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1-4 辺境領での新生活
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第1章 断罪と契約婚
1-4 辺境領での新生活
雪の溶け残る朝、屋敷の鐘が静かに鳴った。
レティシアはまだ慣れぬ寝台から身を起こすと、柔らかい光がカーテン越しに差し込むのを見上げた。
“辺境での朝”は王都とはまるで違う。鳥の声より先に、鍛冶場の金槌の音が聞こえる。
冷たい空気の中に、生活の匂いがあった。
鏡の前に座り、髪を整える。
侍女は置かれていない。契約書の通り、最低限の人員しか雇われていないのだ。
それでも不便はなかった。自分の身の回りのことくらい、自分でできる。
むしろ、その方が心地よい。
昨日の誓約式を思い返す。
愛を誓わない婚姻。
だが、あの瞬間――グレイが「ようこそ」と言った声の温度を、彼女は忘れられなかった。
冷たくも穏やかなその声が、胸の奥で静かに反響していた。
---
食堂に降りると、テーブルの上には整然とした朝食が並んでいた。
黒パン、スープ、ハーブを添えた卵料理。
それらは質素ながらも整えられていて、誰かが細やかに気を配っていることがわかる。
そしてその奥に、すでに着席していたのは――公爵グレイ。
彼は書類の束を片手に、もう食事を終えていた。
「おはようございます、公爵閣下。」
「おはよう。朝食は口に合うか?」
「ええ、ちょうどいい塩気ですわ。」
グレイはうなずくと、すぐに視線を手元の書類に戻した。
黙々とペンを走らせる姿は、まるで戦場に立つ将軍のようだ。
沈黙が続く。だが、居心地の悪さはなかった。
この沈黙の中には、互いの“信頼の線”が引かれている。
レティシアはパンを口に運びながら、視線を上げた。
「……閣下。」
「何だ。」
「昨夜の財務報告書、拝見いたしました。
支出の重複が見られます。二つの部署が同じ港湾工事の予算を申請しています。」
グレイは顔を上げた。
「確認したが、どちらも正規の書類だ。」
「ええ。ですが、そのうち片方の印章が古い様式です。
三年前に改定された印章法を適用していない。つまり――偽造の可能性があります。」
グレイの瞳が鋭く光った。
「……なるほど。では、その書類を持ってきてくれ。」
「すでに机の上にございますわ。」
彼が驚いたように眉を動かす。
レティシアは昨夜のうちに、問題の文書を整理していたのだ。
封筒の裏には、彼女の小さなメモ。
> 『副港工事に関する重複支出、監査要。
> 支出額一万二千ルクのうち四千が宙に浮いています。』
グレイは書類を読み、しばし沈黙した後、低く呟いた。
「……驚嘆に値するな。
まさか一晩でここまで精査するとは。」
「私の趣味ですの。」
レティシアが微笑むと、彼はペンを取った。
すぐに新しい命令書を書き上げ、印章を押す。
> 『該当支出の凍結、調査委員会設立を命ず。――G.A.』
そしてその下に、もう一行小さく書き添えた。
> 『あなたの判断を信頼する。』
その短い一文を目にした瞬間、レティシアの胸が小さく跳ねた。
たった十数文字。けれど、それは初めて彼が“感情”を添えた書類だった。
---
日中、レティシアは役所を訪れた。
辺境領の行政庁舎は古く、書類は山積み。
それでも、彼女は動じない。
「まずは分類からですわね。」
古びた棚から帳簿を引き出し、項目別に仕分けていく。
役人たちは最初、よそ者の令嬢を訝しんでいたが、
数時間後には誰もが黙って彼女の指示に従っていた。
「港湾関係は青、税収関係は赤。
未処理分は棚の左列に。記録簿を写本して、控えを作成して。」
的確な指示と、淀みない動作。
机の上の混沌が、次第に整っていく。
「さすが、公爵夫人だ……」
「いや、“氷の書記官”だな。」
そんな囁きが聞こえる。
レティシアは笑わず、ただ淡々と書類を重ねた。
けれど、心の奥には確かな満足感があった。
“これこそ、私の戦場。”
---
夜。
部屋に戻ると、机の上に一通の封書が置かれていた。
差出人は――グレイ。
封を切ると、中には一枚の紙片。
> 『報告を確認した。副港工事に不正あり。
> 君の調査がなければ、見過ごすところだった。
> 礼を言う。
> それと……食事を忘れるな。
> ――G.A.』
思わず吹き出した。
“食事を忘れるな”――そんな注意を書類に添える人がいるだろうか。
「本当に、不器用な方……。」
小さく笑って、手紙を引き出しにしまう。
その隣には、自分が書いた返答書。
> 『仕事は完了しました。
> 食事も摂りました。
> お心遣いに感謝します。
> ――R.A.』
彼女はインクを乾かしながら、そっと呟いた。
「感情不干渉、のはずでしたのに……書類越しに、少しずつ混ざっていきますわね。」
---
翌朝。
公爵邸の中庭では、子どもたちが雪解け水で小さな船を浮かべて遊んでいた。
その中に、村の少女が一人、転んで泥だらけになって泣いている。
それを見たレティシアは思わず駆け寄り、膝をついて声をかけた。
「大丈夫? 船は壊れていないわ。」
泥まみれの手を取って、木の枝で修理してやる。
少女は涙を拭いて笑った。
「ありがとう、お姉さま!」
屋敷の窓から、その様子を見ていたグレイは、珍しく口元を緩めた。
家令がそっと呟く。
「閣下……奥様は領民から、もう“白の夫人”と呼ばれています。」
「白の夫人?」
「はい。氷のように清らかで、手を差し伸べる人、だとか。」
グレイは視線を戻し、つぶやく。
「……確かに、氷ではないな。」
---
夜。再び机の上に一枚の書類が置かれていた。
> 『今日、子どもたちと遊びました。
> 彼らの笑顔は、帳簿よりもずっと価値があります。
> ――R.A.』
グレイはそれを読み、静かに笑った。
そして下に一行、書き添える。
> 『帳簿よりも価値あるものを見つけたなら、
> それを守るのが公爵の仕事だ。――G.A.』
その夜、屋敷の外では雪が再び降り始めた。
白い静寂の中で、レティシアはペンを置き、暖炉の火を見つめる。
“契約だけで始まった婚姻。
でも今、私はこの土地で生きている。”
その温もりを確かに感じながら、彼女は小さく笑った。
「白い結婚、という名の下に――
少しずつ、色がついていくのですわね。」
---
1-4 辺境領での新生活
雪の溶け残る朝、屋敷の鐘が静かに鳴った。
レティシアはまだ慣れぬ寝台から身を起こすと、柔らかい光がカーテン越しに差し込むのを見上げた。
“辺境での朝”は王都とはまるで違う。鳥の声より先に、鍛冶場の金槌の音が聞こえる。
冷たい空気の中に、生活の匂いがあった。
鏡の前に座り、髪を整える。
侍女は置かれていない。契約書の通り、最低限の人員しか雇われていないのだ。
それでも不便はなかった。自分の身の回りのことくらい、自分でできる。
むしろ、その方が心地よい。
昨日の誓約式を思い返す。
愛を誓わない婚姻。
だが、あの瞬間――グレイが「ようこそ」と言った声の温度を、彼女は忘れられなかった。
冷たくも穏やかなその声が、胸の奥で静かに反響していた。
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食堂に降りると、テーブルの上には整然とした朝食が並んでいた。
黒パン、スープ、ハーブを添えた卵料理。
それらは質素ながらも整えられていて、誰かが細やかに気を配っていることがわかる。
そしてその奥に、すでに着席していたのは――公爵グレイ。
彼は書類の束を片手に、もう食事を終えていた。
「おはようございます、公爵閣下。」
「おはよう。朝食は口に合うか?」
「ええ、ちょうどいい塩気ですわ。」
グレイはうなずくと、すぐに視線を手元の書類に戻した。
黙々とペンを走らせる姿は、まるで戦場に立つ将軍のようだ。
沈黙が続く。だが、居心地の悪さはなかった。
この沈黙の中には、互いの“信頼の線”が引かれている。
レティシアはパンを口に運びながら、視線を上げた。
「……閣下。」
「何だ。」
「昨夜の財務報告書、拝見いたしました。
支出の重複が見られます。二つの部署が同じ港湾工事の予算を申請しています。」
グレイは顔を上げた。
「確認したが、どちらも正規の書類だ。」
「ええ。ですが、そのうち片方の印章が古い様式です。
三年前に改定された印章法を適用していない。つまり――偽造の可能性があります。」
グレイの瞳が鋭く光った。
「……なるほど。では、その書類を持ってきてくれ。」
「すでに机の上にございますわ。」
彼が驚いたように眉を動かす。
レティシアは昨夜のうちに、問題の文書を整理していたのだ。
封筒の裏には、彼女の小さなメモ。
> 『副港工事に関する重複支出、監査要。
> 支出額一万二千ルクのうち四千が宙に浮いています。』
グレイは書類を読み、しばし沈黙した後、低く呟いた。
「……驚嘆に値するな。
まさか一晩でここまで精査するとは。」
「私の趣味ですの。」
レティシアが微笑むと、彼はペンを取った。
すぐに新しい命令書を書き上げ、印章を押す。
> 『該当支出の凍結、調査委員会設立を命ず。――G.A.』
そしてその下に、もう一行小さく書き添えた。
> 『あなたの判断を信頼する。』
その短い一文を目にした瞬間、レティシアの胸が小さく跳ねた。
たった十数文字。けれど、それは初めて彼が“感情”を添えた書類だった。
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日中、レティシアは役所を訪れた。
辺境領の行政庁舎は古く、書類は山積み。
それでも、彼女は動じない。
「まずは分類からですわね。」
古びた棚から帳簿を引き出し、項目別に仕分けていく。
役人たちは最初、よそ者の令嬢を訝しんでいたが、
数時間後には誰もが黙って彼女の指示に従っていた。
「港湾関係は青、税収関係は赤。
未処理分は棚の左列に。記録簿を写本して、控えを作成して。」
的確な指示と、淀みない動作。
机の上の混沌が、次第に整っていく。
「さすが、公爵夫人だ……」
「いや、“氷の書記官”だな。」
そんな囁きが聞こえる。
レティシアは笑わず、ただ淡々と書類を重ねた。
けれど、心の奥には確かな満足感があった。
“これこそ、私の戦場。”
---
夜。
部屋に戻ると、机の上に一通の封書が置かれていた。
差出人は――グレイ。
封を切ると、中には一枚の紙片。
> 『報告を確認した。副港工事に不正あり。
> 君の調査がなければ、見過ごすところだった。
> 礼を言う。
> それと……食事を忘れるな。
> ――G.A.』
思わず吹き出した。
“食事を忘れるな”――そんな注意を書類に添える人がいるだろうか。
「本当に、不器用な方……。」
小さく笑って、手紙を引き出しにしまう。
その隣には、自分が書いた返答書。
> 『仕事は完了しました。
> 食事も摂りました。
> お心遣いに感謝します。
> ――R.A.』
彼女はインクを乾かしながら、そっと呟いた。
「感情不干渉、のはずでしたのに……書類越しに、少しずつ混ざっていきますわね。」
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翌朝。
公爵邸の中庭では、子どもたちが雪解け水で小さな船を浮かべて遊んでいた。
その中に、村の少女が一人、転んで泥だらけになって泣いている。
それを見たレティシアは思わず駆け寄り、膝をついて声をかけた。
「大丈夫? 船は壊れていないわ。」
泥まみれの手を取って、木の枝で修理してやる。
少女は涙を拭いて笑った。
「ありがとう、お姉さま!」
屋敷の窓から、その様子を見ていたグレイは、珍しく口元を緩めた。
家令がそっと呟く。
「閣下……奥様は領民から、もう“白の夫人”と呼ばれています。」
「白の夫人?」
「はい。氷のように清らかで、手を差し伸べる人、だとか。」
グレイは視線を戻し、つぶやく。
「……確かに、氷ではないな。」
---
夜。再び机の上に一枚の書類が置かれていた。
> 『今日、子どもたちと遊びました。
> 彼らの笑顔は、帳簿よりもずっと価値があります。
> ――R.A.』
グレイはそれを読み、静かに笑った。
そして下に一行、書き添える。
> 『帳簿よりも価値あるものを見つけたなら、
> それを守るのが公爵の仕事だ。――G.A.』
その夜、屋敷の外では雪が再び降り始めた。
白い静寂の中で、レティシアはペンを置き、暖炉の火を見つめる。
“契約だけで始まった婚姻。
でも今、私はこの土地で生きている。”
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