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第五話 監督官の来訪
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第五話 監督官の来訪
ドルレアン侯爵家の屋敷は、朝から静かすぎた。
いつもなら、使用人たちの足音や指示の声が廊下のどこかで響いている。食堂の支度、来客への応対、庭師の出入り、侍女たちの衣擦れ。大きな屋敷とは、意外なほど生活音で満ちているものだ。
けれど今朝は違った。
音はある。だがみな、妙に低く、慎重だった。
昨夜の出来事が、すでに屋敷中へ広がっているのだろう。
王立劇場の壇上で、第二王子セドリックに婚約破棄されたこと。しかもその場でサビーネが退かず、真正面から言い返したこと。そして王子が国王に呼び出される形で退場したこと。
人の口に戸は立てられない。
まして相手が王族なら、噂は羽でも生えたように飛ぶ。
サビーネは朝の紅茶に口をつけながら、窓の外を見ていた。庭の薔薇は変わらずきちんと手入れされていて、薄曇りの空の下でも美しい。
世界は、驚くほど平然としている。
昨夜、自分の人生が大きく傾いた気がしたのに、空も庭も何も知らない顔をしていた。
「お嬢様」
静かに声をかけたのは、もちろんマルゴだった。
「旦那様がお呼びです」
「ええ」
「大変お怒りです」
「それもそうでしょうね」
「ですが、半分ほどはお嬢様にではありません」
サビーネはそこでようやくマルゴを見た。
「半分?」
「もう半分は王家と、残り半分は劇場にございます」
「それでは一人で一つ半も怒っていることになるわよ」
「昨夜のお話をうかがう限り、旦那様には十分可能かと」
たしかに、と思った。
父――ドルレアン侯爵アルフォンスは、普段は寡黙で無駄話を好まないが、家の体面を傷つけられた時は怖い。声を荒らげる方ではない。むしろ静かなまま怒る。だから余計に怖い。
ただ、昨夜の件に限っていえば、娘個人への怒りだけでは済まないはずだった。
侯爵家そのものが、公の場で軽んじられたのだから。
サビーネはカップを置いた。
「行きましょう」
「覚悟は」
「決める時間は馬車の中で使い切ったわ」
「それは何よりです」
マルゴは一礼し、先に扉を開けた。
父の書斎は二階の東側にある。重たい扉の前に立った時、サビーネは一度だけ深く息を吸った。
泣くな。
縮こまるな。
もう壇上は終わった。ここからは侯爵家の娘として立つ時間だ。
「サビーネです」
「入れ」
短い声が返る。
扉を開けると、書斎にはすでに父が座っていた。大きな机の向こう、濃紺の上着をきっちり着込んだまま、書類の束を前にしている。夜のうちに報告がいくつも上がったのだろう。
いつもよりさらに顔色が硬い。
窓際には家令も控えていたが、マルゴは中へ入らず扉の外に残った。
父と娘だけで話すべきだという判断だろう。ありがたいような、逃げ道がなくなるような。
「座れ」
「はい」
勧められた椅子に腰を下ろす。
父はしばらく何も言わず、サビーネを見ていた。値踏みでも、問い詰めでもない。ただ確かめるような視線だった。
「……体調はどうだ」
最初の言葉がそれだったので、サビーネは少しだけ目を見開いた。
「大丈夫です」
「大丈夫、か」
父は低く繰り返す。
「王立劇場の壇上で婚約破棄された娘の第一声としては、あまり信用できんな」
皮肉のようでいて、声音は平坦だった。
サビーネは少しだけ視線を下げた。
「申し訳ございません」
「その謝罪は不要だ」
きっぱりと言われ、顔を上げる。
父は机の上で手を組んだ。
「まず確認する。昨夜の婚約破棄は事前の相談も予告もなく、完全にあちらの独断だったな」
「はい」
「お前は知らされていなかった」
「まったく」
「メルヴィ嬢を壇上へ上げる件も」
「存じませんでした」
「……そうか」
父はそこで一度、深く息を吐いた。
怒っている時ほど、この人は静かだ。
「ならば、侯爵家としての立場は明確だ」
その一言で、サビーネの背筋が伸びる。
「お前個人の問題ではない。家への侮辱だ」
はっきりとした言葉だった。
その瞬間、昨夜から胸の奥で張りつめていたものが、少しだけ緩んだ気がした。
父は怒っている。もちろんだ。だが少なくとも、“なぜ黙って恥をかかなかった”“なぜ反論した”と責めるつもりではないらしい。
「昨夜、わたくしは……」
サビーネが口を開くと、父は手で制した。
「先に私が言う。よく立った」
思いがけない言葉だった。
サビーネは一瞬、何も言えなくなる。
「本来であれば、あの場でお前にそんなことをさせるべきではなかった。だが現実に、お前は一人で壇上へ上がり、一人で切り返した」
父の視線は厳しいままだったが、その奥にわずかな熱があった。
「侯爵家の娘として、見苦しく取り乱さなかったことは評価する」
「……ありがとうございます」
「だが」
すぐに続く。
「お前は今後、感情ではなく記録で戦え。昨夜の場はそれでよかった。今日から先は違う」
「はい」
「何をどこまで持っている」
その問いは明確だった。
サビーネは姿勢を正す。
「謝罪状の代筆控えが数通。贈答品の選定依頼書きが数件。殿下付き侍従からの口頭伝言を私が書き留めた覚え書き。あとは、席次変更や訪問先への説明調整を頼まれた際のメモがございます」
「原本か、写しか」
「混在しております。原本も一部ございます」
父の目が鋭くなる。
「誰が保管している」
「わたくしです」
「よろしい。今日中にすべて整理しろ。日付順に並べ、出どころの明らかなものと、補助資料にしかならんものを分けろ」
「承知しました」
「そして今後、お前は単独で王家と接触するな。呼び出しが来ても必ず家を通せ」
「……はい」
そこだけ、わずかに返事が重くなった。
たぶん父にはわかったのだろう。
「何だ」
「いえ……昨夜のうちに、殿下からではなくとも、どなたかが直接接触してくるかと思っておりましたので」
「来なかったのか」
「はい」
父は鼻で笑った。
「来るにしても、もう少し整えてからだろう。王家も、まさかお前が壇上で黙らないとは思っていなかったはずだ」
それはたぶん本当だ。
サビーネが泣いて退場し、あとは王家が上から“適切に処理”すれば済む話だと思っていたに違いない。ところが蓋を開けてみれば、会場中の前で王子の失態が露わになった。
想定外にもほどがある。
「それから」
父は机の端に置かれた一枚の紙を指先で叩いた。
「今朝、監査局から照会が入った」
サビーネの眉がわずかに動く。
「監査局……ですか」
「王立劇場での寄付金管理確認の件に付随して、昨夜の騒動に関する事実関係を把握したいそうだ」
ヨアヒム・ベルナール。
昨夜の、あの地味で目立たないくせに、場のど真ん中を一番冷静に見ていた男の顔が脳裏に浮かぶ。
父はその反応を見逃さなかった。
「心当たりがある顔だな」
「昨夜、会場にいらっしゃいました。監査局特別監督官だと名乗って……」
「ベルナールだろう」
名前まで把握しているあたり、さすがに父は早い。
「はい」
「来るそうだ」
「……ここへ?」
「本日中に」
サビーネはほんの少しだけ呼吸を整えた。
来訪。
昨夜のあの場で口を挟んだだけでも、十分異質だった。それが翌朝には侯爵家へ来るという。事務的な照会だとわかっていても、妙な緊張が走る。
「お前も同席しろ」
「承知しました」
「曖昧に話すな。わからんことはわからんと言え。推測で埋める必要はない」
父の言葉は淡々としていたが、つまりそれだけ監査局を信用している、あるいは軽視していないということだ。
都合のいい噂話ではなく、事実として積み上げる相手。
そういう者は、味方にできれば強い。
「サビーネ」
父が改めて名を呼ぶ。
「はい」
「お前は昨夜、王子と戦ったつもりかもしれんが、今日から相手はもっと大きい」
「……王家、でしょうか」
「それもある。だが一番厄介なのは社交界だ」
たしかに、と思った。
「王家は立場で動く。対処も読みやすい。だが社交界は違う。面白い方へ流れ、都合のいい話を膨らませる。昨日お前に同情していた者が、今日には“最初から険しい娘だった”と語ることもある」
「はい」
「だからこそ、先に事実を持て」
父の声は低く、重かった。
「印象ではなく、記録だ」
昨夜ヨアヒムに言われたのと、ほとんど同じだった。
記憶は裏切るが、記録は裏切らない。
どうやらそのあたりは、実務の世界では共通の真理らしい。
「わかりました」
サビーネがうなずくと、父は初めて少しだけ表情を緩めた。
「よろしい。ひとまず下がれ。昼までに資料をまとめろ」
「失礼いたします」
立ち上がり、一礼する。
扉へ向かいかけた時、父がもう一度だけ言った。
「昨夜の件で、お前が恥じる必要はない」
サビーネは足を止めた。
「恥じるべきは、娘を舞台に上げて見世物にした側だ」
振り返らずに答えるには、その言葉は少し重すぎた。
「……はい」
それだけ言って、サビーネは書斎を出た。
扉の外にはマルゴが待っていた。表情を見ただけで、大体の結果を察したらしい。
「首はつながっておりますか」
「ええ、たぶん」
「何よりです」
「たぶん、私より王家に怒っているわ」
「でしょうね」
まるで当然のように言われて、サビーネは少しだけ肩の力を抜いた。
二人で廊下を歩きながら、彼女は書斎での話を簡潔に伝える。マルゴは黙って聞き、監査局が来ると知ると片眉を上げた。
「まあ」
「まあ、って何」
「昨夜のあの方、やはりその場限りではなかったのだなと」
「その場限りではない、とは」
「面倒事の匂いを嗅ぎつけて去らない方、という意味です」
「褒めているのかしら」
「仕事熱心ではあります」
褒めてはいないようだった。
サビーネは自室へ戻ると、すぐに机の引き出しを開けた。
そこには、几帳面にまとめていた手紙や控え、紐で束ねた覚え書きがいくつも収められている。これまで何度捨てようと思ったかわからない。婚約者の尻拭いの記録など、持っていて気分のいいものではなかったからだ。
だが捨てなくてよかった。
今は心底そう思う。
「これと、これと……ああ、これも」
サビーネは一つずつ机へ並べる。
謝罪状の下書き。訪問順の調整メモ。贈答品の候補一覧。その横に、侍従から渡された走り書きの紙片。短い文面ばかりだが、どれも“彼女が後始末役だった”ことを示している。
マルゴがそれを見て、鼻を鳴らした。
「殿下の筆跡は本当に雑ですね」
「そこなの?」
「大切です。字が乱れる方は、だいたい生活も乱れております」
「監査局の人みたいなことを言うのね」
「嫌ですわ、お嬢様」
マルゴは真顔で返す。
「監査局の方なら、もっと嫌味ったらしくおっしゃいます」
ちょっとわかる、と思ってしまった自分が悔しい。
二人で昼前まで資料を整理していると、侍女がやってきて来客を告げた。
「お嬢様、監査局特別監督官ヨアヒム・ベルナール様がお見えです」
やはり来た。
わかっていたのに、胸の鼓動が一つ大きくなる。
「応接室へ?」
「はい。旦那様もご同席とのことです」
「わかりました」
サビーネは立ち上がり、無意識にスカートの皺を整えた。
別に着飾る相手ではない。むしろそういうことに一番興味がなさそうな男だ。なのに、なぜか“きちんとしていなければ”という気持ちになる。
たぶん昨夜、自分の一番みっともない場面を見られたからだろう。
いや、違う。
みっともない場面ではなく、立った場面だ。
そう言われたばかりだった。
応接室の前で、サビーネは小さく息を整える。
「お嬢様」
マルゴが小声で言った。
「何」
「昨夜のお礼は言っても構いませんが、借りを作るような言い方はなさらない方がよろしいかと」
「……あなた、そういうところだけ妙に鋭いわね」
「仕事ですので」
どこまでが本当に仕事なのかわからないが、助言としてはもっともだった。
扉が開かれる。
応接室の中には、父と、そしてヨアヒム・ベルナールがすでにいた。
昨夜と同じく、華やかさの欠片もない男だった。濃い灰色の上着、無駄のない姿勢、飾り気のない黒髪。社交界の男たちが競うように身につける金銀の飾りもない。
だが、その代わりに目だけが妙に鋭い。
観察する目だ。
人を品定めするのではなく、事実を拾う目。
ヨアヒムはサビーネが入ると立ち上がり、きちんと一礼した。
「侯爵令嬢」
「ベルナール監督官」
礼を返しながら、サビーネは一瞬だけ思った。
この人の前では、下手な芝居は通じない。
それは怖くもあり、少しだけ気が楽でもあった。
父が短く言う。
「座れ。話を始める」
サビーネはうなずき、持参した資料の束を膝の上に置いて席についた。
ここから先は、昨夜の続きではない。
泣くか、言い返すかの戦いでもない。
記録と事実で、見世物の代金を数え始める時間だった。
ドルレアン侯爵家の屋敷は、朝から静かすぎた。
いつもなら、使用人たちの足音や指示の声が廊下のどこかで響いている。食堂の支度、来客への応対、庭師の出入り、侍女たちの衣擦れ。大きな屋敷とは、意外なほど生活音で満ちているものだ。
けれど今朝は違った。
音はある。だがみな、妙に低く、慎重だった。
昨夜の出来事が、すでに屋敷中へ広がっているのだろう。
王立劇場の壇上で、第二王子セドリックに婚約破棄されたこと。しかもその場でサビーネが退かず、真正面から言い返したこと。そして王子が国王に呼び出される形で退場したこと。
人の口に戸は立てられない。
まして相手が王族なら、噂は羽でも生えたように飛ぶ。
サビーネは朝の紅茶に口をつけながら、窓の外を見ていた。庭の薔薇は変わらずきちんと手入れされていて、薄曇りの空の下でも美しい。
世界は、驚くほど平然としている。
昨夜、自分の人生が大きく傾いた気がしたのに、空も庭も何も知らない顔をしていた。
「お嬢様」
静かに声をかけたのは、もちろんマルゴだった。
「旦那様がお呼びです」
「ええ」
「大変お怒りです」
「それもそうでしょうね」
「ですが、半分ほどはお嬢様にではありません」
サビーネはそこでようやくマルゴを見た。
「半分?」
「もう半分は王家と、残り半分は劇場にございます」
「それでは一人で一つ半も怒っていることになるわよ」
「昨夜のお話をうかがう限り、旦那様には十分可能かと」
たしかに、と思った。
父――ドルレアン侯爵アルフォンスは、普段は寡黙で無駄話を好まないが、家の体面を傷つけられた時は怖い。声を荒らげる方ではない。むしろ静かなまま怒る。だから余計に怖い。
ただ、昨夜の件に限っていえば、娘個人への怒りだけでは済まないはずだった。
侯爵家そのものが、公の場で軽んじられたのだから。
サビーネはカップを置いた。
「行きましょう」
「覚悟は」
「決める時間は馬車の中で使い切ったわ」
「それは何よりです」
マルゴは一礼し、先に扉を開けた。
父の書斎は二階の東側にある。重たい扉の前に立った時、サビーネは一度だけ深く息を吸った。
泣くな。
縮こまるな。
もう壇上は終わった。ここからは侯爵家の娘として立つ時間だ。
「サビーネです」
「入れ」
短い声が返る。
扉を開けると、書斎にはすでに父が座っていた。大きな机の向こう、濃紺の上着をきっちり着込んだまま、書類の束を前にしている。夜のうちに報告がいくつも上がったのだろう。
いつもよりさらに顔色が硬い。
窓際には家令も控えていたが、マルゴは中へ入らず扉の外に残った。
父と娘だけで話すべきだという判断だろう。ありがたいような、逃げ道がなくなるような。
「座れ」
「はい」
勧められた椅子に腰を下ろす。
父はしばらく何も言わず、サビーネを見ていた。値踏みでも、問い詰めでもない。ただ確かめるような視線だった。
「……体調はどうだ」
最初の言葉がそれだったので、サビーネは少しだけ目を見開いた。
「大丈夫です」
「大丈夫、か」
父は低く繰り返す。
「王立劇場の壇上で婚約破棄された娘の第一声としては、あまり信用できんな」
皮肉のようでいて、声音は平坦だった。
サビーネは少しだけ視線を下げた。
「申し訳ございません」
「その謝罪は不要だ」
きっぱりと言われ、顔を上げる。
父は机の上で手を組んだ。
「まず確認する。昨夜の婚約破棄は事前の相談も予告もなく、完全にあちらの独断だったな」
「はい」
「お前は知らされていなかった」
「まったく」
「メルヴィ嬢を壇上へ上げる件も」
「存じませんでした」
「……そうか」
父はそこで一度、深く息を吐いた。
怒っている時ほど、この人は静かだ。
「ならば、侯爵家としての立場は明確だ」
その一言で、サビーネの背筋が伸びる。
「お前個人の問題ではない。家への侮辱だ」
はっきりとした言葉だった。
その瞬間、昨夜から胸の奥で張りつめていたものが、少しだけ緩んだ気がした。
父は怒っている。もちろんだ。だが少なくとも、“なぜ黙って恥をかかなかった”“なぜ反論した”と責めるつもりではないらしい。
「昨夜、わたくしは……」
サビーネが口を開くと、父は手で制した。
「先に私が言う。よく立った」
思いがけない言葉だった。
サビーネは一瞬、何も言えなくなる。
「本来であれば、あの場でお前にそんなことをさせるべきではなかった。だが現実に、お前は一人で壇上へ上がり、一人で切り返した」
父の視線は厳しいままだったが、その奥にわずかな熱があった。
「侯爵家の娘として、見苦しく取り乱さなかったことは評価する」
「……ありがとうございます」
「だが」
すぐに続く。
「お前は今後、感情ではなく記録で戦え。昨夜の場はそれでよかった。今日から先は違う」
「はい」
「何をどこまで持っている」
その問いは明確だった。
サビーネは姿勢を正す。
「謝罪状の代筆控えが数通。贈答品の選定依頼書きが数件。殿下付き侍従からの口頭伝言を私が書き留めた覚え書き。あとは、席次変更や訪問先への説明調整を頼まれた際のメモがございます」
「原本か、写しか」
「混在しております。原本も一部ございます」
父の目が鋭くなる。
「誰が保管している」
「わたくしです」
「よろしい。今日中にすべて整理しろ。日付順に並べ、出どころの明らかなものと、補助資料にしかならんものを分けろ」
「承知しました」
「そして今後、お前は単独で王家と接触するな。呼び出しが来ても必ず家を通せ」
「……はい」
そこだけ、わずかに返事が重くなった。
たぶん父にはわかったのだろう。
「何だ」
「いえ……昨夜のうちに、殿下からではなくとも、どなたかが直接接触してくるかと思っておりましたので」
「来なかったのか」
「はい」
父は鼻で笑った。
「来るにしても、もう少し整えてからだろう。王家も、まさかお前が壇上で黙らないとは思っていなかったはずだ」
それはたぶん本当だ。
サビーネが泣いて退場し、あとは王家が上から“適切に処理”すれば済む話だと思っていたに違いない。ところが蓋を開けてみれば、会場中の前で王子の失態が露わになった。
想定外にもほどがある。
「それから」
父は机の端に置かれた一枚の紙を指先で叩いた。
「今朝、監査局から照会が入った」
サビーネの眉がわずかに動く。
「監査局……ですか」
「王立劇場での寄付金管理確認の件に付随して、昨夜の騒動に関する事実関係を把握したいそうだ」
ヨアヒム・ベルナール。
昨夜の、あの地味で目立たないくせに、場のど真ん中を一番冷静に見ていた男の顔が脳裏に浮かぶ。
父はその反応を見逃さなかった。
「心当たりがある顔だな」
「昨夜、会場にいらっしゃいました。監査局特別監督官だと名乗って……」
「ベルナールだろう」
名前まで把握しているあたり、さすがに父は早い。
「はい」
「来るそうだ」
「……ここへ?」
「本日中に」
サビーネはほんの少しだけ呼吸を整えた。
来訪。
昨夜のあの場で口を挟んだだけでも、十分異質だった。それが翌朝には侯爵家へ来るという。事務的な照会だとわかっていても、妙な緊張が走る。
「お前も同席しろ」
「承知しました」
「曖昧に話すな。わからんことはわからんと言え。推測で埋める必要はない」
父の言葉は淡々としていたが、つまりそれだけ監査局を信用している、あるいは軽視していないということだ。
都合のいい噂話ではなく、事実として積み上げる相手。
そういう者は、味方にできれば強い。
「サビーネ」
父が改めて名を呼ぶ。
「はい」
「お前は昨夜、王子と戦ったつもりかもしれんが、今日から相手はもっと大きい」
「……王家、でしょうか」
「それもある。だが一番厄介なのは社交界だ」
たしかに、と思った。
「王家は立場で動く。対処も読みやすい。だが社交界は違う。面白い方へ流れ、都合のいい話を膨らませる。昨日お前に同情していた者が、今日には“最初から険しい娘だった”と語ることもある」
「はい」
「だからこそ、先に事実を持て」
父の声は低く、重かった。
「印象ではなく、記録だ」
昨夜ヨアヒムに言われたのと、ほとんど同じだった。
記憶は裏切るが、記録は裏切らない。
どうやらそのあたりは、実務の世界では共通の真理らしい。
「わかりました」
サビーネがうなずくと、父は初めて少しだけ表情を緩めた。
「よろしい。ひとまず下がれ。昼までに資料をまとめろ」
「失礼いたします」
立ち上がり、一礼する。
扉へ向かいかけた時、父がもう一度だけ言った。
「昨夜の件で、お前が恥じる必要はない」
サビーネは足を止めた。
「恥じるべきは、娘を舞台に上げて見世物にした側だ」
振り返らずに答えるには、その言葉は少し重すぎた。
「……はい」
それだけ言って、サビーネは書斎を出た。
扉の外にはマルゴが待っていた。表情を見ただけで、大体の結果を察したらしい。
「首はつながっておりますか」
「ええ、たぶん」
「何よりです」
「たぶん、私より王家に怒っているわ」
「でしょうね」
まるで当然のように言われて、サビーネは少しだけ肩の力を抜いた。
二人で廊下を歩きながら、彼女は書斎での話を簡潔に伝える。マルゴは黙って聞き、監査局が来ると知ると片眉を上げた。
「まあ」
「まあ、って何」
「昨夜のあの方、やはりその場限りではなかったのだなと」
「その場限りではない、とは」
「面倒事の匂いを嗅ぎつけて去らない方、という意味です」
「褒めているのかしら」
「仕事熱心ではあります」
褒めてはいないようだった。
サビーネは自室へ戻ると、すぐに机の引き出しを開けた。
そこには、几帳面にまとめていた手紙や控え、紐で束ねた覚え書きがいくつも収められている。これまで何度捨てようと思ったかわからない。婚約者の尻拭いの記録など、持っていて気分のいいものではなかったからだ。
だが捨てなくてよかった。
今は心底そう思う。
「これと、これと……ああ、これも」
サビーネは一つずつ机へ並べる。
謝罪状の下書き。訪問順の調整メモ。贈答品の候補一覧。その横に、侍従から渡された走り書きの紙片。短い文面ばかりだが、どれも“彼女が後始末役だった”ことを示している。
マルゴがそれを見て、鼻を鳴らした。
「殿下の筆跡は本当に雑ですね」
「そこなの?」
「大切です。字が乱れる方は、だいたい生活も乱れております」
「監査局の人みたいなことを言うのね」
「嫌ですわ、お嬢様」
マルゴは真顔で返す。
「監査局の方なら、もっと嫌味ったらしくおっしゃいます」
ちょっとわかる、と思ってしまった自分が悔しい。
二人で昼前まで資料を整理していると、侍女がやってきて来客を告げた。
「お嬢様、監査局特別監督官ヨアヒム・ベルナール様がお見えです」
やはり来た。
わかっていたのに、胸の鼓動が一つ大きくなる。
「応接室へ?」
「はい。旦那様もご同席とのことです」
「わかりました」
サビーネは立ち上がり、無意識にスカートの皺を整えた。
別に着飾る相手ではない。むしろそういうことに一番興味がなさそうな男だ。なのに、なぜか“きちんとしていなければ”という気持ちになる。
たぶん昨夜、自分の一番みっともない場面を見られたからだろう。
いや、違う。
みっともない場面ではなく、立った場面だ。
そう言われたばかりだった。
応接室の前で、サビーネは小さく息を整える。
「お嬢様」
マルゴが小声で言った。
「何」
「昨夜のお礼は言っても構いませんが、借りを作るような言い方はなさらない方がよろしいかと」
「……あなた、そういうところだけ妙に鋭いわね」
「仕事ですので」
どこまでが本当に仕事なのかわからないが、助言としてはもっともだった。
扉が開かれる。
応接室の中には、父と、そしてヨアヒム・ベルナールがすでにいた。
昨夜と同じく、華やかさの欠片もない男だった。濃い灰色の上着、無駄のない姿勢、飾り気のない黒髪。社交界の男たちが競うように身につける金銀の飾りもない。
だが、その代わりに目だけが妙に鋭い。
観察する目だ。
人を品定めするのではなく、事実を拾う目。
ヨアヒムはサビーネが入ると立ち上がり、きちんと一礼した。
「侯爵令嬢」
「ベルナール監督官」
礼を返しながら、サビーネは一瞬だけ思った。
この人の前では、下手な芝居は通じない。
それは怖くもあり、少しだけ気が楽でもあった。
父が短く言う。
「座れ。話を始める」
サビーネはうなずき、持参した資料の束を膝の上に置いて席についた。
ここから先は、昨夜の続きではない。
泣くか、言い返すかの戦いでもない。
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※わんこが繋ぐ恋物語です
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