成績表に書けない才能

深渡 ケイ

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第20話:いじめの証拠

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 第3進路室のドアが、遠慮がちに二回ノックされた。

「開いてる」

 桐生静が顔を上げると、廊下に立つ女子が鞄の持ち手を握り潰すようにしていた。高瀬ミナ。いつも目だけが先に動く子だ。

「……今、いいですか」

「座って。名前書く?」

 静が指したのは、机の端に置いた来室記録の紙だった。ミナはペンに手を伸ばしかけて、やめた。

「書いたら、バレます」

「誰に」

 ミナは口を開けて閉じる。喉の奥で言葉が引っかかっているのが見えた。

 奥の長机では、山科レオがプリントを広げ、小森シンがスマホの画面を伏せていた。二人とも会話を止めて、視線だけをこちらに寄せる。

 静は椅子を一つ引き、ミナと机を挟まない位置に座った。

「書かないでいい。代わりに、何が起きてるか言って」

 ミナは鞄を膝に置いたまま、ファスナーを少し開けた。中から出てきたのは、A4のクリアファイル。角が擦れて白くなっている。

「これ……」

 静が受け取ろうとすると、ミナは反射で引っ込めた。

「先生、誰にも見せないって言えます?」

「言える。でも、守れる範囲には限界がある」

 ミナの眉がわずかに動く。

「……何それ」

「学校の中で動くなら、校内のルールと人が絡む。完全に秘密で解決はできない。だから、先に選択肢を出す」

 静は机の上のメモ帳を裏返し、何も書かずに置いた。

「一つ。証拠を集めて、学校に正式に動かせる形にする。二つ。学校が動かない前提で、外の機関につなぐ。三つ。あなた自身の安全を優先して、いったん距離を取る」

「距離って……逃げろってこと?」

「避難。逃げじゃない」

 ミナはファイルの端を爪で弾いた。カチ、カチと乾いた音。

「でも、距離取ったら、あいつら勝ちじゃん」

 その言い方が、誰かのための怒りだと静にはわかった。本人のためだけなら、ここまで固くならない。

「誰がやられてる」

 ミナの視線が、レオとシンを一瞬だけ掠めた。違う。別の場所を見ている目だ。

「……一年。西野。クラス違う」

「西野さん、今どんな状態」

「保健室。昼休みも。教室、無理って」

「担任は」

「『気のせいじゃない?』って。証拠がないって」

 ミナの声が少しだけ大きくなって、すぐ自分で抑えた。

 静は頷いた。

「だから、集めてる」

 ミナはようやくファイルを机に置いた。透明な表紙越しに見えるのは、印刷したスクショと、手書きの時系列。日付、場所、言葉。細かい。

 静は一枚だけ抜いて目を通した。グループチャットの画面。名前は伏せてあるが、言葉の刺さり方が生々しい。

「これ、誰が撮った」

「私」

「西野さんのスマホじゃない?」

「違う。……私の」

 ミナは言い直した。

「西野のは、取られたら終わるから。私が、見える範囲で」

「見える範囲で、ここまで揃えるのは才能だよ」

 静がそう言うと、ミナは顔を上げた。

「……才能とか、いらない」

「いらないなら、捨ててもいい。けど、武器になる。武器は持ってた方がいい」

 ミナは唇を噛んだ。痛みをごまかす癖みたいに。

 奥でシンが小さく息を吐いた。

「……それ、証拠って言えるの?」

 ミナが睨む。シンは肩をすくめた。

「いや、変な意味じゃなくて。学校ってさ、都合悪いと『弱い』って言うじゃん」

 レオが低く言った。

「証拠が弱いって言われたら、集めた方が悪いみたいになる」

 ミナの指がファイルの端を強く押さえた。

「そう。だから、もっと要る。動画とか。音声とか」

 静が即座に首を振った。

「それは危ない」

「でも!」

「危ない。あなたが」

 静は声を強めない。短く切る。

「録音や撮影は状況によっては有効。でも、相手に気づかれた瞬間に、あなたが標的になる。学校は守ると言う。でも守れない時がある」

 ミナが椅子の背にもたれず、前のめりのまま固まった。

「……じゃあ、どうしろって」

「まず、今あるものを『学校が無視できない形』に整える」

 静はファイルを閉じ、机の上に揃えた。

「時系列はいい。スクショもいい。次に必要なのは、第三者のメモ。見た人の名前と、見た日時。あなた一人の記録にしない」

 ミナが眉を寄せる。

「誰も書いてくれない。みんな、関わりたくない」

「関わりたくないのは普通。だから、書くのは先生側がやる」

 ミナの目が揺れる。

「先生が?」

「私が、あなたから聞いたことを『聞き取り記録』として残す。あと、保健室の利用記録。欠席遅刻の変化。廊下での指導記録。積み上げる」

「それで、動くの?」

「動かすには、校内の窓口を通す必要がある」

 静は言葉を選んだ。ここで「教頭」が絡むと、ミナの肩がさらに上がる。

「……生徒指導」

 ミナが吐き捨てるように言った。

「生徒指導の先生、あいつらと仲いい」

「仲いい先生もいる。逆に、厳しくする先生もいる。どっちに当たるかは運がある。だから、外の線も同時に引く」

「外って?」

「市の子ども家庭支援の窓口。スクールソーシャルワーカー。必要なら警察の相談窓口もある。今すぐ『事件』にするんじゃなくて、記録を残す相談」

 ミナは目を細めた。

「警察とか、やりすぎって言われる」

「言われる。だから順番を作る。『やりすぎ』って言葉で黙らされない順番」

 静の声は低いまま、硬い。

「西野さんの安全、あなたの安全、証拠、手続き。これを同時に回す」

 ミナはしばらく黙っていた。沈黙の間に、廊下の足音が遠くで反響する。進路室の壁は薄い。

 レオが小さく言った。

「……高瀬、これ、誰にも見せてないの?」

 ミナが首を横に振る。

「見せたら、広まる」

「広まったら、終わり?」

「……終わり」

 ミナの声がかすれた。自分のことじゃないのに、喉が砂を噛む。

 静は机の引き出しから封筒を出し、無地のテープで口を留めた。

「ここに入れて。今日の分は私が預かる」

 ミナが封筒を見つめる。

「先生、信用していいの」

「信用の代わりに、確認を増やす」

 静は封筒に日付を書き、ミナの前に置いた。

「封筒にあなたのサイン。私もサイン。預かった記録を残す。勝手に開けたらバレるようにする」

 ミナはペンを握った。書く手が少し震えて、文字が細く歪む。

 サインを終えると、ミナは封筒を押し込むように静へ渡した。渡した瞬間、指が離れない。静は引っ張らず、待った。

「……西野、転校したいって言ってる」

 ミナが小さく言った。

「逃げたって言われるの、嫌だって」

「転校は逃げじゃない。生き残り」

 静は言い切った。

「でも、手続きは簡単じゃない。席があるか、学区、家庭の同意。時間もかかる。だから、今ここで決めなくていい。決めるための材料を集める」

 ミナの指がようやく離れた。

「先生、学校はさ……こういうの、嫌がるじゃん」

「嫌がる人はいる」

 静の脳裏に、鍵ケースの監査と言った教頭の声が刺さる。数字にならない面倒事を、できるだけ「なかったこと」にしたい空気。

「嫌がる人がいるなら、なおさら記録が必要」

 ミナは息を吸って、吐いた。

「……私、成績悪いし。先生たち、私の言うこと、信用しない」

「信用させるのが仕事。あなたの成績は関係ない。関係あるのは、事実の積み方」

 静が立ち上がると、ミナも反射で立った。

「今日、放課後、西野さんに会える?」

「保健室にいる。……でも、先生が行ったら、目立つ」

「じゃあ、保健室の先生に先に話す。あなたは廊下で待ってて。二分で戻る」

 ミナが頷きかけて、止まった。

「でも、担任にバレたら」

「担任が誰かは知ってる。勝手に話を回さない。必要なときだけ、必要な形で伝える」

 ミナはようやく椅子に腰を落とした。落としたというより、力が抜けて沈んだ。

 シンがぽつりと言った。

「……証拠集めるの、しんどいよね」

 ミナはシンを見ない。

「しんどい。けど、見て見ぬふりの方が、もっとしんどい」

 レオが目を伏せたまま、小さく頷いた。

 静は封筒を鍵付きのキャビネットに入れた。鍵を回す音が、やけに大きい。

 キャビネットの上には、鍵ケースの点検用チェック表が置きっぱなしになっている。黒川の圧が、紙の白さでそこに居座っていた。

 静はそれを裏返し、ミナに向き直った。

「高瀬。今から保健室に行く。相沢、ここ、頼める?」

 相沢陸は窓際の椅子から背筋を伸ばした。いつからいたのか、静にはわからなかった。彼は来室記録の紙を静の目に入る位置へそっとずらす。

「……はい。誰か来たら、止めます」

「止めるって」

 陸は小さく肩をすくめた。

「“今、先生いません”って言うくらいは」

 静が頷くと、ミナが立ち上がった。

「私も行きます」

「廊下で待つ。約束」

「……はい」

 二人が進路室を出ると、廊下の空気がひやりとした。遠くの職員室側で、誰かが書類を束ねる音がする。

 ミナは歩きながら、静の横顔を盗み見た。

「先生、こういうの……怒られますよね」

 静は足を止めずに言った。

「怒られるかどうかは、相手次第」

「じゃあ」

「でも、怒られるのが怖くて何もしないなら、最初からこの部屋は要らない」

 ミナの指が制服の袖を握った。握って、ほどいた。

 保健室の扉が見えてくる。ミナの歩幅が少しだけ遅くなる。

 静は扉の前で立ち止まり、ミナの方を向いた。

「最後に確認。西野さんが『やめて』と言ったら、止める。本人の意思が最優先」

 ミナは一瞬、唇を開いた。反論が出かけて、引っ込む。

「……分かりました」

 静が扉に手をかけた瞬間、廊下の向こうから男性教員の声が飛んだ。

「桐生先生、ちょっといい?」

 声は柔らかい。けれど、急かす響き。職員室側から近づいてくる足音は一人分じゃない。

 静は扉から手を離さず、振り返った。

「今、保健室に用がある。要件は短く」

 ミナは反射で一歩下がった。背中が壁に触れる。

 近づく影の先に、黒いネクタイが揺れた。教頭ではない。だが、教頭の言葉を運ぶ人間の顔をしている。

 静はミナにだけ聞こえる声で言った。

「ここで待って。絶対に一人で動かない」

 ミナは小さく頷き、壁に背をつけたまま、廊下の影を見据えた。


「桐生先生、職員室に一度」

 声をかけてきたのは学年主任の北村だった。後ろに、生徒指導の札を首から下げた教師が半歩遅れてついてくる。二人とも、笑っているのに目が笑っていない。

 静は保健室の扉に手を置いたまま言った。

「今、保健室。急ぎ」

「急ぎならなおさら。教頭から」

 北村が視線だけで、扉の前のミナを一瞬見た。ミナは壁に背をつけ、口を結んだ。

「高瀬さんだよね」

 生徒指導の教師が、やわらかい声を作った。

「ちょっと、職員室で話そうか」

 ミナの肩が跳ねる。静が間に入った。

「高瀬は今、私の指導中。話すなら私が同席する」

「桐生先生、これは生徒指導案件です」

「進路室の生徒でもある」

 静は扉から手を離し、二人の前に立った。通路の幅が一気に狭くなる。

 北村が息を吐いて、声を落とす。

「……騒ぎにするなって。上の判断」

「上って誰」

「教頭」

 静の喉が少しだけ鳴った。飲み込む音が自分でも聞こえる。

「今、いじめの相談が来てる。上の判断が先?」

 生徒指導の教師が、困ったように眉を寄せた。

「いじめって断定はね。慎重に。証拠も、まだ——」

「証拠ならある」

 ミナが絞り出すように言った。声が震えたまま、でも引っ込めない。

 北村がすぐ被せる。

「高瀬さん、こういうのはね、間違いがあったら大変なんだよ。君も傷つく」

 ミナが唇を噛む。静が短く言った。

「傷ついてるのは、もういる」

「桐生先生」

 北村の声が硬くなる。

「学校としては、まず当事者同士で話し合いを——」

「当事者同士で? 一年の子を、複数の前に座らせるの?」

 生徒指導の教師が言葉を探す。

「いや、それは……配慮して……」

「配慮の結果が保健室登校なら、配慮が足りない」

 静は言い切って、息を整えた。怒鳴れば負ける。ここは勝ち負けの場にされる。

 北村が手を上げ、静の胸元の名札を指すようにして言った。

「先生、進路室の鍵ケース、今日中に監査だよね。教頭、相当怒ってる。余計な火種は増やさないで」

 静は笑わなかった。

「火種じゃない。火だ」

「言い方」

「現状の言い方」

 生徒指導の教師が、ミナに向かって片手を差し出した。

「高瀬さん、じゃあ、今持ってるものを一度預からせて。こちらで精査——」

 ミナが反射で鞄を抱える。静が即座に言った。

「預からない。押収もしない」

「押収って、そんな」

「言葉はどうでもいい。本人の意思がないなら渡さない」

 北村が眉間を押さえた。

「桐生先生、こういうのは学校として一本化しないと。情報が散ると、混乱する」

「混乱してるのは、大人の都合」

 静の声が少しだけ低くなる。ミナが静の袖をつかんだ。小さな力。止めるためじゃない。ここにいるための力。

 北村はその手を見て、ため息をついた。

「……とにかく、教頭が呼んでる。今すぐ」

 静は一拍置いた。

「分かった。行く。ただし、高瀬はここに残す。保健室の先生に預ける」

 生徒指導の教師が首を振る。

「いや、本人から直接——」

「直接は、私が同席できる時だけ」

 北村が苛立ちを隠さず、声を小さく尖らせた。

「先生、学校は企業なんだよ。評判が落ちたら、生徒全員が困る」

 静は視線を北村に固定した。

「評判が落ちたら困るのは分かる。でも、今困ってる子を先にする」

 北村の口元が引きつる。

「正義感で動くなって言ってるんじゃない。順序の話」

「順序なら、私が作る」

 静はミナに向き直った。

「高瀬。保健室に入って、先生に『桐生が来るまで誰とも話さない』って言って。言える?」

 ミナは頷いた。頷き方が早すぎて、怖さが残っている。

「……言えます」

「鞄、絶対に手放すな。トイレも一人で行かない。誰か呼ぶ」

 ミナが顔を上げる。

「私、そんな……」

「そんな、って思うなら、なおさら。現実は優しくない」

 静は言い切って、ミナの肩を軽く叩いた。慰めじゃない合図。

 ミナが保健室の扉に手をかけた瞬間、生徒指導の教師が言った。

「高瀬さん、君が変なことしたって思われたくないでしょ? だから——」

「思われる」

 静が遮った。

「何しても言う人は言う。だから、こちらは記録で守る」

 北村が静の腕を軽く引く。

「行くよ」

 静は最後にミナの背中を見た。扉の向こうに吸い込まれる細い背。

 そのまま職員室へ向かう廊下を歩く。窓の外、グラウンドの声が遠い。学校の中だけ、音が固い。

 職員室の入口で北村が言った。

「教頭、機嫌悪いから。余計なこと言うなよ」

 静は靴音を揃えて中に入った。

 教頭席の周りだけ、空気が薄い。黒川恒一は書類の山から顔も上げず、ペンを走らせている。静が近づいても、紙をめくる音だけが続いた。

「桐生先生」

 ようやく黒川が顔を上げた。目が静を測る。

「保健室で何をしていた」

「相談対応です」

「相談は結構。しかし、今は監査が優先だ」

 黒川は机の端のチェック表を指先で叩いた。

「鍵ケース。管理簿。貸出記録。今日中に提出」

 静は息を吸って、吐いた。

「鍵の管理は出します。ですが、いじめの相談が——」

 黒川の目が細くなる。

「いじめ、という言葉を軽々しく使うな。学校の信用に関わる」

「信用は、守り方を間違えると崩れます」

 黒川は椅子にもたれ、指を組んだ。

「君は、波風を立てるのが好きだな」

 静は笑わない。

「好きじゃない。必要な波があります」

「必要かどうかを決めるのは組織だ」

 黒川の声は穏やかなまま、刃だけが増える。

「君の役目は、進路実績を落とさないこと。余計な案件を抱え込むな」

 静の喉が動いた。言い返せる言葉は山ほどある。だがここで噛みつけば、ミナのルートが塞がる。

 静は視線を落とさず、言葉を短くした。

「抱え込みません。繋ぎます」

 黒川が眉を動かす。

「どこに」

「校内の正式手続きと、必要なら外部」

 黒川が一瞬だけ黙り、机の上のペンを置いた。

「外部? 勝手に動くなよ。学校を通せ」

「通します。記録も残します」

 黒川は静を見つめたまま、ゆっくり言った。

「記録は便利だ。だが、記録は刃にもなる。誰に向けるつもりだ」

 静は答えを選んだ。選ぶ時間が、怒りを鎮める。

「生徒を守るためです」

 黒川が鼻で笑うような息を漏らした。

「生徒を守る? 君一人で?」

「一人でやりません。だから、協力を求めます」

 静は一歩も引かない代わりに、声の温度を落とした。

「教頭、いじめ対応の窓口を明確にしてください。誰が一次受けで、誰が記録し、誰が保護者対応するか。曖昧だと揉めます」

 黒川の指先が机を叩いた。トン、と一回。

「……君は口が回るな」

「回さないと潰れます」

 黒川が静の机の方を顎で示す。

「進路室に戻れ。監査の準備をしろ。いじめの件は、生徒指導に回せ。君は関わるな」

 静の中で何かが跳ねた。だが、顔には出さない。出せば、ここで終わる。

「関わりません、とは言えません」

 黒川の目が鋭くなる。

「命令だ」

 静は一拍置き、言葉の角を落とした。

「では、同席だけ許可をください。本人が安心して話せる大人が必要です。記録は生徒指導に渡します。窓口は一本化します」

 黒川が黙る。周囲の教師たちがキーボードを叩く音だけがやけに大きい。

 やがて黒川が言った。

「同席は一回だけだ。余計なことはするな」

 静は頷いた。

「一回で、必要なことを揃えます」

 黒川が手を振った。

「行け」

 静が職員室を出ると、廊下の空気が少しだけ戻った。ポケットの中でスマホが震える。画面には、相沢陸からの短い通知。

『進路室に生徒指導の先生来た。鍵ケース見せろって。レオとシン、固まってる』

 静は歩幅を速めた。保健室の扉の前で待つミナの顔が浮かぶ。進路室のキャビネットに入れた封筒の重さも。

「……波風、立てない方法で立てる」

 静は小さく息を吐き、曲がり角を曲がった。進路室のドアの前に、人影が二つ見えた。


 第3進路室のドアの前に、生徒指導の教師と北村が立っていた。北村は腕時計を見て、わざとらしく首を傾げる。

「遅いよ、桐生先生」

 静は鍵束を鳴らさずにポケットから出した。

「監査の準備はできてる。中に入る」

 生徒指導の教師が一歩前に出る。

「鍵ケース、今すぐ確認します。教頭の指示で」

「分かってる」

 静がドアを開けると、室内の空気が固まっていた。

 相沢陸が机の端に立っている。山科レオは椅子に座ったまま、背筋が不自然に伸びている。小森シンは手元のプリントをぐしゃっと握り、すぐ開いた。握ったことをなかったことにするみたいに。

「先生」

 陸が小さく言った。

 静は視線だけで「大丈夫」と返し、鍵ケースの入った引き出しを開けた。

「どうぞ。貸出簿もここ」

 生徒指導の教師はケースの番号を指でなぞり、チェック表に印をつけていく。北村は部屋を見回し、キャビネットの上をちらりと見た。封筒が入っている鍵付きキャビネット。静はその視線を見逃さない。

「……このキャビネットも開ける?」

 北村が軽い調子で言う。

 静は頷かなかった。

「監査対象は鍵ケースと管理簿。教頭の指示はそこまで」

 生徒指導の教師が口を挟む。

「でも、情報が——」

「情報は監査じゃない」

 静は淡々と言った。言い方を間違えると、封筒が「証拠」じゃなく「問題物件」になる。

 北村が鼻で笑う。

「相変わらず守りが固い」

「守らないといけないものがある」

 生徒指導の教師がチェックを終え、紙を揃えた。

「……分かりました。鍵ケースは問題なし。ですが桐生先生、例の件。生徒指導室で、今日のうちに」

 静は短く頷いた。

「同席は一回だけ。教頭と約束した」

 北村の眉が動く。教頭の名が出ると、空気の主導権が変わる。

「じゃあ、連れてきて」

 静は首を振った。

「連れてこない。来るかどうかは本人が決める。今日は『相談の手順』だけ整える」

 生徒指導の教師が言葉を飲み込む。

「……では、後ほど」

 二人が出ていくと、ドアが閉まった音がやけに大きかった。

 レオが息を吐いた。

「……全部持ってかれるかと思った」

 シンが唾を飲む音を立てる。

「鍵ケースってさ、あれ、何がそんな大事なの」

 静は椅子に座らず、机の角に腰を預けた。

「鍵は学校の“管理できてる証拠”になる。管理が崩れると、責任が崩れる」

 陸が苦い顔をする。

「責任って、いつもこっちに落ちてくるやつ」

 静は返事をせず、キャビネットの鍵を確かめた。回る感触がいつもより重い気がする。

「相沢。高瀬、今どこ」

「保健室です。さっきLINEで、『誰とも話してない』って」

 静は頷き、スマホを取り出した。

「今から呼ぶ。ここで短く、手順だけ教える」

 シンが目を丸くする。

「ここで? また来るかもしれないのに」

「来る。だから、時間をかけない。要点だけ」

 静は保健室へメッセージを送った。『今、進路室に来れる? 来るなら一人じゃなく保健室の先生に声かけてから。無理なら無理でいい』

 数十秒後、既読がつき、短い返事が返った。『行ける。先生に言った』

 静はドアの外を一度見て、陸に言った。

「相沢、廊下。人が来たら合図」

「はい」

 陸が出ていくと、レオがぽつりと言った。

「高瀬って、あの……目が怖い子?」

「怖くない」

 シンが即答して、気まずそうに咳払いした。

「いや、怖いっていうか、見てるって感じ」

 静はレオとシンを見た。

「二人は今日は、聞くだけ。口を挟まない。高瀬の話は高瀬のもの」

「……はい」

 シンが頷く。レオも頷いた。

 ノックが二回。静が「どうぞ」と言うと、高瀬ミナが入ってきた。鞄を胸に抱え、視線は部屋の隅まで一度で走る。誰がいるか、何が動いたか。確認してから、静の前に立った。

「……まだ、誰にも取られてない」

「よし」

 静は椅子を一つ引き、ミナに座るよう示した。ミナは座らず、立ったまま言う。

「職員室、呼ばれました?」

「呼ばれた。『波風立てるな』って」

 ミナの肩がわずかに上がる。

「やっぱり」

「だから、こっちは波風じゃなく手順でいく」

 静は机の上に白紙を置き、ペンを転がした。書き始める前に、ミナの目を見る。

「高瀬。目的、確認する。あなたは何がしたい」

 ミナの唇が動いた。最初に出た言葉は、飲み込まれた。代わりに、硬い声。

「……あいつら、終わらせたい」

 静は頷かない。否定もしない。

「終わらせ方はいくつかある。潰す、晒す、追い込む。どれも“すぐ”は気持ちいい。でも、そのあとが地獄になることがある」

 ミナが睨む。

「じゃあ、我慢しろって?」

「我慢じゃない。守り方を選ぶ」

 静は紙に線を一本引いた。

「復讐は相手を変える。守りは状況を変える」

 ミナの指が鞄の持ち手を握り直す。

「状況なんて、変わらない」

「変えるには時間が要る。時間を稼ぐには手順が要る」

 静は紙に小さく書いた。

「一、相談窓口。二、記録。三、第三者」

 ミナが眉を寄せる。

「またそれ」

「またそれ。これが一番効く」

 静は一つずつ指で叩いた。

「相談窓口。校内は生徒指導。保健室。担任は当てにならない時があるから、必ず複数に言う。言う相手は“役職”で選ぶ」

「役職……」

「担任がダメなら学年主任。学年主任がダメなら教頭。教頭が止めるなら——」

 静は言い切らず、少し間を置いた。

 ミナが先に言った。

「外」

「そう。市の窓口、SSW、児相の相談、警察の生活安全の相談。『通報』じゃなく『相談』で記録を残す」

 ミナの目が揺れる。

「学校にバレたら……」

「バレる可能性はある。だから、バレた時に『正しい順序で動いた』って言えるようにする。あなたが悪者にならないように」

 ミナが小さく息を吐く。

「……私が、悪者」

 静は紙の「二、記録」を指した。

「記録。スクショ、時系列、保健室利用。これに加えて、今日からは“あなたの行動”も記録する。いつ誰に相談したか。何を言われたか。短くでいい」

「そんなの、面倒」

「面倒が一番強い。面倒は嘘をつけない」

 シンが小さく笑いそうになって、慌てて口を押さえた。ミナが睨み、シンは手を下ろして「すみません」と小声で言った。

 静は最後の「三、第三者」を指す。

「第三者。あなたと西野さん以外の目。保健室の先生、私、できればSSW。学校の中だけで完結させない」

 ミナが静を見た。

「先生、同席してくれるって言った」

「一回だけ許可が出た。だから、その一回を無駄にしない」

 ミナが唇を噛む。

「一回で、全部言えるかな」

「言えない。だから、言うことを絞る」

 静は紙をミナの方へ滑らせた。

「今日、言うのは三つだけ。西野さんの今の状態。具体的に何が起きてるか。学校に何をしてほしいか」

 ミナが紙を見つめる。ペンを取らない。

「何をしてほしいかって……」

「守ってほしい、でいい。でも“守る”は曖昧だから、行動にする」

 静は言葉を短く区切った。

「席替え。加害側の指導。西野さんの別室対応。登下校の見守り。SNSの削除指導。保護者連絡。できることを要求にする」

 ミナの目が少しだけ開く。

「そんなの、言っていいの?」

「言わないと、何も起きない」

 ミナは鞄からスマホを出し、画面を見た。指が迷って、止まる。

「……私、晒したいって思ってた。SNSに全部載せて」

 静は黙って待った。ミナが続ける。

「それなら、あいつら困るし。みんな味方してくれるって」

 静が言った。

「味方は増える。敵も増える。西野さんの名前も一緒に広がる」

 ミナの喉が詰まる。静はそこで初めて、少しだけ声を柔らかくした。

「守りたいのは、相手を痛くすること? 西野さんが明日学校に来れること?」

 ミナの目が赤くなる手前で止まった。瞬きを一回、強くする。

「……西野が、来れる方」

「なら、晒さない」

 ミナは頷いた。頷き方が、さっきより遅い。

「……でも、あいつら、許せない」

「許さなくていい。許さないまま、手順で潰す」

 静は紙を折って、ミナの鞄の外ポケットに差し込んだ。

「これ、カンペ。生徒指導室で手が震えたら、見ていい。恥ずかしくない」

 ミナが小さく笑いそうになって、すぐ真顔に戻った。

「先生、私、言い方きついかも」

「きつくていい。事実だけ言え。相手の人格を罵らない。罵ると“喧嘩”にされる」

 ミナが頷く。

「事実だけ」

「そう。感情は消さなくていい。けど、武器にしない。手順の邪魔になる」

 ドアがノックされた。相沢陸の声が外からする。

「先生。廊下に、生徒指導の先生。あと……北村先生も」

 ミナの肩が固まる。静は立ち上がった。

「来た。予定より早い」

 シンが言った。

「今、行くんですか」

 静がミナを見る。

「行くか、今日はやめるか。決めるのは高瀬」

 ミナは一度だけ目を閉じた。開いた目は、さっきより乾いている。

「……行く。西野のために」

 静は頷いた。

「じゃあ、私が前に立つ。あなたは後ろで、紙を見ていい。途中で止めたくなったら、私の袖を引け。そこで止める」

 ミナが静の袖を軽くつまむ練習をした。指先が小さく震えた。

「……こう?」

「そう。十分」

 静がドアへ向かうと、レオが椅子から半分立ち上がった。

「先生、もし……また鍵、って言われたら」

「鍵は私が持つ。君らは関係ない顔してろ」

 シンが口を尖らせる。

「関係ない顔、できないんだけど」

「できなくていい。黙ってればいい」

 静がドアを開ける。廊下に北村と生徒指導の教師が立っていた。北村が笑う。

「準備できた?」

 静はミナの肩の高さに手を添え、半歩前に出た。

「できた。話すのは事実と要望。記録も取る」

 生徒指導の教師が少し身構える。

「記録は——」

「こちらでも取る。双方で残す。後で“言った言わない”にしない」

 北村の笑いが薄くなる。

「……やりにくいな」

 静は同じ温度で返した。

「やりにくい方が、雑に扱われない」

 ミナが一歩踏み出した。鞄を抱えたまま、でも足は止まらない。

 静は廊下の先、職員室の方向を見た。黒川の机の周りの空気がまた濃くなるのが分かる。それでも、ここで引けば、ミナは次に一人で戦うことになる。

 静はミナにだけ聞こえる声で言った。

「守りを選んだ。十分強い」

 ミナは頷き、静の半歩後ろに位置を取った。

 三人の足音が、廊下に並んで響き始めた。生徒指導室のドアが近づくにつれて、ミナの指が静の袖をそっとつまんだまま離れなかった。


 生徒指導室は、窓が小さくて息が詰まった。机の上の湯呑みだけが妙に生活感を出している。

「座って」

 生徒指導の教師が椅子を勧める。ミナは一度椅子を見てから、静の隣に座った。鞄は膝。ファスナーを握ったまま。

 北村が壁際に立ち、腕を組む。

「じゃあ、高瀬さん。何があったのか、落ち着いて」

「落ち着いてます」

 ミナの声は細い。けれど、言葉の端が折れていない。

 静はスマホを机の端に置いた。画面を伏せず、録音アプリの赤い点だけを見えるようにする。

 生徒指導の教師が眉をひそめた。

「録音……?」

「双方のためです」

 静が言う。

「あとで『言ってない』を防ぎたい」

 北村が鼻で笑う。

「大げさだな」

 静は返さない。返すと、ここが“感情の場”にされる。

 生徒指導の教師が咳払いをした。

「……分かりました。では、事実を。いつから?」

 ミナは鞄の外ポケットから折り畳んだ紙を出した。静が渡したカンペだ。ミナはそれを開いて、目を落とす。

「文化祭の準備の前から。九月の二週目」

「対象は」

「一年の西野。クラスは一組」

「加害……その、関わってる子は?」

 ミナの指が紙の端を握り込む。静が小さく首を振った。名前は後回し。まず状況。

 ミナが息を吸う。

「やってることは、SNSでの悪口。教室での無視。物を隠す。体育の時に、わざと当たる」

 北村が口を挟む。

「それ、見たの?」

「見た」

 ミナが即答した。

「いつ、どこで」

「先週の水曜、体育館。西野がボール拾ってた時に、肩にぶつけて『邪魔』って」

 生徒指導の教師がメモを取る。ペン先が紙を擦る音が、ミナの言葉を追いかける。

「SNSは、どのグループ?」

「二年の女子のグループ。西野は入ってない。西野のことを話してる」

「それは——」

 北村が静を見る。

「高瀬さんが覗いたってこと?」

 ミナの顔が一瞬で固くなる。静が言った。

「覗きではありません。相談を受けて、見える範囲で記録した。違法な侵入はしていない」

 北村が肩をすくめる。

「そういうの、揉めるんだよ。君もトラブルに——」

「トラブルは、もう起きてます」

 ミナが言った。言い返したのに、声が上ずらない。

 生徒指導の教師が北村を手で制し、ミナに向き直る。

「西野さんの今の状態は?」

 ミナが紙を見たまま、短く言う。

「保健室登校。教室に入れない。昼も、トイレも、誰かがついてないと怖いって」

「怖い、って——」

 北村がまた口を挟みかけて、静の目に止められた。北村は口を閉じる。

 生徒指導の教師がゆっくり頷く。

「分かりました。学校としては、まず状況確認を——」

「要望があります」

 ミナが言った。紙の三つ目の項目に指を置いている。

 生徒指導の教師が顔を上げる。

「要望?」

「西野を、別室対応にしてください。保健室だけじゃなくて、授業も。あと、席替え。登下校の見守り。SNSの指導。保護者に連絡」

 言い切った瞬間、ミナの肩が少し落ちた。吐いた息が、やっと通ったみたいに。

 北村が笑った。

「全部は無理だよ。学校にも限界がある」

「限界は分かってます」

 ミナが言う。静は横で、ミナの膝の鞄が微かに震えているのを見た。

「だから、優先順位」

 静が口を開いた。

「第一は別室対応の確保。教室復帰は今じゃない。第二は席替え。第三は保護者連絡。SNSは指導計画を立ててください」

 生徒指導の教師は頷いたが、次の言葉が遅い。

「別室対応は……教室数が……」

 静が即座に言う。

「進路室は使えません。監査が入ってる。保健室も常時は厳しい。なら、空き教室の鍵管理を生徒指導で。責任者を決めて」

 北村が不機嫌そうに言った。

「また鍵の話か」

 静は淡々と返す。

「鍵の話です。鍵がないと人は守れない」

 生徒指導の教師がペンを止めた。

「……分かりました。検討します。ただ、席替えは担任が——」

「担任は動きません」

 ミナが言った。目線が上がる。静の袖をつまんでいた指が離れ、机の上に置かれた。

「『気のせい』って言いました」

 北村が眉を上げる。

「佐伯が?」

 静はその名に反応しない。ここで担任を槍玉に上げると、組織は守りに入る。

 生徒指導の教師が喉を鳴らす。

「……担任にはこちらから確認します。ですが、いじめと断定するには——」

「断定しなくていい」

 静が言った。

「断定できないなら、なおさら安全確保を先に。断定は後でいい」

 生徒指導の教師が小さく頷く。だが、北村が言う。

「学校の信用ってのがある。大事にしたら、他の保護者も騒ぐ。受験にも影響する」

 ミナの目が北村に向いた。刺すような目じゃない。見逃さない目。

「西野が受験する前に、壊れたらどうするんですか」

 北村が言葉に詰まる。

「……だから、慎重に——」

「慎重って、止めることじゃない」

 ミナが言った。机の上の紙を折り、鞄に戻す。手が少しだけ震れているのに、動作は丁寧だ。

 生徒指導の教師が静のスマホを見た。

「録音、こちらにも共有を?」

「議事録として要点を文書にします。今日の面談記録、作成して、あなたと私で署名。高瀬にも控えを渡す」

 北村が笑う。

「そこまで?」

 静は目を逸らさない。

「そこまでしないと、消える」

 北村の笑いが止まる。生徒指導の教師が唇を引き結び、頷いた。

「……分かりました。では、こちらで面談記録を作成します。高瀬さん、スクショ等は——」

 ミナが鞄を抱え直す。

「渡しません」

 生徒指導の教師が驚いた顔をする。

「え……? 提出が——」

「預けると、消えるかもしれない」

 ミナの声が少しだけ低くなる。

 静が補う。

「原本は本人が保持。学校にはコピー。必要な部分だけ。提出の受領印を押してください。受領印がないなら渡さない」

 北村が舌打ちを飲み込む。

「……面倒な」

「面倒にします」

 静が言った。

「面倒にしないと、弱い側が負ける」

 生徒指導の教師が視線を落とし、机の引き出しから朱肉を出した。小さな丸い印鑑も。

「受領印……押します。コピーを持ってきてください」

 ミナの手が止まる。静を見る。静は頷く。

「今日、家でコピーはできる?」

「コンビニで……」

 ミナが言うと、生徒指導の教師が言った。

「校内のコピー機、使っていい。私が立ち会う。個人情報は隠して」

 北村が不満そうに言う。

「そこまでする必要——」

 生徒指導の教師が初めて北村を見た。

「必要です。今、目の前の子が言ってます」

 北村は肩をすくめ、壁にもたれ直した。

 静はミナの横顔を見る。唇が乾いている。けれど、背中は丸まっていない。

 生徒指導の教師が声を落とす。

「高瀬さん。西野さん本人の意思確認も必要です。あなたが代表みたいに動くのは、負担になる」

 ミナが頷く。

「分かってます。西野が『やめて』って言ったら、止める」

 静が一瞬だけ目を細める。ミナは覚えていた。

「でも」

 ミナが続けた。

「止めるって言っても、記録は残す。消さない」

 北村が鼻で笑う。

「消すって、誰が消すんだよ」

 ミナは北村を見て、言った。

「消えるんです。勝手に。そういうの、見てきた」

 言い切ったあと、ミナは自分の胸元を指で叩いた。制服の布が小さく鳴る。

「私は、消されない」

 部屋が一瞬静かになった。生徒指導の教師のペンが止まり、北村の視線が泳ぐ。静は何も言わず、ただ頷いた。

 生徒指導の教師が喉を鳴らし、事務的な声に戻る。

「……では、次の手順です。西野さん本人の面談。保護者連絡。別室対応の調整。席替えは担任と協議」

 静が言う。

「期限を決めて。『検討』で終わらせない」

 生徒指導の教師が頷く。

「明日の昼までに、別室の場所を決めます。保護者連絡は今日中に一度。担任には今日中に伝えます」

 北村が口を開く。

「教頭にも報告——」

 静が遮らずに言った。

「報告するなら、事実と手順だけ。余計な感想はいらない」

 北村が苦い顔をする。

「……分かったよ」

 面談が終わり、ミナが立ち上がる。足が少しふらついて、静の袖に指が触れる。つまむほどじゃない。触れて、離れる。

 廊下に出ると、空気が少し冷たく感じた。

 ミナが小さく言った。

「……終わった?」

「始まっただけ」

 静が言う。

「明日、別室が出なかったら次の手。外部の相談記録を作る」

 ミナが頷く。顔は疲れているのに、目だけは前を見ている。

 進路室へ戻る途中、相沢陸が廊下の柱の影から顔を出した。

「先生。レオの母親、月曜の通話……時間変えろってLINE来てます。あと、シンの方も“今日中に返事”って家から」

 静の足が止まる。月曜の18:30。二人分の家庭が、その時間にぶつかってくる。

 ミナが静を見る。

「先生、忙しい?」

 静は短く息を吐いた。

「忙しい。だから順番を作る」

 ミナが鞄の紐を握り直す。

「……私、明日。西野、保健室から別室に移るとき、ついていく」

「一人で背負うな。保健室の先生にも言って、許可取って」

 ミナが頷く。

「分かった」

 静が進路室のドアノブに手をかけると、廊下の向こうで職員室の電話が鳴った。黒川の席の方向から、誰かが短く返事をする声が聞こえる。

 静はドアを開けた。

 中ではレオとシンが顔を上げる。陸も戻ってきて、静の表情を探る。

 静はミナに言った。

「今日は帰る前に、コピー。受領印もらう。できる?」

 ミナは頷いた。

「できます。……消されないから」

 その言葉を、今度は自分に言い聞かせるみたいに。

 静は進路室の机に手を置いた。ここから先は、いじめだけじゃない。家のこと、鍵のこと、面談の時間。全部が同時に押してくる。

「相沢」

「はい」

「月曜の面談、時間調整する。レオとシン、どっちも外せない」

 レオが言った。

「俺、別に……」

 静が被せる。

「別に、じゃない。外せない」

 シンが笑うでもなく言った。

「先生、倒れるよ」

「倒れないように、手順で回す」

 静はキャビネットの鍵を指先で確かめた。封筒はまだそこにある。

 ミナがドアのところで振り返る。

「先生」

「何」

 ミナは一瞬だけ口を開けて、閉じた。代わりに短く言う。

「……明日、また来ます」

 静が頷く。

「来い。明日は明日の戦い方がある」

 ミナが廊下へ出る。ドアが閉まる直前、廊下の遠くで誰かが言った。

「教頭が、進路室の運用見直しだってさ」

 声は小さかったが、確かに届いた。

 静はドアの向こうを見たまま、手を離さなかった。


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