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第二章 誠忠のホムンクルス
第101話 ホムの命
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真理の門に手のひらを押し当てると、生温かい臓物の中に取り込まれるような嫌な感触が腕を伝わり、全身に及んでいった。
吐きたいけれど吐けないままの僕は、歯を食いしばり、きつく目を閉じてこの嫌悪感に耐える。
「あーあ、もう帰っちゃうのかぁ……」
耳の穴に泥を流し込まれるような、気味の悪い感覚とともに管理者の声が脳内に響いてくる。
「もっと君たちと遊びたかったけど、まあいいさ。今日のところは、貸しにしておいてあげるよ」
扉を抜け、見慣れた景色の中に放り出されても管理者の声は続いている。
僕とともに真理の世界を出たホムは、傍らで警戒を露わにして扉を見据えていた。僕はといえば、身体を起こしているのがやっとだというのに、とてつもない忠誠心だ。
「お前の貸しは受けない。そもそもホムは僕のものだ」
「わかってないなぁ。錬金術と関わる以上、君はいずれまた私に頼らなければならなくなるんだよ?」
僕たちを外に出し、役目を終えた真理の門の扉が閉まっていく。それに伴い、管理者の声も遠くなりはじめた。
「…………」
早く消えて欲しい。もうあいつと関わるのはごめんだ。
「おや? その顔は信じていないね? いいかい、これは予言ではない。確定された未来だ」
僕の胸の内を見透かしたように管理者の嘲笑が響く。何度聞いても慣れない不快な音に、僕は思わず耳を塞いだ。
「……そういうわけだから、また会える日を楽しみにしているよ。グラスくん」
耳を塞いだにもかかわらず、その声はやけにはっきりと聞こえてきた。だが、それで終わりだった。
扉が閉じた門が、風化したように崩れていく。
真理の門を構成していた石材は砂と化し、風もないのに虚空に流れて夜闇に消える。
真理の門から向けられていた無数の視線も消え、ようやく僕は安堵の息を吐くことができた。それでもまだ、ダークライトでエーテルを真空状態にしているこの場所が、傷つき疲弊したホムと僕に相当な負担をかけ続けている。
「……大丈夫ですか、マスター……?」
弱々しいホムの声は、今にもぷっつりと途切れてしまいそうだ。
「お前の心配をさせてくれ、ホム」
動こうとするホムを制し、這うように地面を移動し、そこに突き刺していたダークライトを回収する。僕はそのまま寝転んで眠ってしまいたい衝動を抑え込み、大きく息を吐きながら立ち上がった。
考えてみたら、母上を救うことしか頭になくて飲まず食わずでいた上に、眠ってもいなかったな。
誰かのために動くことで、こんなにも力を出せるとは思わなかった。だからこそ、はっきりとリーフとグラスの違いがわかった。
管理者は僕をグラスと呼び続けているが、もう僕はグラスじゃない。今の僕は、管理者の考えることにはなにひとつ同調できない。
「……頼る……? そんな助けは僕には必要ない」
管理者は錬金術の神のような存在ではあるが、決して相容れないな。
そもそも管理者の与える知識は、必ずしも良い未来を齎すとは限らないのだ。
――グラスが望み、与えられた完全素体ホムンクルスのように。
「……ホム。僕たちはもう、あの世界に行くことは二度とない。だから今日見聞きしたことは忘れろ」
「はい、マスター」
ホムの服が血で染まっている。かなり出血が酷そうだ。早く手当をしなければ。
「ひとまず家に入って、怪我を治そう」
「それでは、家を汚してしま……」
話している途中でホムの身体がぐらりと傾いで、そのまま地面に崩れ落ちた。
「ホム!」
即座にホムに駆け寄り、助け起こした僕は、ホムが想像以上の深手を負っていることを知った。
「こんなになるまで……」
自分を犠牲にし続け、僕を守ったのか。僕のために命を捧げるというのは、その覚悟は、僕が植え付けたものだというのに。
「申し訳ござ……っ、かはっ」
「もういい、喋るな」
咳込むホムの吐息に血が混じっている。僕は首を横に振ると、真なる叡智の書を手に、ホムの傍らに立った。
――不思議だ。もう全く動けないと何度も思ったのに、まだ駆け寄ったり、抱き起こしたり、こうして治癒魔法を施そうとする気力が湧いてくるのは。
僕自身の怪我や体力の回復については、無限に湧き出しているエーテルでカバー出来ている。だが、真理の世界という異常で異質な世界での出来事によって蓄積された嫌悪感や精神的な疲労を回復させるには、時間が必要なのだ。
「……今からここで治癒魔法を施す。ベッドに運べないのは許してくれ」
喋るな、という命令が効いているのか、ホムは黙って頷いた。
治癒魔法は、僕が最も苦手とする魔法だ。そもそも魔法を使って傷を治すイメージを構築することは僕にとって困難だった。
この治癒魔法に必要なイメージは、『生命の水をかければ傷が治る』というものだ。
だが、自分が怪我をしたとき、その苦痛が取り除かれることを望みはするが、今ある現実の怪我や痛みがそのイメージを大きく阻害していた。想像が現実を越えることは決してなかった。それはグラスが、自分のためにしか生きてこなかったからなのかもしれない。だが、今は違う。
真なる叡智の書の力を借りて、僕がホムを治す。
「清らかなるもの――生命の水よ。穢れを洗い流し、癒しを与えよ。……ヒールミスト」
詠唱は祈りだ。ホムを救いたいという今の僕の心からの願いだ。
魔法イメージを構築する部分を簡易術式が代わりに成し遂げ、具現した生命の水の柔らかなイメージが、あたたかくホムを包んでいくのがわかった。
血が止まり、傷がゆっくりと癒えていくのがわかる。新しい皮膚が現れて、ホムの痛々しい傷口を塞いでいく。
「これでもう大丈夫だ。ホム」
ホムの腕に触れ、呼びかける。だが、その腕は酷く冷たく、ホムは目を閉じたまま呼びかけには応えなかった。
「どうした? どうして目を開けないんだ?」
ホムを揺り動かすが、ホムは目を閉じたまま動かない。
「しっかりしろ、ホム!」
僕は強引にホムの身体を仰向けに動かすと、胸を叩いた。
――父上の時と同じだ。あの時は、父上を救えた。
「戻ってこい! 目を開けるんだ、ホム!」
穏やかな詠唱とは違う、悲痛な叫びが祈りとなって僕の喉を震わせている。
父を失うかもしれないと感じたあの時の恐怖が、同じように僕を包んでいる。
「お前が大切なんだ、ホム……」
僕はリーフだ。だから、今の僕らしくホムを愛さなければならなかった。それなのに、どうして僕は……。
「やっと気がつけた。悪かった……。謝らなくても、お前は僕を許す……僕がそう決めたからだ。だけど、だけどホム、僕が与えた命は、絶対に無駄にするな!」
僕の呼びかけにホムの瞼が微かに動く。戻って来た身体の反応に、僕はホムを強く抱き締めた。
「頼む、ホム! お前を失いたくない。だって、お前はまだお前のために生きていない!」
感情が乱れて、自分ではもうどうしようもない。泣きながら叫んで、ホムを抱き締め続けた。冷え切った身体、血だらけの服、それでも微かな呼吸の音がホムの命が尽きていないことを僕に知らせてくれていた。
「……マスター……」
長い長い静寂を破ったのは、聞いたことがないくらい弱々しく、ほとんど声になっていないホムの吐息だった。
「……なにも言うな。大丈夫なら頷いてくれ、それでいい」
ホムが僕の目を真っ直ぐに見て頷く。僕も黙ってホムを抱き締めた。自分の今の状態を表す言葉がわからなくて、しばらくの間、そうすることしか出来なかった。
吐きたいけれど吐けないままの僕は、歯を食いしばり、きつく目を閉じてこの嫌悪感に耐える。
「あーあ、もう帰っちゃうのかぁ……」
耳の穴に泥を流し込まれるような、気味の悪い感覚とともに管理者の声が脳内に響いてくる。
「もっと君たちと遊びたかったけど、まあいいさ。今日のところは、貸しにしておいてあげるよ」
扉を抜け、見慣れた景色の中に放り出されても管理者の声は続いている。
僕とともに真理の世界を出たホムは、傍らで警戒を露わにして扉を見据えていた。僕はといえば、身体を起こしているのがやっとだというのに、とてつもない忠誠心だ。
「お前の貸しは受けない。そもそもホムは僕のものだ」
「わかってないなぁ。錬金術と関わる以上、君はいずれまた私に頼らなければならなくなるんだよ?」
僕たちを外に出し、役目を終えた真理の門の扉が閉まっていく。それに伴い、管理者の声も遠くなりはじめた。
「…………」
早く消えて欲しい。もうあいつと関わるのはごめんだ。
「おや? その顔は信じていないね? いいかい、これは予言ではない。確定された未来だ」
僕の胸の内を見透かしたように管理者の嘲笑が響く。何度聞いても慣れない不快な音に、僕は思わず耳を塞いだ。
「……そういうわけだから、また会える日を楽しみにしているよ。グラスくん」
耳を塞いだにもかかわらず、その声はやけにはっきりと聞こえてきた。だが、それで終わりだった。
扉が閉じた門が、風化したように崩れていく。
真理の門を構成していた石材は砂と化し、風もないのに虚空に流れて夜闇に消える。
真理の門から向けられていた無数の視線も消え、ようやく僕は安堵の息を吐くことができた。それでもまだ、ダークライトでエーテルを真空状態にしているこの場所が、傷つき疲弊したホムと僕に相当な負担をかけ続けている。
「……大丈夫ですか、マスター……?」
弱々しいホムの声は、今にもぷっつりと途切れてしまいそうだ。
「お前の心配をさせてくれ、ホム」
動こうとするホムを制し、這うように地面を移動し、そこに突き刺していたダークライトを回収する。僕はそのまま寝転んで眠ってしまいたい衝動を抑え込み、大きく息を吐きながら立ち上がった。
考えてみたら、母上を救うことしか頭になくて飲まず食わずでいた上に、眠ってもいなかったな。
誰かのために動くことで、こんなにも力を出せるとは思わなかった。だからこそ、はっきりとリーフとグラスの違いがわかった。
管理者は僕をグラスと呼び続けているが、もう僕はグラスじゃない。今の僕は、管理者の考えることにはなにひとつ同調できない。
「……頼る……? そんな助けは僕には必要ない」
管理者は錬金術の神のような存在ではあるが、決して相容れないな。
そもそも管理者の与える知識は、必ずしも良い未来を齎すとは限らないのだ。
――グラスが望み、与えられた完全素体ホムンクルスのように。
「……ホム。僕たちはもう、あの世界に行くことは二度とない。だから今日見聞きしたことは忘れろ」
「はい、マスター」
ホムの服が血で染まっている。かなり出血が酷そうだ。早く手当をしなければ。
「ひとまず家に入って、怪我を治そう」
「それでは、家を汚してしま……」
話している途中でホムの身体がぐらりと傾いで、そのまま地面に崩れ落ちた。
「ホム!」
即座にホムに駆け寄り、助け起こした僕は、ホムが想像以上の深手を負っていることを知った。
「こんなになるまで……」
自分を犠牲にし続け、僕を守ったのか。僕のために命を捧げるというのは、その覚悟は、僕が植え付けたものだというのに。
「申し訳ござ……っ、かはっ」
「もういい、喋るな」
咳込むホムの吐息に血が混じっている。僕は首を横に振ると、真なる叡智の書を手に、ホムの傍らに立った。
――不思議だ。もう全く動けないと何度も思ったのに、まだ駆け寄ったり、抱き起こしたり、こうして治癒魔法を施そうとする気力が湧いてくるのは。
僕自身の怪我や体力の回復については、無限に湧き出しているエーテルでカバー出来ている。だが、真理の世界という異常で異質な世界での出来事によって蓄積された嫌悪感や精神的な疲労を回復させるには、時間が必要なのだ。
「……今からここで治癒魔法を施す。ベッドに運べないのは許してくれ」
喋るな、という命令が効いているのか、ホムは黙って頷いた。
治癒魔法は、僕が最も苦手とする魔法だ。そもそも魔法を使って傷を治すイメージを構築することは僕にとって困難だった。
この治癒魔法に必要なイメージは、『生命の水をかければ傷が治る』というものだ。
だが、自分が怪我をしたとき、その苦痛が取り除かれることを望みはするが、今ある現実の怪我や痛みがそのイメージを大きく阻害していた。想像が現実を越えることは決してなかった。それはグラスが、自分のためにしか生きてこなかったからなのかもしれない。だが、今は違う。
真なる叡智の書の力を借りて、僕がホムを治す。
「清らかなるもの――生命の水よ。穢れを洗い流し、癒しを与えよ。……ヒールミスト」
詠唱は祈りだ。ホムを救いたいという今の僕の心からの願いだ。
魔法イメージを構築する部分を簡易術式が代わりに成し遂げ、具現した生命の水の柔らかなイメージが、あたたかくホムを包んでいくのがわかった。
血が止まり、傷がゆっくりと癒えていくのがわかる。新しい皮膚が現れて、ホムの痛々しい傷口を塞いでいく。
「これでもう大丈夫だ。ホム」
ホムの腕に触れ、呼びかける。だが、その腕は酷く冷たく、ホムは目を閉じたまま呼びかけには応えなかった。
「どうした? どうして目を開けないんだ?」
ホムを揺り動かすが、ホムは目を閉じたまま動かない。
「しっかりしろ、ホム!」
僕は強引にホムの身体を仰向けに動かすと、胸を叩いた。
――父上の時と同じだ。あの時は、父上を救えた。
「戻ってこい! 目を開けるんだ、ホム!」
穏やかな詠唱とは違う、悲痛な叫びが祈りとなって僕の喉を震わせている。
父を失うかもしれないと感じたあの時の恐怖が、同じように僕を包んでいる。
「お前が大切なんだ、ホム……」
僕はリーフだ。だから、今の僕らしくホムを愛さなければならなかった。それなのに、どうして僕は……。
「やっと気がつけた。悪かった……。謝らなくても、お前は僕を許す……僕がそう決めたからだ。だけど、だけどホム、僕が与えた命は、絶対に無駄にするな!」
僕の呼びかけにホムの瞼が微かに動く。戻って来た身体の反応に、僕はホムを強く抱き締めた。
「頼む、ホム! お前を失いたくない。だって、お前はまだお前のために生きていない!」
感情が乱れて、自分ではもうどうしようもない。泣きながら叫んで、ホムを抱き締め続けた。冷え切った身体、血だらけの服、それでも微かな呼吸の音がホムの命が尽きていないことを僕に知らせてくれていた。
「……マスター……」
長い長い静寂を破ったのは、聞いたことがないくらい弱々しく、ほとんど声になっていないホムの吐息だった。
「……なにも言うな。大丈夫なら頷いてくれ、それでいい」
ホムが僕の目を真っ直ぐに見て頷く。僕も黙ってホムを抱き締めた。自分の今の状態を表す言葉がわからなくて、しばらくの間、そうすることしか出来なかった。
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