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第1話 静かな令嬢
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第1話 静かな令嬢
エレシア・ヴァレンティスは、王城の中でほとんど目立たない存在だった。
それは、彼女が無能だったからでも、愚かだったからでもない。
ただ――自分から何も主張しなかっただけだ。
王太子妃候補。
その肩書きだけを聞けば、華やかで、野心に満ちた令嬢を想像する者も多いだろう。
だが、実際のエレシアはまるで違った。
彼女は、前に出ない。
競わない。
他人を蹴落とさない。
誰かが話せば、黙って聞く。
意見を求められれば、当たり障りのない返答をする。
沈黙が許される場では、何も言わない。
その姿勢は、周囲に「害のない令嬢」という印象を与えていた。
「エレシア様は、本当におとなしい方ですわね」
午後の茶会。
そんな言葉が、何度となく耳に入る。
「ええ。良く言えば慎み深い、悪く言えば……存在感が薄い、かしら」
くすくすと、令嬢たちが笑う。
だが、その声に悪意はない。
興味もない。
エレシアは、その輪の中で静かに微笑んでいた。
(……相変わらずね)
心の中で、そう思う。
彼女は、そうした評価に傷つくことも、反論することもなかった。
なぜなら――どうでもよかったからだ。
王太子妃になることに、特別な思いはない。
もちろん、拒否する理由もなかった。
王家から打診があり、家が了承し、形式的に婚約が結ばれた。
それだけのことだ。
「王太子妃として、どのような理想をお持ちですか?」
かつて、そう尋ねられたことがある。
エレシアは少し考えてから、こう答えた。
「……特に、ございません」
その場の空気が、一瞬だけ止まった。
普通なら、「国を支えたい」「民のために尽くしたい」といった模範解答が求められる。
だが、エレシアはそれを言わなかった。
嘘をつくのが、面倒だったからだ。
結果、その質問は曖昧に流され、
彼女は「欲のない令嬢」という評価を得ただけだった。
王太子との関係も、淡々としたものだった。
挨拶を交わす。
形式的な会話をする。
必要以上に踏み込まない。
感情の交流はないが、摩擦もない。
王太子にとって、エレシアは「扱いやすい婚約者」だっただろう。
何かを求めてこない。
期待を押し付けてこない。
不満も言わない。
――だからこそ。
(……信頼されているわけでも、ないのよね)
エレシアは、そのことをよく理解していた。
ある日のこと。
王城の回廊を歩いていると、前方から役人たちの話し声が聞こえてきた。
「最近、王太子妃候補の中で問題が多いそうだな」
「ええ、裏で不正があったとか……」
エレシアは、足を止めずにその横を通り過ぎる。
話題が、自分に関係あるのかどうかも、気にしなかった。
(どうせ、誰かの噂話)
王城では、噂が噂を呼び、
真実かどうかなど、誰も深く考えない。
それが、日常だった。
エレシアの生活は、規則正しく、静かだった。
朝は決まった時間に起き、
決められた勉学をこなし、
社交の場では微笑み、
夜は本を読んで休む。
刺激はない。
だが、混乱もない。
彼女は、その日々を嫌ってはいなかった。
「……静かで、いい」
誰に聞かせるでもなく、
そう呟くことが、たまにある。
エレシアは知らない。
この静けさが、
嵐の前の静寂であることを。
そして、
自分が「害のない存在」として見過ごされていることが、
やがて「切り捨てやすい存在」へと変わることを。
この時の彼女は、まだ知らなかった。
自分が――
突然、罪を着せられ、
疑われ、
信じられず、
あっさりと切り捨てられる未来を。
今はただ、
何も起きない一日を、
静かに過ごしていただけだった。
それが、
彼女にとって当たり前の、
――最後の「何事もない日」になるとも知らずに。
エレシア・ヴァレンティスは、王城の中でほとんど目立たない存在だった。
それは、彼女が無能だったからでも、愚かだったからでもない。
ただ――自分から何も主張しなかっただけだ。
王太子妃候補。
その肩書きだけを聞けば、華やかで、野心に満ちた令嬢を想像する者も多いだろう。
だが、実際のエレシアはまるで違った。
彼女は、前に出ない。
競わない。
他人を蹴落とさない。
誰かが話せば、黙って聞く。
意見を求められれば、当たり障りのない返答をする。
沈黙が許される場では、何も言わない。
その姿勢は、周囲に「害のない令嬢」という印象を与えていた。
「エレシア様は、本当におとなしい方ですわね」
午後の茶会。
そんな言葉が、何度となく耳に入る。
「ええ。良く言えば慎み深い、悪く言えば……存在感が薄い、かしら」
くすくすと、令嬢たちが笑う。
だが、その声に悪意はない。
興味もない。
エレシアは、その輪の中で静かに微笑んでいた。
(……相変わらずね)
心の中で、そう思う。
彼女は、そうした評価に傷つくことも、反論することもなかった。
なぜなら――どうでもよかったからだ。
王太子妃になることに、特別な思いはない。
もちろん、拒否する理由もなかった。
王家から打診があり、家が了承し、形式的に婚約が結ばれた。
それだけのことだ。
「王太子妃として、どのような理想をお持ちですか?」
かつて、そう尋ねられたことがある。
エレシアは少し考えてから、こう答えた。
「……特に、ございません」
その場の空気が、一瞬だけ止まった。
普通なら、「国を支えたい」「民のために尽くしたい」といった模範解答が求められる。
だが、エレシアはそれを言わなかった。
嘘をつくのが、面倒だったからだ。
結果、その質問は曖昧に流され、
彼女は「欲のない令嬢」という評価を得ただけだった。
王太子との関係も、淡々としたものだった。
挨拶を交わす。
形式的な会話をする。
必要以上に踏み込まない。
感情の交流はないが、摩擦もない。
王太子にとって、エレシアは「扱いやすい婚約者」だっただろう。
何かを求めてこない。
期待を押し付けてこない。
不満も言わない。
――だからこそ。
(……信頼されているわけでも、ないのよね)
エレシアは、そのことをよく理解していた。
ある日のこと。
王城の回廊を歩いていると、前方から役人たちの話し声が聞こえてきた。
「最近、王太子妃候補の中で問題が多いそうだな」
「ええ、裏で不正があったとか……」
エレシアは、足を止めずにその横を通り過ぎる。
話題が、自分に関係あるのかどうかも、気にしなかった。
(どうせ、誰かの噂話)
王城では、噂が噂を呼び、
真実かどうかなど、誰も深く考えない。
それが、日常だった。
エレシアの生活は、規則正しく、静かだった。
朝は決まった時間に起き、
決められた勉学をこなし、
社交の場では微笑み、
夜は本を読んで休む。
刺激はない。
だが、混乱もない。
彼女は、その日々を嫌ってはいなかった。
「……静かで、いい」
誰に聞かせるでもなく、
そう呟くことが、たまにある。
エレシアは知らない。
この静けさが、
嵐の前の静寂であることを。
そして、
自分が「害のない存在」として見過ごされていることが、
やがて「切り捨てやすい存在」へと変わることを。
この時の彼女は、まだ知らなかった。
自分が――
突然、罪を着せられ、
疑われ、
信じられず、
あっさりと切り捨てられる未来を。
今はただ、
何も起きない一日を、
静かに過ごしていただけだった。
それが、
彼女にとって当たり前の、
――最後の「何事もない日」になるとも知らずに。
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