【完結】妹に存在を奪われた令嬢は知らない 〜彼女が刺繍に託した「たすけて」に、彼が気付いてくれていたことを〜

桜野なつみ

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黒の黎明

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──二十数年前、パロス王国・王立学園。

昼下がりの中庭。若きロドリック・ソーントンはベンチに腰かけ、帳簿を睨んでいた。

「……ダメだ。どう計算しても、先細りだ」

いずれ自分が継ぐはずのソーントン家は、すでに傾きかけていた。
領地の収入は頭打ち、母は療養中、父は爵位にしがみつくばかり。

そんなとき──ドリス・リヴェールが現れた。
商家の娘である彼女は、平民ながらこの王立学園に入学していた。
成績は優秀。容姿は貴族に比べれば平凡だが、
その瞳に宿る鋭い野心に、ロドリックは惹かれた。

当時のロドリックには婚約者がいた。
だが、いかにも“お飾り”といった退屈な令嬢で、感情も個性も薄い。
貴族とはそういうものだと、諦めていたロドリックだったが──

ドリスは違った。強く、ぐいぐいと彼に迫ってきた。

どうやら彼女も、ロドリックを狙っていたらしい。
ちょうど良い身分の伯爵家。容姿もまずまず。
婚約者も気が弱そうで、追い落とすのは容易だと──ドリスはほくそ笑んだ。

ロドリックもまた、野心に満ちていた。
金も、権力も、すべてが欲しい。
家柄はある。だが──金がない。
金がなければ、権力も実現しない。

二人は結託し、婚約者を追い詰めて婚約を破棄させた。

いよいよ関係を公にしようとした矢先、ドリスが言った。

「今のあなたの家じゃ、ダメよ。立て直さない限り、私は行かないわ。
その気があるなら──お貴族様の甘い考えは、捨てなさい」

ドリスは問いかける。

「あなた、本当に“なんでも”する覚悟はある? ソーントン家を復興させるために」

「ああ、“なんでも”する気はある」

「なんでもよ? 本当に?」

「……するさ、なんでも。
お前みたいな考え方が欲しかった。
いつまでも甘っちょろいやり方してるから、家が落ちぶれたんだ。
このまま沈むなんて、冗談じゃない」

「ふふ、いい顔になってきたじゃない。
商人ってのはね、金のためには、なんだってするのよ」

「ああ──金のためなら、なんでもするさ。
貴族の体裁に縛られて、なにも変えられないなんて、つまらん。
邪魔なものはすべて排除して、俺の時代をつくるんだ」

「じゃあ、商人の娘からひとつ提案。
あなたの家には“目玉”が必要よ。
誰もが欲しがる、特別な品。たとえば──ヨシナ国の“刺繍”なんて、どう?」

「ヨシナ国の刺繍……?」

突飛な提案に、ロドリックは眉をひそめたが、
ドリスの目には確信が宿っていた。

「ヨシナ国って知ってる? ほとんど外に人が出てこない、閉ざされた島国。
外からもめったに人を受け入れない。
でも……だからこそ、価値があるのよ」

「名前くらいは聞いたが、あまりに遠すぎる」

「だからいいの。誰も知らないものこそ、売れるのよ。
あなた、ヨシナ国の刺繍を見たことないでしょう?
私はあるわ──子供の頃、一度だけ。
ヨシナ国の人がこの国に来たことがあって、そのときに見たの」

「それはもう、息を呑むほど豪奢で、鮮やかだった。
この国じゃ絶対に見られない技術の刺繍だったわ。──あれは、売れる」

ドリスは唇の端を吊り上げる。

「それにね、あの国の人間、驚くほどお人好しらしいの。
本当に、簡単に人を信じるんですって。……騙すのなんて、朝飯前よ」

「なぜそんなことを知ってる?」

「ふふ、さあ……想像にお任せするわ」

ふたりはドリスの実家の商会の裏ルートを使い、情報を集めた。
やがて、「絶品の刺繍技術を持つ、頃合いの女性」が見つかり、
彼女と繋がることのできる“協力者”──内通者の存在も掴んだ。

卒業後、両親を退け、いよいよ計画が動き出す。

「難破を偽装しましょう」

ドリスが口にしたその作戦は、あまりにも大胆だった。

「平和ボケした国よ。海からよろよろ現れた異国の男なんて、同情されて当然」

こうしてロドリックは“遭難者”としてヨシナ国に漂着し、
──そして、「偶然」一人の女性と出会う。

名は、サクラ。

長い黒髪と、静かな眼差しをもつ女性。
そして、その刺繍の腕前は言うまでもない。

ロドリックは、誠実で哀れな異国の男を演じた。
そして──サクラは、見事に落ちた。

やがて彼女は、子を宿す。



「……本当に、連れて帰ったのね」

港に現れたドリスは、笑顔の仮面を貼りつけたまま、サクラを迎えた。

「もちろんだよ。責任は取るさ」

ロドリックが笑う隣で、ドリスの視線だけが冷たく、サクラを射抜いていた。

「ようこそ、異国の姫様。“あなたの居場所”は……ちゃんと用意してあるわ」

その声に込められた冷笑に、サクラはまだ気づいていなかった。



サクラは屋敷へ戻ると、「体調を気遣って」と東棟に隔離された。
刺繍道具と布だけが与えられ、客人ではなく、まるで労働者のように扱われた。
出産のときだけは丁重に扱われ──やがて、女の子を出産する。

一方で、ロドリックとドリスは事実上の夫婦として暮らし、
ほどなくドリスも懐妊。彼女も女児を出産する。

産声を聞きながら、ドリスはほくそ笑んだ。
「うふふ……うまくいったわ。可愛い女の子。……これで、入れ替えができるわね」

サクラとは、形式上、婚姻手続きを済ませただけだった。
できれば手続きもしないでいたかったが、「難破した伯爵」が帰国したと、港の役人が来てしまったから仕方なく、
子を宿したヨシナ国の「妻」を伴って帰国したと伝え、その場で婚姻証明書にサインをした。
面倒ではあったが、書類上のものだ。
この腹の子が産まれ、刺繍の技術を「ソーントンの子供」に伝え終えた時点で、もう用はない。



──そして、計画の“最終段階”に近づく。

ある日、サクラは食事の後に倒れた。

急な病か、事故か──
誰にもわからない。だがその日、彼女にだけ、温かいスープが出された。
いつもは冷えたパンと水ばかりだったというのに。

「間違っても、子どもに食べさせないでね」

ドリスが使用人にそう念を押していたことを、今では誰も覚えていない。



サクラの死後、すぐにロドリックとドリスは正式に夫婦となった。

本来の娘──長女は東棟に押し込められ、
ドリスの娘・ソフィアには、「アリシア・ソーントン」の名が与えられた。

「ねえ、“アリシア”って響き、貴族っぽくて素敵でしょう?」
「うふふ……これからは、あなたの名前よ」

うまいことに、目鼻立ちはロドリックに似ていた。
だからドリスは、迷わず髪を染めさせた。金髪──ロドリックと同じ、貴族の象徴として映える色に。
本来の薄茶の髪など、下層の血筋を思わせて都合が悪い。

ソフィアがまだ物心もつかぬ幼い頃から、繰り返し染めさせた。
「前妻の娘」として育て上げるには、外見を整えるのが第一歩だった。

貴族たちは、見た目と“名前”に弱い。
ならば、それらを完璧に“作れば”いい。誰も疑いやしない。
ソフィアは──ソーントン家の“商品”として、丹念に仕立て上げられた。

幸い、この“アリシア”は頭の回る子だった。
計画の全体像もすぐに理解し、何も言わずに従ってくれている。
自分の価値を、ちゃんとわかっているのだろう。良い子よ。ええ、とても“使いやすい”子だわ。

まあ、そうよね。私の娘ですもの。
あの子が、ただ可愛いだけの“令嬢”で終わるはずがないわ。
中身も、どうやら私にそっくりらしいけれど──
それなら、それで結構。私と同じように、賢く立ち回ればいい。

中身なんて、いくらでも外から飾れる。
ほんと、お貴族様って、外面しか見ていないんですもの。
……ま、だからこそ。この計画が成り立つのだけれどね。

それから「アリシア・ソーントン」は、両親が卒業した王立学園にも通い、
“刺繍の名手”として、その名を上げていく。



──そして現在。

夜のサロンで、ワインを傾ける二人の姿がある。

「長い長い、仕掛けだったわねぇ」

「さあ、我がソーントン家の繁栄の始まりだ」

ふたりの笑い声が、静かな夜の帳に響いた。

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