『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第七話 悪女役の再上映

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第七話 悪女役の再上映

 王都の社交界は、驚くほど勤勉だ。

 誰かが婚約しようと、破談しようと、失脚しようと、熱を出そうと、彼らは必ずそれを言葉に変える。事実のままでは物足りないのか、少し飾り、少し削り、少し毒を足して、翌日には立派な噂話に仕立て上げる。

 そして今回の題材は、ずいぶん上等だった。

 王立劇場。

 慈善晩餐会。

 第二王子による公開婚約破棄。

 壇上で言い返した侯爵令嬢。

 泣く男爵令嬢。

 国王からの呼び出し。

 どれを取っても社交界の舌には甘美で、しばらくは食卓の皿よりよく回るに違いなかった。

 ドルレアン侯爵家の朝食卓に並ぶ新聞めいた私信の束を見下ろしながら、サビーネは心の中でそう結論づけた。

 封蝋の色だけでも、送ってきた相手の顔が浮かぶ。

 同情ぶる者。

 面白がる者。

 様子を探る者。

 そして、今ならこちらへ寄っても問題ないか計算している者。

「ずいぶん早いわね」

 サビーネが言うと、向かいに座る父は淡々とパンを切った。

「遅いくらいだ。昨日のうちに飛ばせる者は、もう飛ばしている」

「まあ、なんて働き者」

「貴族の噂好きは労働に含まれん」

 当然のように切り捨てるその言い方に、少しだけ口元が緩む。

 昨夜から今日にかけて、家の中の空気は明らかに変わっていた。重いのは変わらない。けれどサビーネ個人を責めるような冷たさではない。侯爵家全体が、外へ向けて構え直している重さだった。

 それはむしろ、頼もしい。

 父は食事中に無駄口を好まない人だが、今朝は少しだけ例外らしかった。

「今日の午後、クラヴェル伯爵夫人の茶会に招かれていたな」

「ええ」

「欠席するか?」

 その問いに、サビーネは一瞬だけ視線を落とした。

 正直に言えば、欠席したかった。昨日までなら、たぶん何の迷いもなくそうしていただろう。社交界で噂の中心になった翌日に、わざわざ茶会へ顔を出す令嬢など、よほど肝が据わっているか、よほど鈍いかのどちらかだ。

 そして自分は、肝が据わっている方ではなかった。少なくとも昨日までは。

「……いえ」

 サビーネは顔を上げた。

「参ります」

 父はパンにナイフを入れる手を止めなかったが、わずかに眉を動かした。

「理由は」

「欠席すれば、“やはり傷ついて引きこもった”と語られますもの」

「出席すれば?」

「“図太い”“反省がない”“あの娘ならやりかねない”あたりでしょうか」

「よくわかっているな」

「でも」

 サビーネは紅茶を一口飲んだ。

「今は、“出てきた”という事実の方が必要だと思います」

 父はようやく娘を見た。

 その目は相変わらず厳しいが、否定はない。

「そうだな」

 短い承認だった。

「出るなら、堂々と出ろ。逃げるような顔をするな」

「心得ております」

「そして、誰かに挑発されても壇上の続きを始めるな」

 そこは釘を刺された。

 サビーネは少しだけ頬を引きつらせた。

「そのつもりはございません」

「本当にか?」

「……努力はいたします」

 父は小さく鼻を鳴らした。

 完全には信用していないらしい。仕方がない。昨日、自分の娘が王立劇場の壇上で第二王子を言い負かしたのだ。父としても評価と頭痛の両方があるのだろう。

 朝食を終え、自室へ戻ると、マルゴがすでに衣装箪笥の前で腕を組んでいた。

「お嬢様」

「何」

「本日は“打ちのめされた可哀想な娘”と“勝ち誇った嫌な女”のちょうど中間を狙います」

「ずいぶん難しい注文ね」

「簡単です。露骨に華やかな色は避け、地味すぎる色も避ける。宝石は小さめ。ですが貧相にはしない」

 言いながら、マルゴは何着かのドレスを引き出して並べる。

 薄青、灰みのある藤色、やわらかなクリーム色。

 派手ではない。だが上質なのは一目でわかるものばかりだ。

「灰色ではだめ?」

「だめです」

「どうして」

「監査局の方に寄せすぎです」

 あまりに真顔で言うので、サビーネは思わず吹き出しかけた。

「誰もそこまで見ていないわよ」

「見ております。少なくともわたくしは」

「あなたの観察眼、変な方向に育っていないかしら」

「職業病です」

 たぶん違う。

 結局、マルゴが選んだのは淡い藤色のドレスだった。春の花びらのような柔らかい色だが、裁ち方はきりりとしている。弱々しくは見えないが、喧嘩を売っているようにも見えない。

「髪は上げすぎず、きっちりしすぎず」

「ふわふわしろってこと?」

「そこまで夢見がちにはいたしません」

 手際よく髪を整えながら、マルゴは鏡越しにサビーネの顔を見た。

「お顔色は悪くありません」

「そう?」

「はい。昨夜よりずっと」

 その言葉に、サビーネは少しだけ目を伏せた。

 昨夜より、か。

 たしかにそうかもしれない。何も解決していない。婚約も破綻したまま、王家から正式な説明もない。それでも、昨日のような息苦しさは少し薄れていた。

 たぶん、動き出したからだ。

 父と話し、資料を整理し、監査局の監督官が来て、記録と事実の形が少しずつ見えてきた。泣くか黙るかの二択しかなかった昨日より、今日はやることがある。

 人は案外、やることがある方が楽なのかもしれない。

「お嬢様」

 マルゴが髪飾りを留めながら言った。

「本日の目標を申し上げます」

「聞きましょう」

「笑顔は三回まで」

「少ないわね」

「多いと“余裕ぶっている”と取られます。少ないと“まだ傷が深いのね”と同情を買えます」

「あなた、たまに本当に恐ろしいわ」

「社交界に出る女に必要なのは、純真さではなく配分です」

 名言のようでいて、少しもありがたくない。

 だが、的外れでもなかった。

 午後、クラヴェル伯爵夫人の屋敷へ向かう馬車の中で、サビーネは無意識に手袋の指先を撫でていた。

 緊張しているのだ。

 王立劇場の壇上に比べれば、茶会など可愛いもののはずなのに、不思議とこちらの方が神経を使う。敵意はあからさまではなく、笑顔の下へ隠されるからだろう。

「お嬢様」

 向かいに座るマルゴが言う。

「何かございましたら、紅茶をこぼしてください」

「は?」

「事故です。会話が止まります」

「そんな最終手段みたいな提案をしないで」

「かなり有効です」

「あなた、絶対に前世で何かやっていたわね」

「残念ながら今世しか存じません」

 さらりと返される。

 馬車が伯爵家の正門をくぐり、ゆるやかに中庭へ入る。サビーネは一度だけ大きく息を吸った。

 逃げない。

 今日、自分はそのために来たのだ。

 クラヴェル伯爵夫人の茶会は、いかにも社交界らしい上品な空間だった。明るい陽が差す温室風の広間に丸卓がいくつも置かれ、春の花が惜しみなく飾られている。集まっているのは年配の夫人から若い令嬢まで様々だが、全員の目がよく磨かれていた。

 人を見るために。

 そして値打ちを測るために。

「まあ、サビーネ様」

 ホストであるクラヴェル伯爵夫人が、やわらかな笑みを浮かべて迎えた。

「お越しくださって嬉しいわ」

「お招きありがとうございます、伯爵夫人」

 完璧な挨拶を返しながら、サビーネは周囲の空気を読む。

 静かだ。

 だがその静けさは歓迎のものではない。皆、どう切り出すかを測っている。哀れむべきか、面白がるべきか、それとも様子見に徹するべきか。

 どちらにせよ、中心は自分だ。

 サビーネは逃げずに席へついた。

 最初の数分は、天気、花、最近の仕立て屋、東部領の織物の出来――そんな無難な話題ばかりだった。だが無難な会話ほど、次の刃のための助走であることをサビーネは知っている。

 そして、やはり来た。

「でも、本当に驚きましたわ」

 最初に口火を切ったのは、金糸のような髪を持つ若い伯爵夫人だった。名をエヴリーヌという。笑顔は上品だが、声の端に震えるほどの好奇心がある。

「まさか、あのような場で……ねえ?」

 “あのような場”に含まれる意味が多すぎて、かえって感心する。

 サビーネはカップを置き、ゆるやかに微笑んだ。

 一回目の笑顔だ、と心の中で数える。

「ええ。わたくしも驚きましたわ」

 それだけ言う。

 余計な説明はしない。

 エヴリーヌ夫人は少しだけ拍子抜けした顔をした。もっと感情的な反応を期待していたのだろう。

「おつらかったでしょう……?」

 今度は隣の席の年配夫人が言う。

 こちらは悪意より本気の同情が混じっている。だが同情もまた、場によっては人を弱い位置へ押し込める。

「お気遣いありがとうございます」

 サビーネは静かに答えた。

「ですが、こうして出てまいりましたので、どうぞいつものようにお話しくださいませ」

 その一言で、いくつかの目が細くなった。

 ああ、この娘は引っ込む気がないのだ、と理解した顔だ。

 すると今度は、露骨に違う方向から来る。

「でも、ずいぶん気丈でいらっしゃるのね」

 にこにこと言ったのは子爵令嬢の一人だった。

「わたくしでしたら、とても翌日にお茶会など……」

 要するに、“図太いのですね”と言いたいのだ。

 サビーネはその令嬢を見た。確か、前に一度、夜会でドレスの色を真似しただのしないだので騒いでいた娘だ。相手の傷に指を入れる時だけ、大人びた顔をする。

「わたくしも迷いましたわ」

 サビーネは素直に言った。

「けれど、出てこなければ“傷ついて隠れた”と言われ、出てくれば“図太い”と言われるのでしょう? でしたら、出てきた方が少しだけ建設的かと思いましたの」

 広間がしんと静まる。

 何人かが目を逸らした。

 図星だったのだ。

 たぶん今この場の大半が、まさにそう値踏みしていた。

 サビーネはそこで追撃しなかった。ただ紅茶を一口飲む。自分で言葉を引き取らず、相手に残してやる方が痛い時もある。

 クラヴェル伯爵夫人が場を和らげるように言った。

「まあ、なんて率直なの」

「申し訳ございません」

「いいえ。嫌いではないわ」

 本音か社交辞令かは半々だろう。だが少なくとも、ホストはこの場を完全な狩場にする気はないらしい。

 少しだけ空気がゆるみ、別の卓から花の香油の話が始まりかけた、その時だった。

「……でも」

 ぽつりと落ちた声があった。

「やはり、殿下をあそこまで追い詰める必要があったのかしら」

 サビーネは顔を上げる。

 言ったのはシャルロット・ヴィゼ子爵令嬢。オディールと親しいと噂のある娘だ。直接の悪意より、“善良な疑問”の顔をしている分だけ面倒なタイプだった。

「殿下も、お立場がおありでしょうに」

 出た。

 男の軽率さより、それを突かれた男の体面を心配する理屈だ。

 サビーネは数瞬だけ黙った。

 怒るのは簡単だ。けれどそれでは、また“感情的な娘”の札を与えるだけになる。

「そうですわね」

 サビーネは静かに答えた。

「殿下にはお立場がおありです」

「でしたら――」

「だからこそ、あのような場を選ぶべきではなかったのではなくて?」

 シャルロット令嬢の口が止まる。

 サビーネはやわらかく続けた。

「わたくしは、あの場で初めて婚約解消を告げられましたの。事前の話し合いもなく、公衆の面前で。殿下のお立場を思うのであれば、なおさら、わたくしも侯爵家も侮らぬ形をお選びになるべきでしたわ」

 正論だった。

 しかも少しも声を荒らげていない。

 それが逆に効く。

「ですが、男の方は時に勢いというものが……」

 シャルロット令嬢がなおも言い募ろうとする。

「そうですわね」

 サビーネはうなずいた。

「勢いで婚約者を壇上に呼びつけ、別の令嬢を隣に立たせ、貴族たちの前で悪女扱いなさることもあるのでしょうね。たいそう便利な勢いですこと」

 広間の何人かが、とうとうこらえきれずに扇の陰で笑った。

 シャルロット令嬢は頬を赤くする。

 サビーネはそこで初めて気づいた。自分はいま、昨日の壇上ほどは苦しくない。

 痛くないわけではない。悔しさも消えていない。

 けれど、この場ではもう悪役の台本を押しつけられていない。相手が勝手に再上映しようとしても、こちらがのらなければいいだけだ。

「サビーネ様」

 年長の夫人が、静かに口を開いた。

「では、今後はどうなさるおつもりなの?」

 その問いには、好奇心だけでなく本当の意味での探りもあった。

 引っ込むのか。

 泣いて過ごすのか。

 別の縁談を探すのか。

 それとも王家と争うのか。

 社交界の女たちは、相手の今後の動きによって、距離の取り方を変える。

 サビーネはカップを置いた。

「まずは、家として必要な説明を求めます」

 その言葉に、何人かの姿勢が変わる。

 恋ではなく、家の話として受け取ったのだ。

「わたくし個人の感情はもちろんございます。ですが、昨夜の件は侯爵家への扱いとして看過できませんもの」

 クラヴェル伯爵夫人が、ほう、と小さく息をついた。

「なるほど。そう来るのね」

「事実ですので」

「ええ。事実は強いわ」

 そこから先、空気は少し変わった。

 同情だけで話しかけてくる者は減り、むしろ慎重な目でこちらを見る者が増える。被害者として消費しやすい娘ではなくなったとわかったのだろう。

 もちろん、それで味方が増えるわけではない。

 だが少なくとも、簡単には踏めなくなる。

 それで十分だった。

 茶会が終わる頃には、サビーネの笑顔は結局二回しか使わなかった。マルゴの配分はおおむね正しかったらしい。

 帰りの馬車に乗り込むと、サビーネはようやく肩の力を抜いた。

「お疲れさまでした」

 マルゴが言う。

「思ったより平気だったわ」

「はい。お嬢様は今日、ちゃんと“引っ込まない人”として見せられました」

「ずいぶん商品みたいな言い方ね」

「社交界では半分ほど商品です」

 否定できないのが腹立たしい。

 馬車が石畳を揺れながら進む。窓の外では、王都の街がいつも通りに動いていた。だがたぶんそのどこかで、今日の茶会の話ももう広がり始めている。

 サビーネは、ふっと息を吐いた。

「ねえ、マルゴ」

「はい」

「悪女役の再上映、断れたかしら」

 マルゴは少し考えるように黙ってから、きっぱり言った。

「ええ。今日は別の役で出られました」

「別の役?」

「思ったより口の回る被害者です」

 それを聞いて、サビーネはとうとう声を立てて笑った。

 まったく可憐ではない評価だったが、妙に嬉しかった。少なくとも、泣いて退場するだけの娘ではなかったということだ。

 笑ったあとで、胸の奥が少しだけ軽くなっているのに気づく。

 昨日の壇上で、自分は確かに恥をかいた。

 傷つきもした。

 でも、それだけでは終わらなかった。

 今日の茶会で、サビーネは初めて社交界へ示したのだ。

 ――私は、まだここにいる。

 そう。まるで諦めの悪い芝居みたいに。
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