37 / 40
第三十七話 偶然という名の最初の一線
しおりを挟む
第三十七話 偶然という名の最初の一線
暴力は、
宣言から始まらない。
怒号からでも、
命令からでもない。
「たまたま」
「知らなかった」
「運が悪かった」
そう言い訳できる形で、
最初の一線は
越えられる。
王都の南門近く。
夕暮れの路地で、
一人の青年が
倒れていた。
意識はある。
致命傷ではない。
だが――
顔に残る痣と、
踏み荒らされた荷袋が、
何が起きたかを
雄弁に語っている。
「……ぶつかった、
だけだ」
周囲に集まった人々に、
彼はそう言った。
「……人が多くて」
誰も、
反論しない。
なぜなら――
誰も
詳しく聞こうと
しないからだ。
翌朝。
噂は、
すでに
形を変えていた。
「……あの人、
転んだだけらしい」
「……評価、
低かったって
聞いたけど」
「……じゃあ、
仕方ないか」
誰も、
殴ったとは
言わない。
誰も、
殴られたとも
言わない。
偶然が、
すべてを
処理する。
兵士の詰所では、
報告が上がっていた。
「暴力行為の
確認は
できません」
「被害届も
出ていません」
それは、
事実だった。
ルーファス・ヴァルディオスは、
その報告書を
見つめ、
低く呟いた。
「……最初は、
いつも
こうだ」
教会。
ミレイア・ルミナスのもとに、
青年は
運ばれてきた。
「……大丈夫ですか」
彼は、
視線を逸らし、
首を振る。
「……大丈夫、です」
それ以上、
語らない。
語れないのではない。
語らない方が
安全だと
知っている。
ミレイアは、
傷に手を当て、
静かに祈る。
治癒は、
できる。
だが――
恐怖は
癒せない。
その夜。
酒場で、
笑い声が
上がる。
「……最近、
妙に
静かだと思ったらさ」
「……気をつけない人が
減ったんだな」
誰かが、
そう言って
杯を掲げる。
その言葉に、
誰も
疑問を
挟まない。
静か=安全
という
誤解が、
完成しつつあった。
記録を続ける者たちは、
新しい行を
書き足す。
――
・路上転倒(目撃者多数)
・物損あり
・暴力証言なし
「……これ、
偶然じゃない」
学生が
震える声で
言う。
「でも……
証明できない」
一方、
シュヴァルツガルト公国。
セラフィーナは、
短く息を吐いた。
「……越えましたね」
アーヴィンが
問う。
「何を」
「最初の一線です」
「もう、
元には
戻れません」
「次は、
もっと
分かりやすい形で
起きます」
エルディア王国では、
翌日も
平穏だった。
市場は開き、
工房は動き、
官報は
淡々と配られる。
だが――
人々の歩き方が
変わっていた。
視線を
合わせない。
荷を
しっかり抱える。
「近づかない」
という
選択が、
日常になる。
偶然という名で
許された一線は、
必ず
次の一線を
呼ぶ。
次は――
転倒では済まない。
次は――
「たまたま」では
説明できない。
そしてその時、
人々は
初めて
気づく。
何もしていないのに、
世界が
壊れている
という事実に。
エルディア王国は、
いま、
その
直前に
立っていた。
暴力は、
宣言から始まらない。
怒号からでも、
命令からでもない。
「たまたま」
「知らなかった」
「運が悪かった」
そう言い訳できる形で、
最初の一線は
越えられる。
王都の南門近く。
夕暮れの路地で、
一人の青年が
倒れていた。
意識はある。
致命傷ではない。
だが――
顔に残る痣と、
踏み荒らされた荷袋が、
何が起きたかを
雄弁に語っている。
「……ぶつかった、
だけだ」
周囲に集まった人々に、
彼はそう言った。
「……人が多くて」
誰も、
反論しない。
なぜなら――
誰も
詳しく聞こうと
しないからだ。
翌朝。
噂は、
すでに
形を変えていた。
「……あの人、
転んだだけらしい」
「……評価、
低かったって
聞いたけど」
「……じゃあ、
仕方ないか」
誰も、
殴ったとは
言わない。
誰も、
殴られたとも
言わない。
偶然が、
すべてを
処理する。
兵士の詰所では、
報告が上がっていた。
「暴力行為の
確認は
できません」
「被害届も
出ていません」
それは、
事実だった。
ルーファス・ヴァルディオスは、
その報告書を
見つめ、
低く呟いた。
「……最初は、
いつも
こうだ」
教会。
ミレイア・ルミナスのもとに、
青年は
運ばれてきた。
「……大丈夫ですか」
彼は、
視線を逸らし、
首を振る。
「……大丈夫、です」
それ以上、
語らない。
語れないのではない。
語らない方が
安全だと
知っている。
ミレイアは、
傷に手を当て、
静かに祈る。
治癒は、
できる。
だが――
恐怖は
癒せない。
その夜。
酒場で、
笑い声が
上がる。
「……最近、
妙に
静かだと思ったらさ」
「……気をつけない人が
減ったんだな」
誰かが、
そう言って
杯を掲げる。
その言葉に、
誰も
疑問を
挟まない。
静か=安全
という
誤解が、
完成しつつあった。
記録を続ける者たちは、
新しい行を
書き足す。
――
・路上転倒(目撃者多数)
・物損あり
・暴力証言なし
「……これ、
偶然じゃない」
学生が
震える声で
言う。
「でも……
証明できない」
一方、
シュヴァルツガルト公国。
セラフィーナは、
短く息を吐いた。
「……越えましたね」
アーヴィンが
問う。
「何を」
「最初の一線です」
「もう、
元には
戻れません」
「次は、
もっと
分かりやすい形で
起きます」
エルディア王国では、
翌日も
平穏だった。
市場は開き、
工房は動き、
官報は
淡々と配られる。
だが――
人々の歩き方が
変わっていた。
視線を
合わせない。
荷を
しっかり抱える。
「近づかない」
という
選択が、
日常になる。
偶然という名で
許された一線は、
必ず
次の一線を
呼ぶ。
次は――
転倒では済まない。
次は――
「たまたま」では
説明できない。
そしてその時、
人々は
初めて
気づく。
何もしていないのに、
世界が
壊れている
という事実に。
エルディア王国は、
いま、
その
直前に
立っていた。
0
あなたにおすすめの小説
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』
鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」
華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。
そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです
きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」
5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。
その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?
婚約者が妹と結婚したいと言ってきたので、私は身を引こうと決めました
日下奈緒
恋愛
アーリンは皇太子・クリフと婚約をし幸せな生活をしていた。
だがある日、クリフが妹のセシリーと結婚したいと言ってきた。
もしかして、婚約破棄⁉
遊び人の令嬢が目を付けたのは、私の真面目な婚約者でした
おいどん
恋愛
子爵家の令嬢エリーネと伯爵家の次男のノルトが婚約を結んだのは、半年前だった。
真面目で優秀なノルトに相応しい婚約者であろうとするものの、エリーネには自信がなかった。
ある日、遊び人と噂の令嬢べルティーナとノルトが共にいるところを見てしまう。
「真面目クンは壁さえ破っちゃえばこっちのもんだからね〜」
「きっと、彼女の美しさに嫉妬しているのだわ…」
「…今度は、ちゃんと言葉にするから」
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる