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第八話 わたしのしあわせ
しおりを挟むミリアーナの眠る部屋に、陽の光が柔らかく射し込んでいた。
ロベルトは剣を外し、旅路の埃を払うと、そっとベッドの傍らに腰を下ろす。
白く頼りない娘の手を両手で包み込むが、返事はない。ミリアーナは深い眠りのままだった。
傍らには若き校医エミリオが控えていた。
「この部屋に移ってから、少し呼吸が安らいで見えます。まだ目を覚まされませんが」
ロベルトは目を伏せ、押し殺した声で問う。
「……これは、毒のせいではないのか。あの女どもが……セラフィーナを奪ったように、また……」
エミリオは静かに首を振った。毒の一件は、先ほど騎士団から伝え聞いていた。
「いいえ。脳の腫瘍と毒の間に因果はございません。これは病そのもの。毒で生じたものではありません」
「……では、なぜ……」
ロベルトの声は震え、かすれる。
エミリオは誠実に答えた。
「若い方ほど腫瘍は急速に大きくなります。おそらく旦那様が領地へ発たれた頃には、すでに違和感や痛みがあったかと思われます……ちょうど、奥方様が亡くなられた頃でしたよね。違和感があったとて、ご本人も悲しみのために体調が悪くなった、頭痛も悲しみのせいだ、などと思っても無理はありません。ただ…医者として、私がもし、もっと早く診ていれば――まだ手立てがあったかもしれないと…悔やみます」
悔恨を滲ませる声。
ロベルトは唇を噛み、娘の手を強く握った。
「……ミア……すまない……」
◇
そこへ扉が開き、ダニエルが足早に入ってきた。
「兄上……エドアルドが、どうしてもミアに会わせてほしいと……謝りたいと」
「会わせるわけがないだろう!!」
ロベルトの声は鋭く、胸奥の怒りが火のように迸る。
「娘をこれほど追い詰めておきながら、どの口で――」
扉の外から、必死の声が飛び込んできた。
「ミアに! お願いします……せめて最後に、一言だけでも……謝らせてください! 放逐も、廃嫡も、すべて受け入れます。もう二度と姿を現しません。ですから……ミアに会わせてください!」
その声が病室に響いた瞬間――ロベルトが握るミアの手が、かすかに動いた。
「……っ」
驚いて顔を上げると、閉じていた瞼が震え、ゆっくりと開かれていく。
「……アル、さま?」
か細い声。
「ミア!!」
ロベルトが身を乗り出した。
「アルさまが……いるの?」
「あ、ああ……いるぞ」
瞳が揺れ、ロベルトの顔を見つける。
「……お父様! ご無事で……怪我はありませんか? 領地の皆は? ダニエルおじさまは?」
「皆、大丈夫だ。安心しろ、ミア」
「よかった……」
安堵の微笑み。しかし視線は次第に宙を彷徨い始める。
「母さまも喜びます……父さまと一緒にいる母さまは、とてもきれいなんです……ね、父様」
ロベルトは涙を堪え、必死に頷いた。
「ああ……そうだな、ミア」
「アルさまも……よろこぶんですよ。わたしが……にがいお薬を持っていっても……よろこんでくれるんです」
エミリオが低く告げる。
「……意識が混濁しているようです。幼い頃のお心に戻られている」
ロベルトは目を閉じ、低く命じた。
「……エドアルドを、中に入れろ」
◇
ダニエルが開けたドアから、エドアルドがゆっくりと、部屋に入ってくる。
そのまま、ロベルトの少し後ろに立ち、声をかける。
「……ミア……!」
その声に、ミアの瞳が揺れる。
「ああ……アルさま。げんきになったのですね。やくそくしましたものね……花畑に行こうって」
「ミア……ごめん……本当に……ごめん……」
「花畑に行って……花冠を作ろうって……約束しましたものね。……いきましょうね」
かすれた声で、それでも楽しげに笑った。
「わたし、たくさん作るんです。父さまには一番じょうぶなのを。母さまには、一番きれいなのを。マルコには、おくすりの草がいいかな……」
幼子のような言葉が、震える唇から紡がれる。
「そして……アルさまには……わたしの一番好きな花であむの。ねえ、アルさま……」
ミアはにこりと微笑み、そのまま――まるでアルと共に花畑へ足を踏み入れたかのように、胸いっぱいに空気を吸い込み、やわらかく吐き出した。
「……花、かんむりを……あなた、に……」
それは約束が果たされた安堵の吐息。
幼い日の夢が現実となった幸せのしるしだった。
微笑みを浮かべたまま、瞼は静かに閉じられていった。
「ミア!? ミア!!」
ロベルトの叫びが部屋を震わせる。
エドアルドは、名を呼ぶこともできずに立ち尽くす。
そして、エミリオが脈を確かめ、静かに首を振った。
沈黙の中、誰もが言葉を失う。
ロベルトはまだ温もりを残す娘の手を震える掌で握りしめ、頬に押し当てた。
「……なぜ、もっと早く気づいてやれなかった……」
嗚咽を押し殺し、ミアの髪を撫でながら言った。
「ミア……愚かな父を、許さないでくれ……」
その少し後ろ、踏み出すこともできずに立ち尽くすエドアルドの姿があった。
彼女に伸ばしたい腕は空を掻き、やがて力尽きたように膝から崩れ落ちる。
「ごめん……ごめん……」
震える声とともに、涙が頬を伝い、床に落ちては吸い込まれていく。
「ミア……ごめん……」
その懺悔は、あまりにも遅すぎた。
眠りについた彼女の耳には届かない。
ただ冷たい床にしみ込み、虚しく消えていくだけ――意味をなさない言葉として。
ベッドの傍では、ロベルトが娘の温もりを抱きしめ、慟哭を洩らしていた。
背後では、かつての婚約者の嗚咽が孤独に響く。
二つの悔恨は交わらず、ただ取り返しのつかない喪失の前に沈んでいく。
けれど――その狭間で眠るミアの顔は、どこか安らかであった。
まるで、約束の花畑に辿り着き、愛する人々と共に花冠を編んでいる夢の中にいるかのように。
その微笑みは、父や婚約者の後悔とは逆に、ひたすら幸せに満ちていた。
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