『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第九話 王子の綻び

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第九話 王子の綻び

 王宮から届いた封書は、驚くほど丁寧な文面だった。

 粗相への詫びもなければ、昨夜の件への明確な説明もない。ただ、**「近日中にお話し合いの場を設けたく存じます」**と、過剰なほど礼儀正しく書かれている。

 礼儀正しい文面というものは、時に誠意よりも煙幕に近い。

 サビーネは父の書斎でその手紙を読み終え、静かに紙をたたんだ。

「ずいぶん綺麗に何も言っていないのね」

 向かいの父は鼻で笑った。

「王宮文書官が徹夜で整えた顔だろう。中身は薄い」

「では、出向く必要は?」

「ある」

 即答だった。

「行かねば、“侯爵家が感情的に拒絶した”と言われる。行けば、少なくとも話し合いの席に着いたという事実は残る」

「でも単独では行かない」

「当然だ」

 父は短く言う。

「私も同席する。お前はお前で、余計な配慮をするな」

 余計な配慮。

 胸の奥に少しだけ刺さる言葉だった。

 だが父は、娘を責めたわけではない。ただサビーネがこれまで、あまりにも自然に他人の体面へ気を回しすぎていたのを知っているのだ。

「承知しました」

「それと」

 父は机の上の別の書状を指先で叩いた。

「今日の午前、王宮内で小さな騒ぎがあったそうだ」

「小さな、ですか」

「表向きはな。第二王子殿下が、東方使節団への返書に署名を入れる段になって中身を把握しておらず、侍従たちの前で揉めた」

 サビーネは目を伏せた。

 ああ、と、妙に納得する。

 返書の文面確認。相手との温度差の調整。言い回しの選定。誰にどこまでへりくだり、どこから王家の格を保つか。そういった細部は、サビーネが何度も陰で整えてきた仕事だった。

 セドリックは、整ったものへ署名するだけでよかった。

「昨日の今日で、もう綻びが出ましたのね」

「むしろ遅い」

 父は容赦がない。

「今まで、誰かが縫っていたのだろう」

 その誰かが自分だったのだと、今さらのように実感する。

 サビーネは自分の膝の上で指を組んだ。悔しさとも、情けなさとも違う感情だった。もっと乾いていて、もっと冷たい。

 自分が必死で繕ってきたものは、思っていた以上に脆かったらしい。

「お前に同情しているわけではない」

 父が低く言う。

「だが、王家はお前を切れば体裁よく済むと思った。その見通しはもう崩れ始めている」

「……はい」

「今後、あちらは二つの顔を使うだろう。穏便に済ませたい顔と、お前を感情的な娘にしたい顔だ」

「どちらも来るでしょうね」

「来る」

 父はうなずいた。

「だから、見ろ。向こうが崩れる様子を」

 それは、慰めではない。

 もっと実務的な助言だった。

 見ろ。助けるな。勝手に埋めるな。

 それが今のサビーネに必要なことなのだろう。

 その頃、王宮の第二王子執務室では、まさに綻びが広がっていた。

「だから、なぜこの返書が先方の気分を害するのだ!」

 セドリックの怒声が部屋に響く。

 机の上には、封をされる前の文書が三通。脇には侍従長補佐と書記官、それに青ざめた若い侍従が控えていた。

 返書自体は短い。

 だが問題は、その短さの中身だった。

 東方使節団からの書簡は、先日の晩餐会への謝意と、次の会談日程への確認を丁寧に述べたものだ。それに対し、セドリックが用意させた返答は、予定の承認だけを素っ気なく記し、謝意への返礼も、先方が贈ってきた品への言及もない。

 失礼というほどではない。

 だが、明らかに足りない。

「殿下」

 書記官が慎重に口を開く。

「先方は先日の歓待に重きを置いておりますゆえ、一文でもお礼を添えられた方が……」

「それくらい、なくても意味は通じるだろう!」

「意味だけなら」

 侍従長補佐が言いかけて、すぐに口をつぐむ。

 セドリックの機嫌が悪いのは、部屋の誰もが知っていた。

 昨夜の件以来、国王からは厳しい叱責を受け、王妃からは冷たい沈黙を向けられ、側近たちの目まで変わった気がする。華やかな“公開宣言”の余韻など一欠片もない。

 残ったのは、処理しきれない細事ばかりだった。

「……以前は、こういうことは」

 若い侍従が、ほとんど無意識にこぼした。

 部屋の空気が凍る。

「以前は、何だ」

 セドリックがゆっくり振り返る。

 侍従は一気に顔色を失った。

「も、申し訳ございません、殿下。ただ、その……以前は、もう少し整った形で文案が上がっておりましたので……」

 誰もが黙った。

 それ以上は言うな、という沈黙だった。

 だが一度出た言葉は戻らない。

 以前。

 もう少し整った形。

 誰が整えていたのかなど、ここにいる全員が知っている。

 セドリックの頬が引きつる。

「……あの女のことを言っているのか」

「い、いえ、そのようなつもりでは」

「ならば口を慎め!」

 机を叩く音が響き、文書がずれた。

 侍従は肩を震わせ、書記官は目を伏せ、侍従長補佐だけが無表情を保ったまま言った。

「殿下、文案の整え直しだけなら、こちらで可能です」

「当然だ!」

「ですが、夜会の招待客一覧の再確認も同時に必要です。明後日の小夜宴で、クラヴェル伯爵夫人がどちらの席へ着かれるかによって、同席者の顔ぶれが変わりますので」

 セドリックの表情が止まる。

「……なぜ私が、そこまで把握しなければならん」

 誰も答えなかった。

 答えられないのではない。

 答えがひどく単純だからだ。

 把握すべき立場だからだ。

 王族だから。

 これまでは、その“把握すべきこと”の半分以上を、婚約者へ流していたにすぎない。

 侍従長補佐が静かに続ける。

「殿下主催の小夜宴でございますので」

「その程度、誰かが勝手に整えればよいだろう!」

「これまでは、そうしてまいりました」

 部屋の空気が、もう一段冷えた。

 その言い方は、ほとんど宣告だった。

 これまでは、そうしてきた。

 だが今は違う。

 勝手に整えてくれる手が、もうない。

 セドリックは言葉に詰まり、机の端へ視線を落とした。そこには昨夜から片づいていない書簡の束がある。訪問予定、返書、献上品の一覧、招待客の確認、母方の親族への気遣い――見た瞬間に頭が重くなる類の紙ばかりだ。

 前までは、こんなに多く見えなかった。

 いや、見えていなかったのだ。

「……オディールは」

 唐突にセドリックが言った。

「今日は来ていないのか」

 侍従長補佐が一拍置いて答える。

「お呼びではございませんでしたので」

「だが、彼女は……」

 そこで言葉が途切れる。

 彼女は優しい。可愛い。自分を慕っている。傷ついた自分を慰めてくれる。

 そういったことは言えても、今の机の上を片づけるのに何ができるかとなると、続きが出てこない。

 セドリック自身、その空白に気づいたらしい。顔色がさらに悪くなる。

「……もういい。下がれ」

「ですが返書が」

「下書きを置いていけ! あとで見る!」

 誰もが、その“あとで”が危ういことを知っていた。

 だが逆らえない。

 三人が礼をして下がると、執務室には一人きりの沈黙が落ちた。

 セドリックは椅子へ座りなおし、乱れた書類の束を睨んだ。

 腹立たしい。

 何もかも腹立たしい。

 あの女が、壇上で黙らなかったこと。

 父王が自分を見下すような目をしたこと。

 侍従たちが隠しきれない困惑を浮かべていること。

 そして何より、サビーネがいなくなったことで、自分の周りの歯車が目に見えて軋み始めたこと。

「……そんなはずはない」

 独り言が漏れる。

 あの女がいなくても、自分は第二王子だ。

 困るはずがない。

 あれはただ、少し気が回る婚約者だっただけで――

 だが机上の文書は、その言い訳を許さなかった。

 少し、ではない。

 かなり、だったのだ。

 その頃、男爵家メルヴィの屋敷では、オディールが鏡の前で自分の顔を見つめていた。

 泣いたあとの目元は腫れていないか。頬はやつれて見えないか。か弱く、しかし惨めすぎない角度はどこか。

 いつものように、鏡は正直だった。

 可愛い。

 けれど、可愛いだけでは昨日の夜は乗り切れなかった。

 それが彼女にはまだうまく理解できない。

 侍女がそっと言う。

「お嬢様、殿下のもとへお手紙を?」

「ええ、書くわ」

 オディールは唇を結んだ。

「わたくしは殿下の味方だって、ちゃんと伝えないと」

 そう、味方。

 それは間違っていないはずだった。

 なのに昨夜、壇上で自分を守ってくれたはずの殿下は、最後には国王に呼ばれて連れていかれた。周囲の視線は冷たくなり、帰宅してから母には“少し黙っていなさい”と叱られた。

 どうして。

 なぜ、あそこでサビーネが黙らなかっただけで、こんなに話が変わるのだろう。

 オディールには、それがまだわからない。

 わからないまま、ただ“可哀想なわたくし”を整え直すことしかできない。

 一方、ドルレアン侯爵家の自室では、サビーネが王宮からの正式な返事を待ちながら、資料の束へ目を通していた。

 机の上には整えた書類。窓辺には午後の光。遠くで鳥の声。

 ずいぶん静かな時間だ。

 その静けさの中へ、マルゴが新しい便りを持ってきた。

「お嬢様」

「何かしら」

「クラヴェル伯爵夫人から追加のお手紙です」

「追加?」

「はい。今日の茶会の件で、“お言葉の通じる方が一人いて助かった”と」

 サビーネは思わず目を上げた。

「それ、本当に伯爵夫人の文面?」

「かなり丸くはしてありますが、要旨はそのようなものでした」

 可笑しくて、少しだけ肩の力が抜ける。

「そう」

「あと一文、“お若いのに、ずいぶんお強いのね”とも」

「それは褒めているのかしら」

「半分ほどは。残り半分は警戒でございましょう」

 率直でよろしい、とサビーネは思った。

 だが今は、その半分でも悪くない。少なくとも“泣いて引っ込んだ可哀想な娘”として一方的に消費されるよりはましだ。

「お嬢様」

 マルゴが手紙を置きながら言った。

「はい」

「殿下は今頃、かなりお困りではないでしょうか」

 サビーネは書類から視線を外し、少しだけ考えた。

「……そうでしょうね」

「助けたくなりますか」

 その問いは、静かで、容赦がなかった。

 サビーネはすぐには答えなかった。

 助けたくなるか。

 長く染みついた癖は、そう簡単には消えない。誰かが困っていれば、足りないところを埋めたくなる。とくにそれが、自分がずっと埋めてきた相手ならなおさらだ。

 でも。

「いいえ」

 サビーネははっきり言った。

「少なくとも、今は」

 マルゴは小さくうなずいた。

「結構です」

「意外そうね」

「少しだけ」

「私だって学ぶわ」

 そう言うと、マルゴは珍しくほんの少しだけ笑った。

「ええ。今日のお嬢様は、昨日よりずっと」

「何かしら」

「ちゃんと手を離しておいでです」

 その言葉に、サビーネは窓の外を見た。

 空は高く、庭の木々は静かに揺れている。

 たぶん今頃、王宮では第二王子が困っている。

 返書の文面、席次の確認、贈答の選定、夜会の顔ぶれ。これまで自分が何気なく整えてきたものに、ようやく足を取られているのだろう。

 少し前の自分なら、気になって仕方なかったはずだ。

 でも今は、違う。

 見える。想像もつく。けれど、手は伸ばさない。

 綻びを縫うのは、もう自分の役ではないのだから。
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