『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第四話 見世物の代金

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第四話 見世物の代金

 サビーネの問いが落ちたあと、大広間にはひどく重たい沈黙が広がった。

 婚約破棄の是非ではない。

 恋愛のもつれでもない。

 今問われているのは、この夜そのものだった。

 誰が、どこまで、最初から用意していたのか。王立劇場という舞台、慈善晩餐会という名目、大勢の貴族を集めた場、そしてその壇上での公開婚約破棄。

 もしこれが衝動ではなく仕組まれたものだとすれば、悪趣味どころの話ではない。

 王族の私情で、寄付の席を見世物に変えたことになる。

 さすがにその意味は、ここにいる誰にもわかった。

 セドリック第二王子は、しばらく口を開かなかった。

 いや、開けなかったのだろう。

 さっきまでなら、勢いで押し通せた。だが今は、言葉を選び損ねた瞬間に自分の首を絞めるとわかっている。だから黙るしかない。

 けれど、黙っても助からない。

「どうなさいましたの、殿下」

 サビーネは静かに首を傾げた。

「お答えが難しいご質問でしたかしら」

「……難しいも何もない」

 ようやく絞り出した声は、少し掠れていた。

「これは私の判断だ」

 ざわ、と空気が揺れる。

 サビーネはまばたきもせず、その言葉を受け止めた。

「殿下ご自身のご判断で」

「そうだ」

「慈善晩餐会の壇上を婚約破棄に使うと?」

「それの何が悪い!」

 今度の声は強かった。

 強かったが、余裕から出た強さではない。追い詰められて声量だけが上がった時の響きだ。

「王族の婚約は公の関心事だ! であれば、公の場で明らかにすることに問題はない!」

 その理屈に、何人かの貴族が顔をしかめた。

 王族の婚約が公の関心事なのはたしかだ。だがだからといって、何をしてもいいわけではない。少なくとも上流社会には、外聞と手順と形式という面倒な衣装がある。中身がどうであれ、それをまとっていなければ、たちまち下品に見える。

 今のセドリックは、その衣装を自分で引き裂いている最中だった。

「なるほど」

 サビーネはうなずいた。

「では確認ですが、今夜この場を婚約破棄の舞台に選ばれたのは、殿下ご自身のお考えであり、どなたかに唆されたわけでも、誤って勢いづかれたわけでもなく、正しいと思ってなさったことですのね」

 セドリックは一瞬、言葉に詰まった。

 まずい、と自分でも思ったのだろう。

 今の問いにうなずけば、自分の責任になる。かといって否定すれば、誰かに操られた無能な王子ということになる。

 どちらへ転んでも痛い。

 それでも観客は待っている。壇上に立つ者が黙ることは、社交界では敗北とほとんど同義だった。

「……そうだ」

 セドリックは歯を食いしばるようにして答えた。

「私は正しいことをした」

 その瞬間、サビーネの胸の内で何かが静かに定まった。

 そう。

 ならば、もう遠慮はいらない。

「承知いたしましたわ」

 サビーネの声は驚くほど穏やかだった。

「では今夜の件は、殿下のご意思による公開の婚約解消として、今後それにふさわしい手続きと精算を進めさせていただきます」

「精算、精算と……!」

 セドリックが吐き捨てるように言う。

「お前は商人か」

「いいえ」

 サビーネはにっこりと微笑んだ。

「被害者ですわ」

 大広間が揺れた。

 笑いではない。驚きと納得が一緒に押し寄せた時のざわめきだ。

 被害者。

 その言葉を、彼女は初めてはっきり口にした。

 涙ながらにでもなく、弱々しくでもなく、まるで契約書の文面でも読むように淡々と。

「わたくしは、事前の通告なく公の場に引き出され、婚約者としての名誉を傷つけられ、しかも悪女として扱われましたの。これを被害と呼ばずして、何と申しましょう」

 正論だった。

 あまりにも正論で、誰もすぐには反論できなかった。

 オディール・メルヴィが、耐えきれずに口を開く。

「で、でも……サビーネ様も、殿下のお気持ちを無視なさって……」

「無視?」

 サビーネは彼女を見る。

「殿下のお気持ちとは、“婚約者がいるにもかかわらず別の令嬢を隣へ立たせても不快に思うな”という意味かしら」

 オディールの唇がぴくりと震える。

「そ、そうではなくて……」

「では、“公衆の面前で婚約破棄をされても静かに泣いて退場しろ”という意味?」

「わたくし、そんなこと……」

「言っておりませんわね」

 サビーネはやさしく頷いた。

「でも、望んでいらしたのでしょう?」

 オディールの目が泳いだ。

 やはりこの娘は、自分が口にしなかった願望は責められないと思っている。口にしなくても、場の空気をそう仕向けていたくせに。

 だが今夜は、その“察してほしい甘え”が全部、裏目に出ている。

 サビーネは視線を戻した。

「殿下。わたくしが申し上げている“代金”とは、お金のことだけではございませんの」

 セドリックが険しい顔を向ける。

「何だと」

「見世物には、必ず代金が発生しますわ」

 サビーネはゆっくり言葉を置いていく。

「払うのは観客ではありません。舞台に上げた側です」

 静まり返った会場に、その言葉は妙によく響いた。

「殿下は今夜、わたくしの尊厳を舞台へ載せました。そして皆様の前で切り刻もうとなさった。でしたら、その責任を負うのは当然ではなくて?」

「尊厳など、大げさだ!」

「大げさかどうかは、明日の社交界が決めますわ」

 容赦がなかった。

 サビーネ自身、こんなふうに話せるとは思っていなかった。だがいったん堰を切った言葉は、驚くほど冷静に流れていく。

 ずっと心のどこかに溜まっていたのだろう。

 我慢。失望。羞恥。軽んじられた悔しさ。

 それらが今、泣き声ではなく言葉になって出ている。

「明日、わたくしは“壇上で婚約破棄された侯爵令嬢”として噂されるでしょう。泣いたか、怒ったか、王子に縋ったか、皆さま好きに語りますわね」

 貴族たちの何人かが気まずそうに視線を逸らした。

 図星だからだ。

 たぶん今この瞬間にも、明日の朝食で誰にどんな顔をして話すか考えている者がいる。

「ですが同時に、“王立劇場を私的断罪に使った第二王子”という噂も立ちますわ」

 セドリックの肩がぴくりと動く。

「それは……!」

「立たせたくないのでしたら、最初からなさらなければよろしかったのです」

 ばっさりだった。

 もう取り繕いようのない一言だった。

 ヨアヒム・ベルナールが、壇下から淡々と口を挟む。

「侯爵令嬢のおっしゃる通り、社会的信用の毀損は、金銭より面倒な形で残りますな」

 その補足が、また嫌に効いた。

 感情論ではない。監査局の人間に言われると、まるで報告書の一文のように聞こえる。

 セドリックは苛立ちを隠しきれず、ヨアヒムを睨む。

「貴様は黙っていろ!」

「事実確認に努めているだけです」

「今夜の件は王家が処理する!」

「でしたら、なおさら不用意に広げるべきではありませんでしたな」

 ああ、本当にこの人はいやらしいほど正確だ、とサビーネは内心で思った。

 激情でぶつけるのではない。相手がいちばん嫌がる位置に、理屈をきっちり置いてくる。

 セドリックが最も苦手とする種類の人間だ。

 そしてその事実が、少しだけ愉快だった。

「……殿下」

 サビーネは改めて呼びかける。

「今夜の件につきまして、わたくしは侯爵家として正式な説明を求めますわ」

「正式な説明、だと?」

「ええ。なぜこの場で婚約解消をなさったのか。なぜ第三者を壇上へ置いたのか。なぜ事前通告もなく、侯爵家の面目を傷つける方法を選んだのか」

 一つ一つ、言葉を重ねる。

「そして、その判断によって生じた不利益に、王家としてどう向き合われるのか」

 それはもう、恋人同士の痴話喧嘩ではなかった。

 侯爵家と王家の問題だ。

 個人の感情ではなく、家の体面と責任の話だ。

 セドリックはようやく、自分が今どこへ立っているのか理解し始めたのかもしれない。顔色が悪い。壇上に立つ王子ではなく、深夜に未処理の請求書を突きつけられた放蕩息子みたいな顔になっている。

「そ、そこまで大げさにする必要はないだろう……!」

「大げさにしたのは殿下ですわ」

 サビーネは即座に返した。

「婚約解消は、両家の間で静かに行うこともできました。けれど殿下は、あえて皆様の前でなさいました」

 会場を見渡す。

「おかげで、こんなに大勢の証人がございますもの」

 その一言で、観客たちがまたざわついた。

 証人。

 それは野次馬でいたつもりの人々を、一気に当事者の一部へ引き込む言葉だ。

 自分たちはただ見ていただけではない。今夜の出来事を見届けた証人なのだと、そう言われてしまえば、誰も気軽に“ただの噂”にはできない。

 さすがに何人かは顔を曇らせた。

 面白半分で集まっていたのに、急に責任の匂いがしてきたからだ。

 だがもう遅い。

「……サビーネ」

 セドリックの声音が変わった。

 怒鳴るのでもなく、断罪するのでもなく、どこか疲れたような響き。

「ここでこれ以上騒ぎを大きくして、得をする者がいると思うのか」

 その台詞に、サビーネはほんの少し目を細めた。

 来た。

 責めても押しても通じなくなると、今度は“穏便に済ませよう”という顔をする。自分が不利になった瞬間だけ賢明ぶるのは、この人の昔からの癖だ。

「殿下のおっしゃる“得”とは、何を指しておりますの?」

「お前にも傷がつくと言っている」

「もうついておりますわ」

 静かな返答だった。

「殿下ご自身が、おつけになったのですもの」

 セドリックが言葉を失う。

 その横でオディールが、泣きそうな顔で王子を見上げた。

「殿下……どうしましょう……」

 その一言に、サビーネは思わず思った。

 どうしましょう、ではありませんのよ。

 どうするつもりで、ここへ立っていたの。

 だが口にはしない。

 代わりに、少しだけ視線を逸らす。これ以上この娘を追えば、今度こそ“弱い者いじめ”に見える可能性がある。打つべき相手は彼女ではなく、最後まで責任を取らずに済ませようとしている男の方だ。

 その時、会場の後方から、慌ただしい足音が聞こえた。

 数人の王宮侍従が青ざめた顔で大広間へ入り、壇上の様子を見て立ち尽くす。その中の年長の一人が、どうにか平静を装いながらセドリックへ近寄った。

「殿下」

 低い声だが、周囲には聞こえる。

「こちらへ」

「今は取り込み中だ!」

「国王陛下がお呼びです」

 その瞬間、会場全体が息を呑んだ。

 国王。

 その名が出れば、さすがに空気が変わる。

 セドリックの顔が一気に強張った。

「……父上が?」

「はい。至急、と」

 当たり前だろう。

 これだけの騒ぎが起きれば、王宮に話が届かないはずがない。しかも慈善晩餐会だ。放っておくには見栄えが悪すぎる。

 サビーネは侍従のやり取りを眺めながら、胸の内で静かに整理した。

 ここまでだ。

 今夜、この場での勝負としては十分すぎる。

 これ以上ここで粘れば、逆に“やりすぎた女”の印象を与える恐れがある。引き際を誤れば、せっかく奪った主導権を自分で投げることになる。

 だから、次の一手は決まっていた。

「殿下」

 サビーネは侍従が口を挟む前に言った。

「お呼びでしたら、どうぞお向かいくださいませ」

 セドリックがぎろりと睨む。

「……お前に命じられる筋合いはない」

「命じてはおりませんわ」

 サビーネは丁寧に一礼した。

「ただ申し上げているのです。わたくしも侯爵家へ戻り、本件を父へ報告いたしますと」

 それは宣言だった。

 王家の中だけで揉み消される気はない、と。

 セドリックの顔がさらに険しくなる。

「待て。勝手なことを――」

「勝手なことは、もう十分見せていただきましたもの」

 その一言で、また場が揺れた。

 サビーネは彼を正面から見据えたまま続ける。

「今後のご説明は、どうぞ正式な形でお願いいたしますわ。わたくしも、侯爵家の娘として応じます」

 恋人として泣くのではない。

 婚約者として縋るのでもない。

 家の娘として立つ。

 その姿勢が、今夜のすべてを決定づけた。

 セドリックは何か言おうとして、けれど侍従の切迫した気配に阻まれた。ここでさらに壇上に留まれば、今度は国王の呼び出しを無視した王子という話になる。

 進むも地獄、退くも地獄。

 自分で作った舞台の上で、自分がいちばん逃げ場を失っている。

「……行くぞ、オディール」

 ようやく吐き出すように言うと、オディールは震えながら頷いた。

 だが壇を降りる直前、彼女はサビーネの方を見た。怯えと悔しさと、少しばかりの理解できなさが混じった目だった。

 たぶん、本当にわからないのだろう。

 どうして今夜、自分が守られる側ではなくなったのか。

 サビーネはその視線を受け止めたが、何も言わなかった。

 言っても仕方がない。

 この娘は、涙が通じるうちは世界が自分に優しいと思っている。けれど今夜、初めて知るのだ。涙より強いものがあると。

 責任だ。

 セドリックとオディール、それに侍従たちが慌ただしく大広間を去っていく。

 彼らの背を見送りながら、観客たちはまだ完全には動けずにいた。終演の拍手をするには気まずすぎるし、何事もなかった顔で晩餐へ戻るには空気が壊れすぎている。

 その沈黙の中、ヨアヒムが一歩前へ出た。

「侯爵令嬢」

 低い声だった。

 サビーネはそちらを見る。

「何か」

「お見事でした、と申し上げるのは職務外でしょうな」

 感情の薄い顔で言うくせに、言葉だけは少し皮肉めいている。

 サビーネは、今夜初めてほんのわずかに笑った。

「でしたら、何もおっしゃらない方が監督官らしいのではなくて?」

「そうかもしれません」

 ヨアヒムは淡々と答える。

「ですが一つだけ。今夜の件、記録に残る形で整理なさることをお勧めします」

「……記録」

「ええ。記憶は裏切りますが、記録は裏切りません」

 その言葉は、妙に胸へ落ちた。

 たしかにそうだ。

 今夜のことは、明日になれば誰もが自分に都合よく語り直す。王子は被害者ぶり、オディールは泣き、周囲は“自分は最初からおかしいと思っていた”という顔をするだろう。

 だからこそ、記録がいる。

 事実がいる。

「助言、感謝いたしますわ」

 サビーネが言うと、ヨアヒムはわずかに目礼した。

「助言ではなく、観察の結果です」

 そこまで言って、少し間を置く。

「今夜、あなたは泣き崩れる代わりに立ちました。でしたら、最後まで立ち切るべきでしょう」

 その言葉に、サビーネは一瞬返事ができなかった。

 優しさではない。

 慰めでもない。

 けれど不思議と、それが今は何よりありがたかった。

 マルゴが、ようやく彼女の背後へ近づいてきた。

「お嬢様」

「ええ」

「もう倒れてもよろしいですか」

 あまりにも真顔で言うものだから、サビーネは目を瞬かせた。

「……私が?」

「はい。できれば馬車の中に入ってからお願いします。ここで倒れると、また妙な演出になりますので」

 その一言で、張り詰めていたものが少しだけ緩む。

 サビーネは、こみ上げそうになる笑いをなんとかこらえた。

「そうね。それは避けたいわ」

「では帰りましょう。旦那様のお怒りはあとで考えることにして、まず温かいお茶です」

「順番が逆ではなくて?」

「怒られる前に温まっておいた方が得です」

 まるで戦場からの撤収みたいな会話だ、とサビーネは思った。

 でもたぶん、間違っていない。

 今夜は確かに戦場だった。

 そして彼女は、生きて立っている。

 サビーネは最後にもう一度だけ、大広間を見渡した。

 花々は変わらず飾られ、食卓には豪奢な料理が並び、楽団員たちは困惑したまま楽器を抱えている。見た目だけなら、まだ晩餐会の形を残している。

 けれど中身はもう違う。

 この夜は、元には戻らない。

 明日から、すべてが動き出す。

 侯爵家も、王家も、社交界も、たぶん彼女自身も。

 それでもサビーネは、まっすぐに歩き出した。

 見世物の代金は、これから支払ってもらう。

 今夜は、その請求書を突きつけたにすぎないのだから。
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