『白い結婚、黒い逆転。――辺境公爵は書類で愛を囁く』

鷹 綾

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1-3 白い結婚の誓約式

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🌹第1章 断罪と契約婚

1-3 白い結婚の誓約式

 アルヴェン領の朝は、王都とは違う冷たさを帯びていた。
 湿り気のある空気が肌を撫で、遠くの山々にはまだ雪が残っている。
 レティシアは、用意された客間の窓辺で白いドレスの裾を整えていた。

 鏡に映る自分の姿は、かつて王都で着飾ったときのそれとは違う。
 宝石も金糸もない、ただ質の良い麻布で仕立てられた簡素な衣装。
 けれど不思議と、今の自分にはその方がしっくりときていた。

 ――“白い結婚”。
 この婚姻に情も触れも必要ない。
 それでも今日、形式上の誓約式が行われる。

 侍女が静かに告げた。
 「公爵閣下がお待ちです。教会へ。」

 レティシアはうなずき、厚手のマントを羽織って扉を開けた。
 外は小雪がちらつき、地面には霜が光る。
 彼女を迎える馬車の前には、黒い外套を纏ったグレイ・アルヴェンが立っていた。

 「……準備はできたか?」
 「ええ。問題ありません。」

 グレイの表情は、いつもと変わらず無表情だ。
 けれどその無表情の中に、どこか整然とした静かな気遣いが見える。
 彼は彼女の手を取ることなく、ただ淡々と馬車の扉を開けた。

 車輪の音だけが、静かな山道に響く。
 二人の間には、言葉も笑顔もなかった。
 だが、沈黙は不思議と重苦しくはない。
 お互いに“沈黙の意味”を理解していた。

 レティシアは窓の外を眺めながら、そっと問いかける。
 「なぜ、私に求婚を?」

 グレイは少しだけ目を伏せ、短く答える。
 「実務的な理由だ。王国法では、一定以上の爵位の貴族が独身を続けると、領地の監査権を制限される。
  だが、政略婚は面倒でね。感情を挟まぬ相手が必要だった。」

 「つまり、私は“都合の良い相手”というわけですのね。」
 「都合が良いというのは、むしろ褒め言葉だ。」

 その冷たい口調の奥に、奇妙な誠実さがあった。
 ――少なくとも、この人は嘘をつかない。
 レティシアはそう感じた。


---

 小一時間ほどして、二人を乗せた馬車は丘の上の小さな教会に到着した。
 古びた石造りの教会は、長い年月の風雪に耐えてきたのだろう。
 扉を開けると、冷たい空気と共にわずかな花の香りが漂う。

 参列者はわずか三人――公爵の家令、侍従、そして司祭。
 拍手も祝福の音楽もない。
 それでも、教会の中は不思議なほど厳粛だった。

 グレイが一歩進み出て、契約書の入った封筒を取り出す。
 「ここに、婚姻契約の最終書類がある。条文の内容は昨夜確認した通りだ。」

 司祭が淡々と読み上げる。
 「――互いに干渉せず、互いの義務を尊重し、互恵の下に婚姻を結ぶ。」

 その言葉を聞くたびに、レティシアの胸の奥で小さな痛みが走った。
 “愛している”という言葉は、一度も出てこない。
 それでも、彼女の指先は震えていた。

 司祭が問いかける。
 「レティシア・ファルネリア殿、あなたはこの契約を受け入れますか?」
 「はい。受け入れます。」

 「グレイ・アルヴェン公爵、あなたも同様に受け入れますか?」
 「……ああ。」

 短い肯定。その一言で式は成立した。
 形式上、二人は夫婦になった。

 だが、そこには花束も指輪の交換もない。
 あるのは、署名と印章。

 グレイが机に書類を広げ、羽ペンを取った。
 「まずは私からだ。」
 彼はゆっくりと署名する。
 その筆跡は整いすぎるほど整っていて、文字の隅まで冷静な美しさを湛えている。

 そして、彼は無言でペンを差し出した。
 「……あなたの番だ。」

 レティシアはペンを受け取り、深呼吸を一つしてから署名する。
 > 『レティシア・ファルネリア・アルヴェン』

 その瞬間、インクが乾く音さえ聞こえるような気がした。

 ――これで、私は“誰かの妻”になったのね。
 けれど、その“誰か”は私を愛していない。
 そして、私もまた、彼を愛してはいけない。

 司祭が静かに聖印を切り、二人に向かって宣言した。
 「これをもって、婚姻は成立しました。」

 短い沈黙。
 その沈黙を破ったのは、グレイの一言だった。

 「……ようこそ、我が領へ。」

 冷たい声。だが、わずかに優しさが滲む。
 その一言に、レティシアの胸がなぜか強く高鳴った。

 彼女は思わず問い返す。
 「公爵閣下……貴方にとって、この婚姻に“意味”はあるのですか?」

 グレイはしばらく黙ったまま、ステンドグラス越しの光を見つめていた。
 「意味……か。少なくとも、私には必要だ。
  この国を立て直すために、感情を捨てて働く者が、もう一人欲しかった。」

 「つまり、私はその“もう一人”ですのね。」
 「そうだ。」

 あまりに即答で、レティシアは思わず苦笑した。
 けれど、不思議と傷つくことはなかった。
 “必要”という言葉が、彼女の心のどこかに火を灯したからだ。


---

 式を終え、二人は教会の外へ出た。
 風が強く、雪が舞っている。
 空は薄曇りだが、雲の切れ間からわずかな光が差していた。

 グレイが外套を脱ぎ、何のためらいもなくレティシアの肩にかける。
 「冷える。」
 「……ありがとうございます。」

 その仕草は不器用だった。
 けれど、言葉よりもずっと誠実だった。

 「公爵閣下。」
 「何だ。」
 「“白い結婚”と聞いておりましたが、こうしてみると、意外に温かいものですね。」

 グレイはほんの少し眉を動かした。
 「温かい?」
 「ええ。契約という名の温度ですわ。」

 その答えに、公爵の唇がわずかに緩んだ。
 ほとんど見えないほどの笑み。
 それでも、彼が笑ったのだと、レティシアは確信した。


---

 屋敷に戻ると、家令が新しい部屋の鍵を差し出した。
 「奥様のお部屋はこちらです。閣下のお部屋とは廊下を隔てた向かい側に。」

 “同居別室”――契約の第一条に忠実な配置だった。
 部屋は広く、暖炉には火が焚かれている。
 机の上には、分厚い帳簿と封をされた書類束が置かれていた。

 「これは?」
 「閣下からの指示書でございます。」

 レティシアは封を開ける。
 中には、領地の財政報告書と手書きのメモが挟まれていた。

 > 『現状:税収減、支出過多。
 >  港湾修繕未完了。
 >  余力なし。
 >  
 >  可能なら、改善策を。――G.A.』

 淡々とした筆跡。だが、最後の一行にわずかな信頼があった。
 “可能なら”――それは命令ではなく、依頼の言葉。

 レティシアは小さく笑い、ペンを取った。

 > 『了解しました。まずは支出内訳から洗い直します。
 >  ――R.A.』

 それは、初めて二人が交わした“書類での会話”だった。

 夜。暖炉の火が揺らめく中、レティシアは山のような書類を前にしていた。
 数字の羅列を追ううちに、心が静かになっていく。
 “感情を棄てたはずなのに、なぜか心が落ち着く。”

 不思議な感覚だった。
 ――この屋敷、この契約、この書類の匂い。
 すべてが自分に馴染む。

 外から雪の落ちる音が聞こえた。
 その静けさの中で、レティシアはふと独り言を漏らす。

 「……やっぱり、私、こういう生き方の方が好きなのかもしれませんわね。」

 彼女は微笑み、ペン先を滑らせた。

 そしてその夜、廊下の向こうの部屋で、公爵グレイもまた机に向かっていた。
 書類の端に、彼は短くメモを残す。

 > 『新妻、書類整理の腕、驚異的。
 >  要観察。』

 ――それが、後に“書類で紡がれる恋”の最初の一文となることを、
 二人ともまだ知らなかった。


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