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第二章 誠忠のホムンクルス
第97話 グラスの遺産
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父は僕とホムを家に送り届けると、そのまま黒竜灯火診療院へと戻っていった。数日は軍の仕事を休み、母に付き添うらしい。父の決断は、僕を安心させようとしたものらしかったが、ほとんど逆効果だった。
斑点を見る限りは、黒石病のごく初期の症状だが、僕が見ることができたのは腕だけだ。身体の見えない範囲のどこかで大きく広がっているのではないかという不安、そして父や医師が僕に本当のことを告げていないのではないかという疑いは募るばかりだった。
「一刻も早く、黒石病抑制剤の製法を手に入れなければ……」
焦る気持ちが言葉になって漏れ、僕はいつしか自分の親指の爪を強く噛んでいたことに気がついた。
「あ……」
苛立ちのせいか、ずっと忘れていたはずのグラスの癖が表出している。前世の僕が、黒石病抑制剤の製法を学会に伝えてさえいれば――。
僕は、自分のためにしか錬金術の研究をしてこなかった。灰となったアトリエとは別に数々の錬金術の記録を収めたものを残してはいるが、それは、真理の世界と呼ばれる特殊な空間に格納されたままだ。
真理の世界に行くためには、ダークライトを使った儀式が必要だ。エーテルを真空状態にして、指定の召喚詠唱を行うことでその門が開かれる。
本来であれば、資格のある者しか入ることができないのだが、幸か不幸か僕は前世の記憶を持っている。魂はグラスから引き継がれて、二人分の人生を歩んでいる途中だ。
ならば、真理の門をくぐり、かつてグラスが残した真なる叡智の書と名付けた魔導書を手に入れることが可能かもしれない。
そう思いついた僕は、自分のアトリエの机の奥底に仕舞っていたダークライトを取り出した。アウロー・ラビットとの戦いの際にかなり小さくなってしまったが、それでもまだ十分な大きさがある。
――とにかく急がなければ。
僕はアルフェに明日のお祝いの中止を伝える書き置きをしたためると、ホムに持たせた。
「ホム、この書き置きをアルフェの家に届けてくれ」
「かしこまりました、マスター」
ホムを遣いに出している間に、庭に出てダークライトの破片を地面に突き刺す。五分もしないうちに周辺の空気の状態が変化していった。息苦しいような、力が抜けて肌の表面が粟立つような、嫌な感覚だ。同心円状に広がるその感覚は、ダークライトを突き刺した部分に向かって次第に強くなっている。
「智の始源は一なる卑金――」
「マスター!」
紡ぎはじめた僕の詠唱をホムが遮る。
「今から僕は、真理の世界へ行く。留守を頼むよ、ホム」
「いいえ。わたくしも参ります」
絶対の忠誠を誓うはずのホムが、僕の命令に逆らった。
「真理の世界は危険です。わたくしは、この命に替えてもマスターをお守りしなくてはなりません」
ああ、なるほど。僕の記憶を引き継いでいるからこそ、命令に背いているんだな。真理の世界の異質さや『管理者』の存在を思い出して、僕も鳥肌が立った。
真理の世界へ入る資格を有することは、錬金術師が目指すひとつの到達点ではあるが、到達するまでの道程の険しさ以上に、その世界の異質さや危険度は想像を絶するものがある。僕も出来ればホムを連れていきたかったが、さすがにそれは無理だと首を横に振った。
「ホムには資格がない。門の手前で弾かれるはずだ」
「わたくしの身体は、マスターの遺伝子を複製したものです。器に入っている魂は違いますが、限りなくマスターと同位の存在でしょう」
ホムの答えは到って冷静だった。感情抑制の効果を、まさかこんなところで感じることになるとはな。それに引き換え、僕は本当に冷静さを失っている。もっと落ち着かなければ、あの管理者に弄ばれてしまいそうだ。
「わかった。……弾かれたら、諦めてここで待つんだ。いいな、ホム?」
「かしこまりました」
ホムにそう命じて、僕は改めてダークライトでエーテルが真空となったその中心に立ち直した。
智の始源は一なる卑金
万智紡ぎて貴金へと至る
古今森羅を織り成すは不変不急なる叡智の廻廊
我が手に握るは那由他の天解
束ねて鋳ずは祖なる天鍵
今こそ開き
踏み越えてみせよう
極点のきざはしを
目を閉じ、召喚詠唱をすべて唱え終わった。門は音もなく、召喚者の後ろに現れる。冷たい氷で背を撫でられるような強烈な悪寒を感じて振り返ると、巨大な門が僕たちを見下ろしていた。
「真理の門、やはり僕にはまだ資格があるようだな……」
扉に描かれているのは、僕には判読不能な文字や紋様の羅列だ。唯一わかる生命の樹でさえ、真理の門の内側から漏れ出る異様な気配によって不気味に蠢いているように見えた。
「ここから先は、資格のある者しか進むことが出来ない。門に手を触れ、その有無を問うがいい」
「かしこまりました、マスター」
ホムが進み出て、僕とともに扉に手を触れる。見た目は石材のような真理の門の扉は、触れると、まるで生き物であるかのような鼓動が手のひらに伝わってくる。
ぎょろり、と無数の眼が開き、僕を見つめているような感覚がする。そこにはなにもないはずなのに、数え切れないほどの夥しい数の眼という眼が僕を凝視している。その視線から逃れるように、僕は思わず目を閉じた。
斑点を見る限りは、黒石病のごく初期の症状だが、僕が見ることができたのは腕だけだ。身体の見えない範囲のどこかで大きく広がっているのではないかという不安、そして父や医師が僕に本当のことを告げていないのではないかという疑いは募るばかりだった。
「一刻も早く、黒石病抑制剤の製法を手に入れなければ……」
焦る気持ちが言葉になって漏れ、僕はいつしか自分の親指の爪を強く噛んでいたことに気がついた。
「あ……」
苛立ちのせいか、ずっと忘れていたはずのグラスの癖が表出している。前世の僕が、黒石病抑制剤の製法を学会に伝えてさえいれば――。
僕は、自分のためにしか錬金術の研究をしてこなかった。灰となったアトリエとは別に数々の錬金術の記録を収めたものを残してはいるが、それは、真理の世界と呼ばれる特殊な空間に格納されたままだ。
真理の世界に行くためには、ダークライトを使った儀式が必要だ。エーテルを真空状態にして、指定の召喚詠唱を行うことでその門が開かれる。
本来であれば、資格のある者しか入ることができないのだが、幸か不幸か僕は前世の記憶を持っている。魂はグラスから引き継がれて、二人分の人生を歩んでいる途中だ。
ならば、真理の門をくぐり、かつてグラスが残した真なる叡智の書と名付けた魔導書を手に入れることが可能かもしれない。
そう思いついた僕は、自分のアトリエの机の奥底に仕舞っていたダークライトを取り出した。アウロー・ラビットとの戦いの際にかなり小さくなってしまったが、それでもまだ十分な大きさがある。
――とにかく急がなければ。
僕はアルフェに明日のお祝いの中止を伝える書き置きをしたためると、ホムに持たせた。
「ホム、この書き置きをアルフェの家に届けてくれ」
「かしこまりました、マスター」
ホムを遣いに出している間に、庭に出てダークライトの破片を地面に突き刺す。五分もしないうちに周辺の空気の状態が変化していった。息苦しいような、力が抜けて肌の表面が粟立つような、嫌な感覚だ。同心円状に広がるその感覚は、ダークライトを突き刺した部分に向かって次第に強くなっている。
「智の始源は一なる卑金――」
「マスター!」
紡ぎはじめた僕の詠唱をホムが遮る。
「今から僕は、真理の世界へ行く。留守を頼むよ、ホム」
「いいえ。わたくしも参ります」
絶対の忠誠を誓うはずのホムが、僕の命令に逆らった。
「真理の世界は危険です。わたくしは、この命に替えてもマスターをお守りしなくてはなりません」
ああ、なるほど。僕の記憶を引き継いでいるからこそ、命令に背いているんだな。真理の世界の異質さや『管理者』の存在を思い出して、僕も鳥肌が立った。
真理の世界へ入る資格を有することは、錬金術師が目指すひとつの到達点ではあるが、到達するまでの道程の険しさ以上に、その世界の異質さや危険度は想像を絶するものがある。僕も出来ればホムを連れていきたかったが、さすがにそれは無理だと首を横に振った。
「ホムには資格がない。門の手前で弾かれるはずだ」
「わたくしの身体は、マスターの遺伝子を複製したものです。器に入っている魂は違いますが、限りなくマスターと同位の存在でしょう」
ホムの答えは到って冷静だった。感情抑制の効果を、まさかこんなところで感じることになるとはな。それに引き換え、僕は本当に冷静さを失っている。もっと落ち着かなければ、あの管理者に弄ばれてしまいそうだ。
「わかった。……弾かれたら、諦めてここで待つんだ。いいな、ホム?」
「かしこまりました」
ホムにそう命じて、僕は改めてダークライトでエーテルが真空となったその中心に立ち直した。
智の始源は一なる卑金
万智紡ぎて貴金へと至る
古今森羅を織り成すは不変不急なる叡智の廻廊
我が手に握るは那由他の天解
束ねて鋳ずは祖なる天鍵
今こそ開き
踏み越えてみせよう
極点のきざはしを
目を閉じ、召喚詠唱をすべて唱え終わった。門は音もなく、召喚者の後ろに現れる。冷たい氷で背を撫でられるような強烈な悪寒を感じて振り返ると、巨大な門が僕たちを見下ろしていた。
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扉に描かれているのは、僕には判読不能な文字や紋様の羅列だ。唯一わかる生命の樹でさえ、真理の門の内側から漏れ出る異様な気配によって不気味に蠢いているように見えた。
「ここから先は、資格のある者しか進むことが出来ない。門に手を触れ、その有無を問うがいい」
「かしこまりました、マスター」
ホムが進み出て、僕とともに扉に手を触れる。見た目は石材のような真理の門の扉は、触れると、まるで生き物であるかのような鼓動が手のひらに伝わってくる。
ぎょろり、と無数の眼が開き、僕を見つめているような感覚がする。そこにはなにもないはずなのに、数え切れないほどの夥しい数の眼という眼が僕を凝視している。その視線から逃れるように、僕は思わず目を閉じた。
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