『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第五話 監督官の来訪

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第五話 監督官の来訪

 ドルレアン侯爵家の屋敷は、朝から静かすぎた。

 いつもなら、使用人たちの足音や指示の声が廊下のどこかで響いている。食堂の支度、来客への応対、庭師の出入り、侍女たちの衣擦れ。大きな屋敷とは、意外なほど生活音で満ちているものだ。

 けれど今朝は違った。

 音はある。だがみな、妙に低く、慎重だった。

 昨夜の出来事が、すでに屋敷中へ広がっているのだろう。

 王立劇場の壇上で、第二王子セドリックに婚約破棄されたこと。しかもその場でサビーネが退かず、真正面から言い返したこと。そして王子が国王に呼び出される形で退場したこと。

 人の口に戸は立てられない。

 まして相手が王族なら、噂は羽でも生えたように飛ぶ。

 サビーネは朝の紅茶に口をつけながら、窓の外を見ていた。庭の薔薇は変わらずきちんと手入れされていて、薄曇りの空の下でも美しい。

 世界は、驚くほど平然としている。

 昨夜、自分の人生が大きく傾いた気がしたのに、空も庭も何も知らない顔をしていた。

「お嬢様」

 静かに声をかけたのは、もちろんマルゴだった。

「旦那様がお呼びです」

「ええ」

「大変お怒りです」

「それもそうでしょうね」

「ですが、半分ほどはお嬢様にではありません」

 サビーネはそこでようやくマルゴを見た。

「半分?」

「もう半分は王家と、残り半分は劇場にございます」

「それでは一人で一つ半も怒っていることになるわよ」

「昨夜のお話をうかがう限り、旦那様には十分可能かと」

 たしかに、と思った。

 父――ドルレアン侯爵アルフォンスは、普段は寡黙で無駄話を好まないが、家の体面を傷つけられた時は怖い。声を荒らげる方ではない。むしろ静かなまま怒る。だから余計に怖い。

 ただ、昨夜の件に限っていえば、娘個人への怒りだけでは済まないはずだった。

 侯爵家そのものが、公の場で軽んじられたのだから。

 サビーネはカップを置いた。

「行きましょう」

「覚悟は」

「決める時間は馬車の中で使い切ったわ」

「それは何よりです」

 マルゴは一礼し、先に扉を開けた。

 父の書斎は二階の東側にある。重たい扉の前に立った時、サビーネは一度だけ深く息を吸った。

 泣くな。

 縮こまるな。

 もう壇上は終わった。ここからは侯爵家の娘として立つ時間だ。

「サビーネです」

「入れ」

 短い声が返る。

 扉を開けると、書斎にはすでに父が座っていた。大きな机の向こう、濃紺の上着をきっちり着込んだまま、書類の束を前にしている。夜のうちに報告がいくつも上がったのだろう。

 いつもよりさらに顔色が硬い。

 窓際には家令も控えていたが、マルゴは中へ入らず扉の外に残った。

 父と娘だけで話すべきだという判断だろう。ありがたいような、逃げ道がなくなるような。

「座れ」

「はい」

 勧められた椅子に腰を下ろす。

 父はしばらく何も言わず、サビーネを見ていた。値踏みでも、問い詰めでもない。ただ確かめるような視線だった。

「……体調はどうだ」

 最初の言葉がそれだったので、サビーネは少しだけ目を見開いた。

「大丈夫です」

「大丈夫、か」

 父は低く繰り返す。

「王立劇場の壇上で婚約破棄された娘の第一声としては、あまり信用できんな」

 皮肉のようでいて、声音は平坦だった。

 サビーネは少しだけ視線を下げた。

「申し訳ございません」

「その謝罪は不要だ」

 きっぱりと言われ、顔を上げる。

 父は机の上で手を組んだ。

「まず確認する。昨夜の婚約破棄は事前の相談も予告もなく、完全にあちらの独断だったな」

「はい」

「お前は知らされていなかった」

「まったく」

「メルヴィ嬢を壇上へ上げる件も」

「存じませんでした」

「……そうか」

 父はそこで一度、深く息を吐いた。

 怒っている時ほど、この人は静かだ。

「ならば、侯爵家としての立場は明確だ」

 その一言で、サビーネの背筋が伸びる。

「お前個人の問題ではない。家への侮辱だ」

 はっきりとした言葉だった。

 その瞬間、昨夜から胸の奥で張りつめていたものが、少しだけ緩んだ気がした。

 父は怒っている。もちろんだ。だが少なくとも、“なぜ黙って恥をかかなかった”“なぜ反論した”と責めるつもりではないらしい。

「昨夜、わたくしは……」

 サビーネが口を開くと、父は手で制した。

「先に私が言う。よく立った」

 思いがけない言葉だった。

 サビーネは一瞬、何も言えなくなる。

「本来であれば、あの場でお前にそんなことをさせるべきではなかった。だが現実に、お前は一人で壇上へ上がり、一人で切り返した」

 父の視線は厳しいままだったが、その奥にわずかな熱があった。

「侯爵家の娘として、見苦しく取り乱さなかったことは評価する」

「……ありがとうございます」

「だが」

 すぐに続く。

「お前は今後、感情ではなく記録で戦え。昨夜の場はそれでよかった。今日から先は違う」

「はい」

「何をどこまで持っている」

 その問いは明確だった。

 サビーネは姿勢を正す。

「謝罪状の代筆控えが数通。贈答品の選定依頼書きが数件。殿下付き侍従からの口頭伝言を私が書き留めた覚え書き。あとは、席次変更や訪問先への説明調整を頼まれた際のメモがございます」

「原本か、写しか」

「混在しております。原本も一部ございます」

 父の目が鋭くなる。

「誰が保管している」

「わたくしです」

「よろしい。今日中にすべて整理しろ。日付順に並べ、出どころの明らかなものと、補助資料にしかならんものを分けろ」

「承知しました」

「そして今後、お前は単独で王家と接触するな。呼び出しが来ても必ず家を通せ」

「……はい」

 そこだけ、わずかに返事が重くなった。

 たぶん父にはわかったのだろう。

「何だ」

「いえ……昨夜のうちに、殿下からではなくとも、どなたかが直接接触してくるかと思っておりましたので」

「来なかったのか」

「はい」

 父は鼻で笑った。

「来るにしても、もう少し整えてからだろう。王家も、まさかお前が壇上で黙らないとは思っていなかったはずだ」

 それはたぶん本当だ。

 サビーネが泣いて退場し、あとは王家が上から“適切に処理”すれば済む話だと思っていたに違いない。ところが蓋を開けてみれば、会場中の前で王子の失態が露わになった。

 想定外にもほどがある。

「それから」

 父は机の端に置かれた一枚の紙を指先で叩いた。

「今朝、監査局から照会が入った」

 サビーネの眉がわずかに動く。

「監査局……ですか」

「王立劇場での寄付金管理確認の件に付随して、昨夜の騒動に関する事実関係を把握したいそうだ」

 ヨアヒム・ベルナール。

 昨夜の、あの地味で目立たないくせに、場のど真ん中を一番冷静に見ていた男の顔が脳裏に浮かぶ。

 父はその反応を見逃さなかった。

「心当たりがある顔だな」

「昨夜、会場にいらっしゃいました。監査局特別監督官だと名乗って……」

「ベルナールだろう」

 名前まで把握しているあたり、さすがに父は早い。

「はい」

「来るそうだ」

「……ここへ?」

「本日中に」

 サビーネはほんの少しだけ呼吸を整えた。

 来訪。

 昨夜のあの場で口を挟んだだけでも、十分異質だった。それが翌朝には侯爵家へ来るという。事務的な照会だとわかっていても、妙な緊張が走る。

「お前も同席しろ」

「承知しました」

「曖昧に話すな。わからんことはわからんと言え。推測で埋める必要はない」

 父の言葉は淡々としていたが、つまりそれだけ監査局を信用している、あるいは軽視していないということだ。

 都合のいい噂話ではなく、事実として積み上げる相手。

 そういう者は、味方にできれば強い。

「サビーネ」

 父が改めて名を呼ぶ。

「はい」

「お前は昨夜、王子と戦ったつもりかもしれんが、今日から相手はもっと大きい」

「……王家、でしょうか」

「それもある。だが一番厄介なのは社交界だ」

 たしかに、と思った。

「王家は立場で動く。対処も読みやすい。だが社交界は違う。面白い方へ流れ、都合のいい話を膨らませる。昨日お前に同情していた者が、今日には“最初から険しい娘だった”と語ることもある」

「はい」

「だからこそ、先に事実を持て」

 父の声は低く、重かった。

「印象ではなく、記録だ」

 昨夜ヨアヒムに言われたのと、ほとんど同じだった。

 記憶は裏切るが、記録は裏切らない。

 どうやらそのあたりは、実務の世界では共通の真理らしい。

「わかりました」

 サビーネがうなずくと、父は初めて少しだけ表情を緩めた。

「よろしい。ひとまず下がれ。昼までに資料をまとめろ」

「失礼いたします」

 立ち上がり、一礼する。

 扉へ向かいかけた時、父がもう一度だけ言った。

「昨夜の件で、お前が恥じる必要はない」

 サビーネは足を止めた。

「恥じるべきは、娘を舞台に上げて見世物にした側だ」

 振り返らずに答えるには、その言葉は少し重すぎた。

「……はい」

 それだけ言って、サビーネは書斎を出た。

 扉の外にはマルゴが待っていた。表情を見ただけで、大体の結果を察したらしい。

「首はつながっておりますか」

「ええ、たぶん」

「何よりです」

「たぶん、私より王家に怒っているわ」

「でしょうね」

 まるで当然のように言われて、サビーネは少しだけ肩の力を抜いた。

 二人で廊下を歩きながら、彼女は書斎での話を簡潔に伝える。マルゴは黙って聞き、監査局が来ると知ると片眉を上げた。

「まあ」

「まあ、って何」

「昨夜のあの方、やはりその場限りではなかったのだなと」

「その場限りではない、とは」

「面倒事の匂いを嗅ぎつけて去らない方、という意味です」

「褒めているのかしら」

「仕事熱心ではあります」

 褒めてはいないようだった。

 サビーネは自室へ戻ると、すぐに机の引き出しを開けた。

 そこには、几帳面にまとめていた手紙や控え、紐で束ねた覚え書きがいくつも収められている。これまで何度捨てようと思ったかわからない。婚約者の尻拭いの記録など、持っていて気分のいいものではなかったからだ。

 だが捨てなくてよかった。

 今は心底そう思う。

「これと、これと……ああ、これも」

 サビーネは一つずつ机へ並べる。

 謝罪状の下書き。訪問順の調整メモ。贈答品の候補一覧。その横に、侍従から渡された走り書きの紙片。短い文面ばかりだが、どれも“彼女が後始末役だった”ことを示している。

 マルゴがそれを見て、鼻を鳴らした。

「殿下の筆跡は本当に雑ですね」

「そこなの?」

「大切です。字が乱れる方は、だいたい生活も乱れております」

「監査局の人みたいなことを言うのね」

「嫌ですわ、お嬢様」

 マルゴは真顔で返す。

「監査局の方なら、もっと嫌味ったらしくおっしゃいます」

 ちょっとわかる、と思ってしまった自分が悔しい。

 二人で昼前まで資料を整理していると、侍女がやってきて来客を告げた。

「お嬢様、監査局特別監督官ヨアヒム・ベルナール様がお見えです」

 やはり来た。

 わかっていたのに、胸の鼓動が一つ大きくなる。

「応接室へ?」

「はい。旦那様もご同席とのことです」

「わかりました」

 サビーネは立ち上がり、無意識にスカートの皺を整えた。

 別に着飾る相手ではない。むしろそういうことに一番興味がなさそうな男だ。なのに、なぜか“きちんとしていなければ”という気持ちになる。

 たぶん昨夜、自分の一番みっともない場面を見られたからだろう。

 いや、違う。

 みっともない場面ではなく、立った場面だ。

 そう言われたばかりだった。

 応接室の前で、サビーネは小さく息を整える。

「お嬢様」

 マルゴが小声で言った。

「何」

「昨夜のお礼は言っても構いませんが、借りを作るような言い方はなさらない方がよろしいかと」

「……あなた、そういうところだけ妙に鋭いわね」

「仕事ですので」

 どこまでが本当に仕事なのかわからないが、助言としてはもっともだった。

 扉が開かれる。

 応接室の中には、父と、そしてヨアヒム・ベルナールがすでにいた。

 昨夜と同じく、華やかさの欠片もない男だった。濃い灰色の上着、無駄のない姿勢、飾り気のない黒髪。社交界の男たちが競うように身につける金銀の飾りもない。

 だが、その代わりに目だけが妙に鋭い。

 観察する目だ。

 人を品定めするのではなく、事実を拾う目。

 ヨアヒムはサビーネが入ると立ち上がり、きちんと一礼した。

「侯爵令嬢」

「ベルナール監督官」

 礼を返しながら、サビーネは一瞬だけ思った。

 この人の前では、下手な芝居は通じない。

 それは怖くもあり、少しだけ気が楽でもあった。

 父が短く言う。

「座れ。話を始める」

 サビーネはうなずき、持参した資料の束を膝の上に置いて席についた。

 ここから先は、昨夜の続きではない。

 泣くか、言い返すかの戦いでもない。

 記録と事実で、見世物の代金を数え始める時間だった。
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