あのね、ハチ

さくら

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 会ったばかりの二瑚を、彼は心の底から心配してくれている。
「僕、二瑚が死んだら嫌だよ」
「違う。本当に、違うの」
 二瑚は波知の言葉を遮り、かぶりを振った。
「本当に、死にたかったわけじゃないの。ただ……」
 二瑚は初めて、胸の中に住みつく《奴》の話を人にした。《奴》が暴れ出すとどうしようもなく不安になり、同時に全てがどうでもよくなってくることも。
「でも、自分でもなにが不安なのかわからなくて。なんだか、どこにいても辛くて。だから、もういっそ、ここじゃないどこかに逃げてしまいたいって」
 笑うでも呆れるでもなく、波知は黙って話を聞いてくれた。
 話してみて、二瑚は気付いた。《奴》が暴れ出す原因はわからないけれど、《奴》の正体がぼんやりと見えてきた気がするのだ。
 日常の中で感じるストレス。不安や焦り。それは人間関係に対してであったり、将来へ対する漠然としたものであったり。やはりこれといった一つの理由はない。けれど、一つ一つがとても小さなそれらをたくさん抱え込んでいるうちに、持て余すようになってしまった。上手く飼い慣らす方法がわからず、胸の中で暴れさせてしまうのだ。
「焦燥感っていうのかな。とにかく、なんだか急に込み上げてきて、どうしようもなくなるの。そうすると、叫びたくなったり、暴れたくなったりするんだけど……」
 そんなこともできずに堪えて、けれど耐えきれずに、《奴》が暴れ出す。
 波知はたまに相槌をうちながら、真剣に話を聞いてくれた。
 二瑚はそれを嬉しく思いながらも、自分のことを人に話すのはどうも慣れていないせいか恥ずかしくもある。深刻で真面目くさった空気も、彼女を居た堪れなくさせた。
「あはは。なんか、可笑しな話でしょ」
 思わずベンチから立ち上がり、二瑚は照れ臭さを誤魔化すように笑った。
 けれど切実な想いはしっかりと伝わっていたようで、彼は二瑚にあわせて笑ってみせた後に、優しく微笑みながら言った。
「二瑚は、いろいろなものが辛いんだね」
「そう、なのかな。なんだか情けないね」
 来年には高校生になるのにと笑おうとして、失敗した。
「きっと、二瑚は少しだけ不器用さんなんだよ」
「不器用?」
「そう。小さな不満や不安を、みんな当たり前みたいに受け流す。或いは、ちょっとしたストレスくらいなら、スポーツや遊びなんかで発散しちゃうんだ」
 波知に腕を引かれ、再びベンチに座るよう促される。
「二瑚はきっと、人より少しだけ、そういうのが苦手なんだよ」
 二瑚が腰を下ろすのを待ってから、波知が訊ねた。
「ねえ、二瑚。胸の中にいるそいつが、二瑚の中に現れたのはいつ頃?」
「え?……わかんない。気付いたらいたの」
「じゃあ、今日、僕に話して、少しだけでもスッキリした?」
 二瑚が素直に頷くと、波知は「良かった」と呟いて微笑んだ。柔らかな笑みと、自分に向けられた慈しみの視線。それを見た二瑚の胸に、なにか温かなものが込み上げてくる。それは優しく、いつも我が物顔で胸の奥に巣くう《奴》までも包み込んでしまった。
 不思議だった。いままで手懐けることのできなかった《奴》が、波知といると大人しい。まるで奴が現れる以前に戻ったようだ。
「波知って凄いね。一緒にいると、なんだか落ち着く」
 こんなに心穏やかでいられるのはいつぶりだろうか。夏の日差しの下で、二瑚は優しくそよ吹く風を感じた。
 波知の隣にいるだけで、銀幕に映るつまらない映画でしかなかった世界が、身近に感じられる。そしてその世界には優しく穏やかな時間が流れていることを知れた。
 思ったままを二瑚が口にすると、波知は漆黒の瞳を丸くさせ、それからやわらかな笑みを浮かべて言った。
「二瑚、デートしようか」
「え……?」


 突然の提案に驚いた二瑚だったが、波知に手を引かれるがまま町中を歩きまわった。
 川沿いの道に、遊具の少ない近所の公園。通気口から芳ばしい臭いを漂わせる定食屋。ウィンドウ越しに綺麗なガラス細工が輝くお店は、今より幼い二瑚がいつも立ち止った場所だ。そのすぐ側には大きな犬が苦手なおばさんが経営する、民家を改造した床屋がある。
 波知はどの店を覗くでも、どこに立ち寄るでもなく二瑚を連れて歩き続けた。
 二瑚は波知と肩を並べて歩きながら、ふいにある事実に気付いた。
(この道、ハチのお散歩ルート……)
 以前飼っていた犬のハチを散歩に連れていくのは、二瑚の役目だった。学校へ行く前の朝や、帰って来てからの夕方。日差しの強い日も、雨の日も、暑い日も、寒い日も。二瑚はこの道をハチと歩いた。
 そんな道を、いまは波知と歩いている。あの大切な家族だった犬と、同じ名前を持つ少年と。それがなんだが面白くて、二瑚は笑顔を滲ませた。
「二瑚はなにが好き?」
 隣で二瑚が何を考えているかを知らない波知が、ふい質問を投げかけてくる。
「私の好きなもの?」
「そう。僕は、さっき食べた氷のアイス。昔ね、大好きだった子がわけてくれたの」
 
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