。名前は伏せてあるが、言葉の刺さり方が生々しい。
「これ、誰が撮った」
「私」
「西野さんのスマホじゃない?」
「違う。……私の」
ミナは言い直した。
「西野のは、取られたら終わるから。私が、見える範囲で」
「見える範囲で、ここまで揃えるのは才能だよ」
静がそう言うと、ミナは顔を上げた。
「……才能とか、いらない」
「いらないなら、捨ててもいい。けど、武器になる。武器は持ってた方がいい」
ミナは唇を噛んだ。痛みをごまかす癖みたいに。
奥でシンが小さく息を吐いた。
「……それ、証拠って言えるの?」
ミナが睨む。シンは肩をすくめた。
「いや、変な意味じゃなくて。学校ってさ、都合悪いと『弱い』って言うじゃん」
レオが低く言った。
「証拠が弱いって言われたら、集めた方が悪いみたいになる」
ミナの指がファイルの端を強く押さえた。
「そう。だから、もっと要る。動画とか。音声とか」
静が即座に首を振った。
「それは危ない」
「でも!」
「危ない。あなたが」
静は声を強めない。短く切る。
「録音や撮影は状況によっては有効。でも、相手に気づかれた瞬間に、あなたが標的になる。学校は守ると言う。でも守れない時がある」
ミナが椅子の背にもたれず、前のめりのまま固まった。
「……じゃあ、どうしろって」
「まず、今あるものを『学校が無視できない形』に整える」
静はファイルを閉じ、机の上に揃えた。
「時系列はいい。スクショもいい。次に必要なのは、第三者のメモ。見た人の名前と、見た日時。あなた一人の記録にしない」
ミナが眉を寄せる。
「誰も書いてくれない。みんな、関わりたくない」
「関わりたくないのは普通。だから、書くのは先生側がやる」
ミナの目が揺れる。
「先生が?」
「私が、あなたから聞いたことを『聞き取り記録』として残す。あと、保健室の利用記録。欠席遅刻の変化。廊下での指導記録。積み上げる」
「それで、動くの?」
「動かすには、校内の窓口を通す必要がある」
静は言葉を選んだ。ここで「教頭」が絡むと、ミナの肩がさらに上がる。
「……生徒指導」
ミナが吐き捨てるように言った。
「生徒指導の先生、あいつらと仲いい」
「仲いい先生もいる。逆に、厳しくする先生もいる。どっちに当たるかは運がある。だから、外の線も同時に引く」
「外って?」
「市の子ども家庭支援の窓口。スクールソーシャルワーカー。必要なら警察の相談窓口もある。今すぐ『事件』にするんじゃなくて、記録を残す相談」
ミナは目を細めた。
「警察とか、やりすぎって言われる」
「言われる。だから順番を作る。『やりすぎ』って言葉で黙らされない順番」
静の声は低いまま、硬い。
「西野さんの安全、あなたの安全、証拠、手続き。これを同時に回す」
ミナはしばらく黙っていた。沈黙の間に、廊下の足音が遠くで反響する。進路室の壁は薄い。
レオが小さく言った。
「……高瀬、これ、誰にも見せてないの?」
ミナが首を横に振る。
「見せたら、広まる」
「広まったら、終わり?」
「……終わり」
ミナの声がかすれた。自分のことじゃないのに、喉が砂を噛む。
静は机の引き出しから封筒を出し、無地のテープで口を留めた。
「ここに入れて。今日の分は私が預かる」
ミナが封筒を見つめる。
「先生、信用していいの」
「信用の代わりに、確認を増やす」
静は封筒に日付を書き、ミナの前に置いた。
「封筒にあなたのサイン。私もサイン。預かった記録を残す。勝手に開けたらバレるようにする」
ミナはペンを握った。書く手が少し震えて、文字が細く歪む。
サインを終えると、ミナは封筒を押し込むように静へ渡した。渡した瞬間、指が離れない。静は引っ張らず、待った。
「……西野、転校したいって言ってる」
ミナが小さく言った。
「逃げたって言われるの、嫌だって」
「転校は逃げじゃない。生き残り」
静は言い切った。
「でも、手続きは簡単じゃない。席があるか、学区、家庭の同意。時間もかかる。だから、今ここで決めなくていい。決めるための材料を集める」
ミナの指がようやく離れた。
「先生、学校はさ……こういうの、嫌がるじゃん」
「嫌がる人はいる」
静の脳裏に、鍵ケースの監査と言った教頭の声が刺さる。数字にならない面倒事を、できるだけ「なかったこと」にしたい空気。
「嫌がる人がいるなら、なおさら記録が必要」
ミナは息を吸って、吐いた。
「……私、成績悪いし。先生たち、私の言うこと、信用しない」
「信用させるのが仕事。あなたの成績は関係ない。関係あるのは、事実の積み方」
静が立ち上がると、ミナも反射で立った。
「今日、放課後、西野さんに会える?」
「保健室にいる。……でも、先生が行ったら、目立つ」
「じゃあ、保健室の先生に先に話す。あなたは廊下で待ってて。二分で戻る」
ミナが頷きかけて、止まった。
「でも、担任にバレたら」
「担任が誰かは知ってる。勝手に話を回さない。必要なときだけ、必要な形で伝える」
ミナはようやく椅子に腰を落とした。落としたというより、力が抜けて沈んだ。
シンがぽつりと言った。
「……証拠集めるの、しんどいよね」
ミナはシンを見ない。
「しんどい。けど、見て見ぬふりの方が、もっとしんどい」
レオが目を伏せたまま、小さく頷いた。
静は封筒を鍵付きのキャビネットに入れた。鍵を回す音が、やけに大きい。
キャビネットの上には、鍵ケースの点検用チェック表が置きっぱなしになっている。黒川の圧が、紙の白さでそこに居座っていた。
静はそれを裏返し、ミナに向き直った。
「高瀬。今から保健室に行く。相沢、ここ、頼める?」
相沢陸は窓際の椅子から背筋を伸ばした。いつからいたのか、静にはわからなかった。彼は来室記録の紙を静の目に入る位置へそっとずらす。
「……はい。誰か来たら、止めます」
「止めるって」
陸は小さく肩をすくめた。
「“今、先生いません”って言うくらいは」
静が頷くと、ミナが立ち上がった。
「私も行きます」
「廊下で待つ。約束」
「……はい」
二人が進路室を出ると、廊下の空気がひやりとした。遠くの職員室側で、誰かが書類を束ねる音がする。
ミナは歩きながら、静の横顔を盗み見た。
「先生、こういうの……怒られますよね」
静は足を止めずに言った。
「怒られるかどうかは、相手次第」
「じゃあ」
「でも、怒られるのが怖くて何もしないなら、最初からこの部屋は要らない」
ミナの指が制服の袖を握った。握って、ほどいた。
保健室の扉が見えてくる。ミナの歩幅が少しだけ遅くなる。
静は扉の前で立ち止まり、ミナの方を向いた。
「最後に確認。西野さんが『やめて』と言ったら、止める。本人の意思が最優先」
ミナは一瞬、唇を開いた。反論が出かけて、引っ込む。
「……分かりました」
静が扉に手をかけた瞬間、廊下の向こうから男性教員の声が飛んだ。
「桐生先生、ちょっといい?」
声は柔らかい。けれど、急かす響き。職員室側から近づいてくる足音は一人分じゃない。
静は扉から手を離さず、振り返った。
「今、保健室に用がある。要件は短く」
ミナは反射で一歩下がった。背中が壁に触れる。
近づく影の先に、黒いネクタイが揺れた。教頭ではない。だが、教頭の言葉を運ぶ人間の顔をしている。
静はミナにだけ聞こえる声で言った。
「ここで待って。絶対に一人で動かない」
ミナは小さく頷き、壁に背をつけたまま、廊下の影を見据えた。
「桐生先生、職員室に一度」
声をかけてきたのは学年主任の北村だった。後ろに、生徒指導の札を首から下げた教師が半歩遅れてついてくる。二人とも、笑っているのに目が笑っていない。
静は保健室の扉に手を置いたまま言った。
「今、保健室。急ぎ」
「急ぎならなおさら。教頭から」
北村が視線だけで、扉の前のミナを一瞬見た。ミナは壁に背をつけ、口を結んだ。
「高瀬さんだよね」
生徒指導の教師が、やわらかい声を作った。
「ちょっと、職員室で話そうか」
ミナの肩が跳ねる。静が間に入った。
「高瀬は今、私の指導中。話すなら私が同席する」
「桐生先生、これは生徒指導案件です」
「進路室の生徒でもある」
静は扉から手を離し、二人の前に立った。通路の幅が一気に狭くなる。
北村が息を吐いて、声を落とす。
「……騒ぎにするなって。上の判断」
「上って誰」
「教頭」
静の喉が少しだけ鳴った。飲み込む音が自分でも聞こえる。
「今、いじめの相談が来てる。上の判断が先?」
生徒指導の教師が、困ったように眉を寄せた。
「いじめって断定はね。慎重に。証拠も、まだ——」
「証拠ならある」
ミナが絞り出すように言った。声が震えたまま、でも引っ込めない。
北村がすぐ被せる。
「高瀬さん、こういうのはね、間違いがあったら大変なんだよ。君も傷つく」
ミナが唇を噛む。静が短く言った。
「傷ついてるのは、もういる」
「桐生先生」
北村の声が硬くなる。
「学校としては、まず当事者同士で話し合いを——」
「当事者同士で? 一年の子を、複数の前に座らせるの?」
生徒指導の教師が言葉を探す。
「いや、それは……配慮して……」
「配慮の結果が保健室登校なら、配慮が足りない」
静は言い切って、息を整えた。怒鳴れば負ける。ここは勝ち負けの場にされる。
北村が手を上げ、静の胸元の名札を指すようにして言った。
「先生、進路室の鍵ケース、今日中に監査だよね。教頭、相当怒ってる。余計な火種は増やさないで」
静は笑わなかった。
「火種じゃない。火だ」
「言い方」
「現状の言い方」
生徒指導の教師が、ミナに向かって片手を差し出した。
「高瀬さん、じゃあ、今持ってるものを一度預からせて。こちらで精査——」
ミナが反射で鞄を抱える。静が即座に言った。
「預からない。押収もしない」
「押収って、そんな」
「言葉はどうでもいい。本人の意思がないなら渡さない」
北村が眉間を押さえた。
「桐生先生、こういうのは学校として一本化しないと。情報が散ると、混乱する」
「混乱してるのは、大人の都合」
静の声が少しだけ低くなる。ミナが静の袖をつかんだ。小さな力。止めるためじゃない。ここにいるための力。
北村はその手を見て、ため息をついた。
「……とにかく、教頭が呼んでる。今すぐ」
静は一拍置いた。
「分かった。行く。ただし、高瀬はここに残す。保健室の先生に預ける」
生徒指導の教師が首を振る。
「いや、本人から直接——」
「直接は、私が同席できる時だけ」
北村が苛立ちを隠さず、声を小さく尖らせた。
「先生、学校は企業なんだよ。評判が落ちたら、生徒全員が困る」
静は視線を北村に固定した。
「評判が落ちたら困るのは分かる。でも、今困ってる子を先にする」
北村の口元が引きつる。
「正義感で動くなって言ってるんじゃない。順序の話」
「順序なら、私が作る」
静はミナに向き直った。
「高瀬。保健室に入って、先生に『桐生が来るまで誰とも話さない』って言って。言える?」
ミナは頷いた。頷き方が早すぎて、怖さが残っている。
「……言えます」
「鞄、絶対に手放すな。トイレも一人で行かない。誰か呼ぶ」
ミナが顔を上げる。
「私、そんな……」
「そんな、って思うなら、なおさら。現実は優しくない」
静は言い切って、ミナの肩を軽く叩いた。慰めじゃない合図。
ミナが保健室の扉に手をかけた瞬間、生徒指導の教師が言った。
「高瀬さん、君が変なことしたって思われたくないでしょ? だから——」
「思われる」
静が遮った。
「何しても言う人は言う。だから、こちらは記録で守る」
北村が静の腕を軽く引く。
「行くよ」
静は最後にミナの背中を見た。扉の向こうに吸い込まれる細い背。
そのまま職員室へ向かう廊下を歩く。窓の外、グラウンドの声が遠い。学校の中だけ、音が固い。
職員室の入口で北村が言った。
「教頭、機嫌悪いから。余計なこと言うなよ」
静は靴音を揃えて中に入った。
教頭席の周りだけ、空気が薄い。黒川恒一は書類の山から顔も上げず、ペンを走らせている。静が近づいても、紙をめくる音だけが続いた。
「桐生先生」
ようやく黒川が顔を上げた。目が静を測る。
「保健室で何をしていた」
「相談対応です」
「相談は結構。しかし、今は監査が優先だ」
黒川は机の端のチェック表を指先で叩いた。
「鍵ケース。管理簿。貸出記録。今日中に提出」
静は息を吸って、吐いた。
「鍵の管理は出します。ですが、いじめの相談が——」
黒川の目が細くなる。
「いじめ、という言葉を軽々しく使うな。学校の信用に関わる」
「信用は、守り方を間違えると崩れます」
黒川は椅子にもたれ、指を組んだ。
「君は、波風を立てるのが好きだな」
静は笑わない。
「好きじゃない。必要な波があります」
「必要かどうかを決めるのは組織だ」
黒川の声は穏やかなまま、刃だけが増える。
「君の役目は、進路実績を落とさないこと。余計な案件を抱え込むな」
静の喉が動いた。言い返せる言葉は山ほどある。だがここで噛みつけば、ミナのルートが塞がる。
静は視線を落とさず、言葉を短くした。
「抱え込みません。繋ぎます」
黒川が眉を動かす。
「どこに」
「校内の正式手続きと、必要なら外部」
黒川が一瞬だけ黙り、机の上のペンを置いた。
「外部? 勝手に動くなよ。学校を通せ」
「通します。記録も残します」
黒川は静を見つめたまま、ゆっくり言った。
「記録は便利だ。だが、記録は刃にもなる。誰に向けるつもりだ」
静は答えを選んだ。選ぶ時間が、怒りを鎮める。
「生徒を守るためです」
黒川が鼻で笑うような息を漏らした。
「生徒を守る? 君一人で?」
「一人でやりません。だから、協力を求めます」
静は一歩も引かない代わりに、声の温度を落とした。
「教頭、いじめ対応の窓口を明確にしてください。誰が一次受けで、誰が記録し、誰が保護者対応するか。曖昧だと揉めます」
黒川の指先が机を叩いた。トン、と一回。
「……君は口が回るな」
「回さないと潰れます」
黒川が静の机の方を顎で示す。
「進路室に戻れ。監査の準備をしろ。いじめの件は、生徒指導に回せ。君は関わるな」
静の中で何かが跳ねた。だが、顔には出さない。出せば、ここで終わる。
「関わりません、とは言えません」
黒川の目が鋭くなる。
「命令だ」
静は一拍置き、言葉の角を落とした。
「では、同席だけ許可をください。本人が安心して話せる大人が必要です。記録は生徒指導に渡します。窓口は一本化します」
黒川が黙る。周囲の教師たちがキーボードを叩く音だけがやけに大きい。
やがて黒川が言った。
「同席は一回だけだ。余計なことはするな」
静は頷いた。
「一回で、必要なことを揃えます」
黒川が手を振った。
「行け」
静が職員室を出ると、廊下の空気が少しだけ戻った。ポケットの中でスマホが震える。画面には、相沢陸からの短い通知。
『進路室に生徒指導の先生来た。鍵ケース見せろって。レオとシン、固まってる』
静は歩幅を速めた。保健室の扉の前で待つミナの顔が浮かぶ。進路室のキャビネットに入れた封筒の重さも。
「……波風、立てない方法で立てる」
静は小さく息を吐き、曲がり角を曲がった。進路室のドアの前に、人影が二つ見えた。
第3進路室のドアの前に、生徒指導の教師と北村が立っていた。北村は腕時計を見て、わざとらしく首を傾げる。
「遅いよ、桐生先生」
静は鍵束を鳴らさずにポケットから出した。
「監査の準備はできてる。中に入る」
生徒指導の教師が一歩前に出る。
「鍵ケース、今すぐ確認します。教頭の指示で」
「分かってる」
静がドアを開けると、室内の空気が固まっていた。
相沢陸が机の端に立っている。山科レオは椅子に座ったまま、背筋が不自然に伸びている。小森シンは手元のプリントをぐしゃっと握り、すぐ開いた。握ったことをなかったことにするみたいに。
「先生」
陸が小さく言った。
静は視線だけで「大丈夫」と返し、鍵ケースの入った引き出しを開けた。
「どうぞ。貸出簿もここ」
生徒指導の教師はケースの番号を指でなぞり、チェック表に印をつけていく。北村は部屋を見回し、キャビネットの上をちらりと見た。封筒が入っている鍵付きキャビネット。静はその視線を見逃さない。
「……このキャビネットも開ける?」
北村が軽い調子で言う。
静は頷かなかった。
「監査対象は鍵ケースと管理簿。教頭の指示はそこまで」
生徒指導の教師が口を挟む。
「でも、情報が——」
「情報は監査じゃない」
静は淡々と言った。言い方を間違えると、封筒が「証拠」じゃなく「問題物件」になる。
北村が鼻で笑う。
「相変わらず守りが固い」
「守らないといけないものがある」
生徒指導の教師がチェックを終え、紙を揃えた。
「……分かりました。鍵ケースは問題なし。ですが桐生先生、例の件。生徒指導室で、今日のうちに」
静は短く頷いた。
「同席は一回だけ。教頭と約束した」
北村の眉が動く。教頭の名が出ると、空気の主導権が変わる。
「じゃあ、連れてきて」
静は首を振った。
「連れてこない。来るかどうかは本人が決める。今日は『相談の手順』だけ整える」
生徒指導の教師が言葉を飲み込む。
「……では、後ほど」
二人が出ていくと、ドアが閉まった音がやけに大きかった。
レオが息を吐いた。
「……全部持ってかれるかと思った」
シンが唾を飲む音を立てる。
「鍵ケースってさ、あれ、何がそんな大事なの」
静は椅子に座らず、机の角に腰を預けた。
「鍵は学校の“管理できてる証拠”になる。管理が崩れると、責任が崩れる」
陸が苦い顔をする。
「責任って、いつもこっちに落ちてくるやつ」
静は返事をせず、キャビネットの鍵を確かめた。回る感触がいつもより重い気がする。
「相沢。高瀬、今どこ」
「保健室です。さっきLINEで、『誰とも話してない』って」
静は頷き、スマホを取り出した。
「今から呼ぶ。ここで短く、手順だけ教える」
シンが目を丸くする。
「ここで? また来るかもしれないのに」
「来る。だから、時間をかけない。要点だけ」
静は保健室へメッセージを送った。『今、進路室に来れる? 来るなら一人じゃなく保健室の先生に声かけてから。無理なら無理でいい』
数十秒後、既読がつき、短い返事が返った。『行ける。先生に言った』
静はドアの外を一度見て、陸に言った。
「相沢、廊下。人が来たら合図」
「はい」
陸が出ていくと、レオがぽつりと言った。
「高瀬って、あの……目が怖い子?」
「怖くない」
シンが即答して、気まずそうに咳払いした。
「いや、怖いっていうか、見てるって感じ」
静はレオとシンを見た。
「二人は今日は、聞くだけ。口を挟まない。高瀬の話は高瀬のもの」
「……はい」
シンが頷く。レオも頷いた。
ノックが二回。静が「どうぞ」と言うと、高瀬ミナが入ってきた。鞄を胸に抱え、視線は部屋の隅まで一度で走る。誰がいるか、何が動いたか。確認してから、静の前に立った。
「……まだ、誰にも取られてない」
「よし」
静は椅子を一つ引き、ミナに座るよう示した。ミナは座らず、立ったまま言う。
「職員室、呼ばれました?」
「呼ばれた。『波風立てるな』って」
ミナの肩がわずかに上がる。
「やっぱり」
「だから、こっちは波風じゃなく手順でいく」
静は机の上に白紙を置き、ペンを転がした。書き始める前に、ミナの目を見る。
「高瀬。目的、確認する。あなたは何がしたい」
ミナの唇が動いた。最初に出た言葉は、飲み込まれた。代わりに、硬い声。
「……あいつら、終わらせたい」
静は頷かない。否定もしない。
「終わらせ方はいくつかある。潰す、晒す、追い込む。どれも“すぐ”は気持ちいい。でも、そのあとが地獄になることがある」
ミナが睨む。
「じゃあ、我慢しろって?」
「我慢じゃない。守り方を選ぶ」
静は紙に線を一本引いた。
「復讐は相手を変える。守りは状況を変える」
ミナの指が鞄の持ち手を握り直す。
「状況なんて、変わらない」
「変えるには時間が要る。時間を稼ぐには手順が要る」
静は紙に小さく書いた。
「一、相談窓口。二、記録。三、第三者」
ミナが眉を寄せる。
「またそれ」
「またそれ。これが一番効く」
静は一つずつ指で叩いた。
「相談窓口。校内は生徒指導。保健室。担任は当てにならない時があるから、必ず複数に言う。言う相手は“役職”で選ぶ」
「役職……」
「担任がダメなら学年主任。学年主任がダメなら教頭。教頭が止めるなら——」
静は言い切らず、少し間を置いた。
ミナが先に言った。
「外」
「そう。市の窓口、SSW、児相の相談、警察の生活安全の相談。『通報』じゃなく『相談』で記録を残す」
ミナの目が揺れる。
「学校にバレたら……」
「バレる可能性はある。だから、バレた時に『正しい順序で動いた』って言えるようにする。あなたが悪者にならないように」
ミナが小さく息を吐く。
「……私が、悪者」
静は紙の「二、記録」を指した。
「記録。スクショ、時系列、保健室利用。これに加えて、今日からは“あなたの行動”も記録する。いつ誰に相談したか。何を言われたか。短くでいい」
「そんなの、面倒」
「面倒が一番強い。面倒は嘘をつけない」
シンが小さく笑いそうになって、慌てて口を押さえた。ミナが睨み、シンは手を下ろして「すみません」と小声で言った。
静は最後の「三、第三者」を指す。
「第三者。あなたと西野さん以外の目。保健室の先生、私、できればSSW。学校の中だけで完結させない」
ミナが静を見た。
「先生、同席してくれるって言った」
「一回だけ許可が出た。だから、その一回を無駄にしない」
ミナが唇を噛む。
「一回で、全部言えるかな」
「言えない。だから、言うことを絞る」
静は紙をミナの方へ滑らせた。
「今日、言うのは三つだけ。西野さんの今の状態。具体的に何が起きてるか。学校に何をしてほしいか」
ミナが紙を見つめる。ペンを取らない。
「何をしてほしいかって……」
「守ってほしい、でいい。でも“守る”は曖昧だから、行動にする」
静は言葉を短く区切った。
「席替え。加害側の指導。西野さんの別室対応。登下校の見守り。SNSの削除指導。保護者連絡。できることを要求にする」
ミナの目が少しだけ開く。
「そんなの、言っていいの?」
「言わないと、何も起きない」
ミナは鞄からスマホを出し、画面を見た。指が迷って、止まる。
「……私、晒したいって思ってた。SNSに全部載せて」
静は黙って待った。ミナが続ける。
「それなら、あいつら困るし。みんな味方してくれるって」
静が言った。
「味方は増える。敵も増える。西野さんの名前も一緒に広がる」
ミナの喉が詰まる。静はそこで初めて、少しだけ声を柔らかくした。
「守りたいのは、相手を痛くすること? 西野さんが明日学校に来れること?」
ミナの目が赤くなる手前で止まった。瞬きを一回、強くする。
「……西野が、来れる方」
「なら、晒さない」
ミナは頷いた。頷き方が、さっきより遅い。
「……でも、あいつら、許せない」
「許さなくていい。許さないまま、手順で潰す」
静は紙を折って、ミナの鞄の外ポケットに差し込んだ。
「これ、カンペ。生徒指導室で手が震えたら、見ていい。恥ずかしくない」
ミナが小さく笑いそうになって、すぐ真顔に戻った。
「先生、私、言い方きついかも」
「きつくていい。事実だけ言え。相手の人格を罵らない。罵ると“喧嘩”にされる」
ミナが頷く。
「事実だけ」
「そう。感情は消さなくていい。けど、武器にしない。手順の邪魔になる」
ドアがノックされた。相沢陸の声が外からする。
「先生。廊下に、生徒指導の先生。あと……北村先生も」
ミナの肩が固まる。静は立ち上がった。
「来た。予定より早い」
シンが言った。
「今、行くんですか」
静がミナを見る。
「行くか、今日はやめるか。決めるのは高瀬」
ミナは一度だけ目を閉じた。開いた目は、さっきより乾いている。
「……行く。西野のために」
静は頷いた。
「じゃあ、私が前に立つ。あなたは後ろで、紙を見ていい。途中で止めたくなったら、私の袖を引け。そこで止める」
ミナが静の袖を軽くつまむ練習をした。指先が小さく震えた。
「……こう?」
「そう。十分」
静がドアへ向かうと、レオが椅子から半分立ち上がった。
「先生、もし……また鍵、って言われたら」
「鍵は私が持つ。君らは関係ない顔してろ」
シンが口を尖らせる。
「関係ない顔、できないんだけど」
「できなくていい。黙ってればいい」
静がドアを開ける。廊下に北村と生徒指導の教師が立っていた。北村が笑う。
「準備できた?」
静はミナの肩の高さに手を添え、半歩前に出た。
「できた。話すのは事実と要望。記録も取る」
生徒指導の教師が少し身構える。
「記録は——」
「こちらでも取る。双方で残す。後で“言った言わない”にしない」
北村の笑いが薄くなる。
「……やりにくいな」
静は同じ温度で返した。
「やりにくい方が、雑に扱われない」
ミナが一歩踏み出した。鞄を抱えたまま、でも足は止まらない。
静は廊下の先、職員室の方向を見た。黒川の机の周りの空気がまた濃くなるのが分かる。それでも、ここで引けば、ミナは次に一人で戦うことになる。
静はミナにだけ聞こえる声で言った。
「守りを選んだ。十分強い」
ミナは頷き、静の半歩後ろに位置を取った。
三人の足音が、廊下に並んで響き始めた。生徒指導室のドアが近づくにつれて、ミナの指が静の袖をそっとつまんだまま離れなかった。
生徒指導室は、窓が小さくて息が詰まった。机の上の湯呑みだけが妙に生活感を出している。
「座って」
生徒指導の教師が椅子を勧める。ミナは一度椅子を見てから、静の隣に座った。鞄は膝。ファスナーを握ったまま。
北村が壁際に立ち、腕を組む。
「じゃあ、高瀬さん。何があったのか、落ち着いて」
「落ち着いてます」
ミナの声は細い。けれど、言葉の端が折れていない。
静はスマホを机の端に置いた。画面を伏せず、録音アプリの赤い点だけを見えるようにする。
生徒指導の教師が眉をひそめた。
「録音……?」
「双方のためです」
静が言う。
「あとで『言ってない』を防ぎたい」
北村が鼻で笑う。
「大げさだな」
静は返さない。返すと、ここが“感情の場”にされる。
生徒指導の教師が咳払いをした。
「……分かりました。では、事実を。いつから?」
ミナは鞄の外ポケットから折り畳んだ紙を出した。静が渡したカンペだ。ミナはそれを開いて、目を落とす。
「文化祭の準備の前から。九月の二週目」
「対象は」
「一年の西野。クラスは一組」
「加害……その、関わってる子は?」
ミナの指が紙の端を握り込む。静が小さく首を振った。名前は後回し。まず状況。
ミナが息を吸う。
「やってることは、SNSでの悪口。教室での無視。物を隠す。体育の時に、わざと当たる」
北村が口を挟む。
「それ、見たの?」
「見た」
ミナが即答した。
「いつ、どこで」
「先週の水曜、体育館。西野がボール拾ってた時に、肩にぶつけて『邪魔』って」
生徒指導の教師がメモを取る。ペン先が紙を擦る音が、ミナの言葉を追いかける。
「SNSは、どのグループ?」
「二年の女子のグループ。西野は入ってない。西野のことを話してる」
「それは——」
北村が静を見る。
「高瀬さんが覗いたってこと?」
ミナの顔が一瞬で固くなる。静が言った。
「覗きではありません。相談を受けて、見える範囲で記録した。違法な侵入はしていない」
北村が肩をすくめる。
「そういうの、揉めるんだよ。君もトラブルに——」
「トラブルは、もう起きてます」
ミナが言った。言い返したのに、声が上ずらない。
生徒指導の教師が北村を手で制し、ミナに向き直る。
「西野さんの今の状態は?」
ミナが紙を見たまま、短く言う。
「保健室登校。教室に入れない。昼も、トイレも、誰かがついてないと怖いって」
「怖い、って——」
北村がまた口を挟みかけて、静の目に止められた。北村は口を閉じる。
生徒指導の教師がゆっくり頷く。
「分かりました。学校としては、まず状況確認を——」
「要望があります」
ミナが言った。紙の三つ目の項目に指を置いている。
生徒指導の教師が顔を上げる。
「要望?」
「西野を、別室対応にしてください。保健室だけじゃなくて、授業も。あと、席替え。登下校の見守り。SNSの指導。保護者に連絡」
言い切った瞬間、ミナの肩が少し落ちた。吐いた息が、やっと通ったみたいに。
北村が笑った。
「全部は無理だよ。学校にも限界がある」
「限界は分かってます」
ミナが言う。静は横で、ミナの膝の鞄が微かに震えているのを見た。
「だから、優先順位」
静が口を開いた。
「第一は別室対応の確保。教室復帰は今じゃない。第二は席替え。第三は保護者連絡。SNSは指導計画を立ててください」
生徒指導の教師は頷いたが、次の言葉が遅い。
「別室対応は……教室数が……」
静が即座に言う。
「進路室は使えません。監査が入ってる。保健室も常時は厳しい。なら、空き教室の鍵管理を生徒指導で。責任者を決めて」
北村が不機嫌そうに言った。
「また鍵の話か」
静は淡々と返す。
「鍵の話です。鍵がないと人は守れない」
生徒指導の教師がペンを止めた。
「……分かりました。検討します。ただ、席替えは担任が——」
「担任は動きません」
ミナが言った。目線が上がる。静の袖をつまんでいた指が離れ、机の上に置かれた。
「『気のせい』って言いました」
北村が眉を上げる。
「佐伯が?」
静はその名に反応しない。ここで担任を槍玉に上げると、組織は守りに入る。
生徒指導の教師が喉を鳴らす。
「……担任にはこちらから確認します。ですが、いじめと断定するには——」
「断定しなくていい」
静が言った。
「断定できないなら、なおさら安全確保を先に。断定は後でいい」
生徒指導の教師が小さく頷く。だが、北村が言う。
「学校の信用ってのがある。大事にしたら、他の保護者も騒ぐ。受験にも影響する」
ミナの目が北村に向いた。刺すような目じゃない。見逃さない目。
「西野が受験する前に、壊れたらどうするんですか」
北村が言葉に詰まる。
「……だから、慎重に——」
「慎重って、止めることじゃない」
ミナが言った。机の上の紙を折り、鞄に戻す。手が少しだけ震れているのに、動作は丁寧だ。
生徒指導の教師が静のスマホを見た。
「録音、こちらにも共有を?」
「議事録として要点を文書にします。今日の面談記録、作成して、あなたと私で署名。高瀬にも控えを渡す」
北村が笑う。
「そこまで?」
静は目を逸らさない。
「そこまでしないと、消える」
北村の笑いが止まる。生徒指導の教師が唇を引き結び、頷いた。
「……分かりました。では、こちらで面談記録を作成します。高瀬さん、スクショ等は——」
ミナが鞄を抱え直す。
「渡しません」
生徒指導の教師が驚いた顔をする。
「え……? 提出が——」
「預けると、消えるかもしれない」
ミナの声が少しだけ低くなる。
静が補う。
「原本は本人が保持。学校にはコピー。必要な部分だけ。提出の受領印を押してください。受領印がないなら渡さない」
北村が舌打ちを飲み込む。
「……面倒な」
「面倒にします」
静が言った。
「面倒にしないと、弱い側が負ける」
生徒指導の教師が視線を落とし、机の引き出しから朱肉を出した。小さな丸い印鑑も。
「受領印……押します。コピーを持ってきてください」
ミナの手が止まる。静を見る。静は頷く。
「今日、家でコピーはできる?」
「コンビニで……」
ミナが言うと、生徒指導の教師が言った。
「校内のコピー機、使っていい。私が立ち会う。個人情報は隠して」
北村が不満そうに言う。
「そこまでする必要——」
生徒指導の教師が初めて北村を見た。
「必要です。今、目の前の子が言ってます」
北村は肩をすくめ、壁にもたれ直した。
静はミナの横顔を見る。唇が乾いている。けれど、背中は丸まっていない。
生徒指導の教師が声を落とす。
「高瀬さん。西野さん本人の意思確認も必要です。あなたが代表みたいに動くのは、負担になる」
ミナが頷く。
「分かってます。西野が『やめて』って言ったら、止める」
静が一瞬だけ目を細める。ミナは覚えていた。
「でも」
ミナが続けた。
「止めるって言っても、記録は残す。消さない」
北村が鼻で笑う。
「消すって、誰が消すんだよ」
ミナは北村を見て、言った。
「消えるんです。勝手に。そういうの、見てきた」
言い切ったあと、ミナは自分の胸元を指で叩いた。制服の布が小さく鳴る。
「私は、消されない」
部屋が一瞬静かになった。生徒指導の教師のペンが止まり、北村の視線が泳ぐ。静は何も言わず、ただ頷いた。
生徒指導の教師が喉を鳴らし、事務的な声に戻る。
「……では、次の手順です。西野さん本人の面談。保護者連絡。別室対応の調整。席替えは担任と協議」
静が言う。
「期限を決めて。『検討』で終わらせない」
生徒指導の教師が頷く。
「明日の昼までに、別室の場所を決めます。保護者連絡は今日中に一度。担任には今日中に伝えます」
北村が口を開く。
「教頭にも報告——」
静が遮らずに言った。
「報告するなら、事実と手順だけ。余計な感想はいらない」
北村が苦い顔をする。
「……分かったよ」
面談が終わり、ミナが立ち上がる。足が少しふらついて、静の袖に指が触れる。つまむほどじゃない。触れて、離れる。
廊下に出ると、空気が少し冷たく感じた。
ミナが小さく言った。
「……終わった?」
「始まっただけ」
静が言う。
「明日、別室が出なかったら次の手。外部の相談記録を作る」
ミナが頷く。顔は疲れているのに、目だけは前を見ている。
進路室へ戻る途中、相沢陸が廊下の柱の影から顔を出した。
「先生。レオの母親、月曜の通話……時間変えろってLINE来てます。あと、シンの方も“今日中に返事”って家から」
静の足が止まる。月曜の18:30。二人分の家庭が、その時間にぶつかってくる。
ミナが静を見る。
「先生、忙しい?」
静は短く息を吐いた。
「忙しい。だから順番を作る」
ミナが鞄の紐を握り直す。
「……私、明日。西野、保健室から別室に移るとき、ついていく」
「一人で背負うな。保健室の先生にも言って、許可取って」
ミナが頷く。
「分かった」
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静はドアを開けた。
中ではレオとシンが顔を上げる。陸も戻ってきて、静の表情を探る。
静はミナに言った。
「今日は帰る前に、コピー。受領印もらう。できる?」
ミナは頷いた。
「できます。……消されないから」
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レオが言った。
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静が被せる。
「別に、じゃない。外せない」
シンが笑うでもなく言った。
「先生、倒れるよ」
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静はキャビネットの鍵を指先で確かめた。封筒はまだそこにある。
ミナがドアのところで振り返る。
「先生」
「何」
ミナは一瞬だけ口を開けて、閉じた。代わりに短く言う。
「……明日、また来ます」
静が頷く。
「来い。明日は明日の戦い方がある」
ミナが廊下へ出る。ドアが閉まる直前、廊下の遠くで誰かが言った。
「教頭が、進路室の運用見直しだってさ」
声は小さかったが、確かに届いた。
静はドアの向こうを見たまま、手を離さなかった。
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