『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第八話 侍女マルゴは黙らない

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第八話 侍女マルゴは黙らない

 ドルレアン侯爵家に戻った頃には、午後の陽が少し傾き始めていた。

 茶会帰りの馬車の中では笑えたのに、屋敷の門をくぐる頃になると、サビーネはまた少しだけ肩が重くなる。社交界へ顔を出すと決めたのは自分だし、今日の立ち回りも大きくは間違っていなかったと思う。

 けれど、うまくやれたことと疲れないことは別だった。

 玄関ホールへ入ると、出迎えた執事が恭しく一礼した。

「お帰りなさいませ、お嬢様」

「ただいま戻りました」

「旦那様はまだ書斎にて」

「そう」

「本日はご不在中にも幾通かお手紙が届いております。急ぎのものではございませんが、お部屋へお持ちいたしますか」

 また増えたのか、とサビーネは内心で思った。

 同情、探り、打算、野次馬。今日の茶会を経たことで、きっとまた文面の温度も少し変わるのだろう。人の善意は風向きでよく育つ。

「あとでで結構よ」

「かしこまりました」

 サビーネは自室へ戻ると、ようやくきつく締めた背筋を少しだけ緩めた。ソファへ腰を下ろし、手袋を外す。指先が思ったより冷えている。

 マルゴが黙ってティーテーブルへ向かい、湯気の立つポットを用意し始めた。

「紅茶でよろしいですか」

「お願い」

「強めにいたします」

「わかるの?」

「ええ。お嬢様は平気な顔をなさっている時ほど、濃い方がお好きです」

 そういうものかしら、とサビーネは思ったが、否定はしなかった。

 マルゴが手際よく茶を淹れる音だけが部屋に落ちる。ほどよい静けさだ。今日の茶会のように、言葉がどこかへ刺さらないかと気を張る必要がない静けさ。

 カップが差し出される。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 一口飲むと、たしかに少し濃い。渋みが舌に残る。だが嫌ではなかった。むしろ、今日はこのくらいがちょうどいい。

「……疲れましたか」

 マルゴが何でもない調子で聞く。

「少しだけ」

「少し、ですか」

「かなり、って言った方が満足?」

「正確な報告の方が助かります」

 サビーネはカップを持ったまま、小さく息を吐いた。

「かなり疲れたわ」

「でしょうね」

「でも、思ったより平気だったのも本当よ」

「はい」

「変かしら」

「いいえ。痛いのに立てることはございます」

 さらりと言われて、サビーネは少しだけ目を上げた。

 マルゴはいつもこうだ。優しいことを言う時も、妙に飾らない。だから却って胸に残る。

「今日、皆わかりやすかったわ」

 サビーネは窓の外を見ながら言った。

「かわいそうな人を見る目と、面白がる目と、あとは“どちら側につくと得かしら”っていう目」

「社交界の基本三種でございますね」

「庭の薔薇みたいに言わないで」

「もっと棘がございます」

 たしかに、と思ってしまう。

 サビーネはソファの背に少しだけもたれた。

「でも、今日行ってよかった」

「はい」

「欠席していたら、きっともっと好きに言われたわ」

「それもございます」

 マルゴはテーブルの上を整えながら続ける。

「ただ本日の成果はそれだけではありません」

「聞きましょう」

「お嬢様が“泣いて伏せる娘ではない”と示せたことです」

 昼の茶会でも、似たようなことを自分で考えた。

 だが他人の口から、しかもマルゴのように感情で盛らない人間から言われると、妙に現実味がある。

「そうかしら」

「ええ。かなり大きいです」

「そんなに?」

「はい。社交界の方々は、傷ついた女がどう振る舞うかで、その後の扱いを変えますので」

「嫌な世界ね」

「ええ。ですが便利でもあります」

 マルゴはそこで、真顔のまま言った。

「泣いて隠れれば、もう一段踏みやすくなります。逆に、出てきて口まで回ると、“下手に触ると自分が恥をかくかもしれない”と学習なさるのです」

 なんという評価だろう。

 だが、たぶん正しい。

 サビーネは思い返す。茶会の途中から、明らかに空気が変わった。哀れみの視線が消えたわけではない。けれど、好き勝手に慰めや説教を投げてくる顔ぶれは減った。

 少し噛みつくかもしれない女だ、と認識されたのだろう。

「……私、そんなに危ないかしら」

「本日はほどよく危なかったです」

「褒め言葉?」

「ええ。とても」

 そこでサビーネは、やっと少し笑った。

 だが笑みはすぐに薄れた。カップの中を見下ろしながら、ぽつりとこぼす。

「マルゴ」

「はい」

「私、昨日まではね」

「はい」

「婚約破棄されたことそのものが、一番痛いと思っていたの」

 マルゴは返事を急がなかった。

 そういう時の彼女は、間を埋めない。言葉が出てくるのを待つ。

「もちろん痛いわ。恥ずかしいし、惨めだったし、悔しいし……今でも思い出すと胸がむかつくくらいには。でも」

 サビーネはカップを置いた。

「今日、皆の顔を見ていて思ったの。ああ、私が本当に嫌だったのは、“見世物として消費されること”だったのねって」

 言葉にしてみると、すとんと腑に落ちた。

 婚約が壊れたことだけではない。あの場で泣け、崩れろ、黙れ、みっともなく傷ついてみせろ、と周囲が期待していたこと。その期待に沿えば沿うほど、誰かの物語の都合のいい悪女か被害者にされること。

 それがたまらなく嫌だったのだ。

 マルゴが静かに言う。

「でしょうね」

「ずいぶんあっさり言うのね」

「昨夜のお嬢様、婚約破棄そのものより、“舞台に上げられたこと”に怒っておいででしたもの」

 サビーネは少し目を見開いた。

「そう見えていた?」

「ええ。非常によく」

 マルゴはテーブルの端へ手を置いたまま、いつになくやわらかい声で続ける。

「お嬢様は、捨てられたことより、勝手に台本を決められたことにお怒りでした」

 その一言が、妙に胸へ刺さる。

 そうだ。

 まさにそれだった。

 婚約者でいられなくなったことも痛い。けれど、それ以上に、泣く役・黙る役・悪女役を勝手に配られたことが許せなかった。

「……あなた、たまに本当にいやなほど正確ね」

「侍女として名誉でございます」

「褒めていないわ」

「存じております」

 少しだけ部屋の空気がゆるむ。

 だがマルゴは、そこで終わらなかった。

「ですので、お嬢様」

「何」

 彼女はまっすぐサビーネを見た。

「しょんぼりするのは構いませんが、長くやるのはおすすめしません」

「しょんぼりって……」

「ええ。もっと上等な言葉を使うこともできますが、本質は同じです」

 容赦がない。

 サビーネが眉を寄せると、マルゴは淡々と続けた。

「今、お嬢様が“傷ついたままの方が自然ではないかしら”とお思いになるお気持ちはわかります。ですが社交界も王家も、そういうお嬢様を一番お好きです」

 はっとする。

「弱って、引っ込んで、疲れて、黙る。そうなれば皆さま、“あとは適当に丸められる”と安心なさるでしょう」

「……嫌な言い方ね」

「事実です」

 マルゴは一歩も引かない。

「泣くなとは申しません。傷つくなとも申しません。ですが、傷ついた顔のまま長く座っていても、誰も代わりに立て直してはくれません」

 その言葉は、少し冷たかった。

 でも、冷たいだけではなかった。

 突き放しているのではない。むしろ逆だ。今ここで甘やかして座り込ませる方が、よほど不親切だと彼女は知っているのだ。

「ですから」

 マルゴはきっぱり言った。

「泣くなら今夜までになさってください」

「期限を切るの?」

「はい」

「厳しい侍女ね」

「有能でございますので」

 自分で言うところが腹立たしい。

 でも少しだけ、可笑しい。

 サビーネはソファに深く座りなおした。窓の向こうには春の光。庭師が遠くで何かを整えている姿が見える。世の中はずいぶん普通に回っていて、自分の痛みだけが特別という顔をしてくれない。

 だからこそ、自分で立ち上がるしかないのだろう。

「今夜まで、ね」

「はい」

「そのあと私はどうするの」

「勝つ顔をしてください」

 即答だった。

 あまりにも即答で、サビーネはぽかんとした。

「……何、それ」

「文字通りでございます」

 マルゴはまったく笑わない。

「社交界でも屋敷でも、王家から使者が来ても、監査局の方が来ても、お嬢様は“私はまだ負けていない”という顔をなさってください」

「監査局の方が来ても、まで入るのね」

「ええ。あの方はそういう顔を見逃さない気がいたしますので」

 それは、わかる。

 ヨアヒム・ベルナールの顔を思い出す。あの人は涙に弱そうではない。むしろ、泣いて曖昧にしたことをあっさり切り捨てそうだ。

 だが一方で、立っている人間のことは正しく見る。

 そこが妙に厄介で、少しだけありがたい。

「勝つ顔、か」

「はい」

「難しいわね」

「笑う必要はございません」

「怒るの?」

「怒ると負けて見えます」

「じゃあ、どうしろっていうのよ」

「余裕があるふりをしてください」

 マルゴは淡々と答えた。

「本当に余裕がある必要はございません。ふりで十分です」

 なるほど、とサビーネは思った。

 社交界とは、そういう場所だった。愛想も、無関心も、親切も、半分はふりでできている。ならば余裕だって、最初はふりで構わないのかもしれない。

 やがてそのふりが、少しずつ本物に追いついてくることもある。

「……わかったわ」

 サビーネが言うと、マルゴは小さくうなずいた。

「結構です」

「でも、今夜まではしょんぼりしてもいいのよね」

「ええ」

「泣いても?」

「もちろん」

「お酒を飲んで、“最低の男”って十回くらい言っても?」

「品は下がりますが、誰にも聞かれないなら許容範囲です」

「あなた、やっぱり優しいのか厳しいのかわからないわ」

「どちらも必要ですので」

 そこで、扉の外から控えめなノックがした。

 返事をすると、若い侍女が入ってくる。

「お嬢様、お手紙が追加で二通届きました」

「追加で、って嫌な響きね」

「一通はクラヴェル伯爵夫人から。もう一通は……」

 侍女が少し迷う。

「何かしら」

「王宮からでございます」

 部屋の空気が、すうっと引き締まった。

 サビーネは立ち上がりはしなかった。ただ視線だけを封書へ向ける。王宮の紋章入り。丁寧な紙。嫌になるほど格式ばった封。

 来た。

 昨夜も今日も、いつか来るとは思っていた。けれど実際に目の前へ置かれると、やはり胸の奥がひやりとする。

 マルゴが横から言った。

「開ける前に、旦那様へお知らせを」

「ええ。そうね」

「単独では触らない方がよろしいでしょう」

「わかってるわ」

 侍女が下がり、扉が閉まる。

 サビーネはしばらくその封書を見つめていた。薄い紙なのに、やけに重たく見える。

「お嬢様」

 マルゴの声。

「はい」

「今です」

「何が」

「勝つ顔です」

 言われて、サビーネは思わず息を止めた。

 そうか。

 まさに今だ。

 王宮からの封書を見て、青ざめるのか。怯えるのか。嫌そうな顔をするのか。それとも、“来たわね”と受け止めるのか。

 誰が見ているわけでもない。なのに、ここで自分がどう構えるかで、たぶん次が決まる。

 サビーネはゆっくりと背筋を伸ばした。

 テーブルの上の封書へ手を伸ばし、しかしまだ開けずに指先で整える。

「……こうかしら」

「ええ。だいぶましです」

「上からね」

「侍女ですので」

 少しだけ、唇が上がる。

 泣くのは今夜まで。

 そのあとは、勝つ顔。

 ずいぶん乱暴な方針だと思う。けれど、今の自分にはそれくらい単純な言葉の方が効いた。

 サビーネは王宮からの封書を持ち上げた。

 重い。でも、昨日ほどではない。

 たぶんそれは、手紙が軽いのではなく、自分がほんの少しだけ踏ん張れるようになったからだ。
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