『婚約破棄は劇場にて――見世物にされた侯爵令嬢は、舞台ごと奪い返す』

鷹 綾

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第十一話 地味な男の強さ

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第十一話 地味な男の強さ

 王宮との話し合いの場が正式に決まったのは、その翌日の昼前だった。

 場所は王宮内の小応接室。出席するのは、ドルレアン侯爵アルフォンス、サビーネ、そして王家側からは王弟付き政務官と宮内庁の年長侍従。第二王子セドリック本人が出るかどうかは、文面の最後まで曖昧にぼかされていた。

 実に王宮らしい。

 来るとも来ないとも明言せず、相手にだけきちんと出頭を求める。責任の所在を薄くしながら、立場の重さだけは押しつけてくる。

 サビーネはその書状を読み終えてから、机の端へ静かに置いた。

「来る気があるのかしら」

 独り言のように言うと、向かいで資料を整えていた父が答える。

「来るかもしれんし、逃がされるかもしれん」

「逃がされる」

「王子は便利だ。矢面に立たせる時も便利だが、立たせぬことで責任を曖昧にする時も便利だ」

 まるで道具の評価みたいだ、とサビーネは思った。

 でも王家の中では、案外それが正しいのかもしれない。血筋があるからこそ、守られもするし、使われもする。

 父は書類を一枚持ち上げた。

「お前は感情でぶつかるな。昨日までと同じだ。事実を並べろ」

「はい」

「相手が言いよどめば埋めるな」

「はい」

「曖昧な謝罪で丸めようとしても受け取るな」

「……はい」

 そこだけ返事が少し重くなったのを、父は見逃さなかった。

「何だ」

「謝罪、されると思います?」

「するだろう」

 即答だった。

「ただし“何に対して”かを曖昧にしたままな」

 それは、いかにもありそうだった。

 無礼があったことは遺憾に思う。配慮を欠いたことは認める。心労をかけたことは申し訳ない。

 そう言うだろう。

 だが、“王立劇場を私的婚約破棄に使ったこと”“侯爵家の娘を公衆の面前で断罪役にしたこと”“別の令嬢を隣に立たせたこと”――その核心には触れずに済ませようとするはずだ。

「わかっています」

 サビーネが答えると、父はうなずいた。

「ならよろしい」

 その時、扉が叩かれ、家令が一礼して入ってきた。

「旦那様、ベルナール監督官がお見えです」

 サビーネは顔を上げた。

 父も少しだけ眉を動かす。

「本日、来訪予定だったか」

「いえ。ですが“短く確認したい件がある”とのことです」

 父は数瞬だけ考え、それから椅子にもたれ直した。

「通せ」

 返事は簡潔だった。

 少しして応接室へ入ってきたヨアヒム・ベルナールは、今日も相変わらず地味だった。濃灰の上着、飾り気のないタイ、磨かれてはいるが主張しない靴。社交界の男たちのように“どう見えるか”を競う気配がない。

 だが、その分だけ妙に輪郭がはっきりして見える。

 曖昧にしない人間の顔だ、とサビーネは思う。

「突然の来訪、失礼いたします」

 ヨアヒムは一礼し、父へ向かって言った。

「構わん。何だ」

「王宮との話し合いが設定されたと聞きました」

 情報が早い。

 いや、監査局が遅い方が困るのかもしれないが、改めてそう思う。

「ええ」

 父が答える。

「王家側から連絡が来た」

「想定通りですな」

「そちらから見て、何か動きがあったか」

 ヨアヒムはすぐには答えず、サビーネにも視線を向けた。

「二つあります」

「聞こう」

「一つ目。第二王子殿下の執務周辺で、文案調整と席次確認に混乱が出始めています」

 やはり、と思った。

 サビーネは表情を変えなかったが、内心ではあまり驚かなかった。むしろ、あそこまで早く綻ぶものなのね、という種類の感想に近い。

「もう一つは」

 ヨアヒムが続ける。

「王家側が“婚約問題は私的な感情の行き違いであった”という筋へ寄せようとしていることです」

 父が鼻で笑う。

「やはりな」

「ですので、今度の話し合いで相手がその方向へ持っていこうとした場合、侯爵令嬢のお立場を“傷ついた婚約者”だけに留めぬ方がよろしい」

「家格の問題として押し返せ、という意味か」

「ええ。それと、継続的実務負担の話も必要です」

 サビーネはそこで口を開いた。

「監督官」

「はい」

「あなたは、殿下がそこまで早く崩れると予想していたの?」

 問いというより確認に近かった。

 ヨアヒムは少しだけ考えるように間を置いてから答えた。

「程度までは。ただ、綻びは出ると思っておりました」

「どうして」

「支えていた手が、突然消えたからです」

 あまりにもあっさり言うので、サビーネは少しだけ言葉に詰まる。

 そうだ。そうなのだ。

 でも、それをこんなに平然と口にされると、妙に落ち着かない。

「普通の婚約であれば、多少の混乱はあっても、そこまで露骨には出ません」

 ヨアヒムは続けた。

「ですが殿下の周辺は、整っているようでいて、整える人間へ依存しすぎていた」

「わたくしが?」

「ええ」

 ためらいがない。

「侯爵令嬢ご自身は、それを“婚約者として当然の支え”と思っていた時期もあったのでしょうが」

 サビーネは少しだけ目を伏せた。

 それは事実だ。

「外から見れば、あれは支えというより代行に近い」

 父が低く言う。

「代行、か」

「はい」

 ヨアヒムは短く答える。

「そして代行される側は、往々にして、自分の能力と整えられた結果を混同します」

 ずいぶん刺さる言い方だ。

 けれど、セドリックという男をこれ以上なく正確に表している気がする。

 結果が整っている。

 だから自分はできている。

 そう思い込んでいたのだろう。

 その下に、誰の手があり、どれだけの気遣いと手数が流れていたかも知らずに。

「……ひどい話ですわね」

 サビーネがこぼすと、ヨアヒムは少しだけ視線を向けた。

「ええ。ひどい話です」

 前にも似たようなやり取りをした気がする、とサビーネは思った。

 この人は、慰めはしないが、事実に同意はする。

 そこが変にありがたい。

 父が机の上へ指を置く。

「ベルナール監督官。お前は今回、王家へどこまで言う気だ」

「監査局としては、寄付金管理と公的行事の私的流用についてのみです」

「婚約問題には踏み込まん」

「ええ。ただし」

 ヨアヒムの目が静かに細まる。

「公的な場に私的関係がどの程度食い込んでいたかを問われれば、答えます」

 父はその返答を聞いて、短くうなずいた。

「結構だ」

 会話はそこで一度切れた。

 沈黙が落ちる。

 だが気まずい沈黙ではなかった。必要なことだけが机の上に並び、それ以外が置かれていない静けさだ。

 サビーネはふと気づく。

 ヨアヒムと話していると、変に見栄を張らなくてよくなる。

 優雅に見せる必要も、傷ついていないふりをする必要もない。事実として話し、事実として返ってくるからだ。

 それは社交界ではまず得られない楽さだった。

「侯爵令嬢」

 不意に呼ばれ、サビーネは顔を上げた。

「何でしょう」

「明日の話し合いですが、相手があなたへ直接“殿下もお傷つきです”といった方向へ誘導してきた場合」

 サビーネはわずかに眉を寄せた。

「ありそうですわね」

「ええ。十分に」

「その時は?」

「受け止める必要はありません」

 ヨアヒムは淡々と言う。

「殿下の感情を否定する必要もありませんが、優先順位を譲る必要はない」

 優先順位。

 なんて乾いた言葉だろう。

 でも、その乾き方が今はちょうどいい。

「あなたが先に語るべきは、昨夜の公開婚約破棄によって何が起きたかです」

「わたくしの気持ち、ではなく?」

「気持ちは後でよろしい」

 即答だった。

「先に事実。後から感情です」

 前にも言われたことだ。

 けれど今のサビーネには、それが少しずつ馴染み始めていた。

「まるで戦い方の指南ね」

 思わずそう言うと、ヨアヒムはほんの一瞬だけ表情を緩めた……ように見えた。

「実務です」

「あなたにかかると、色気のない言葉になるのね」

「余計な色気は判断を鈍らせますので」

 そこで、サビーネは思わず笑ってしまった。

 声を立てるほどではない。だが確かに笑った。

 自分でも少し驚く。

 ここ数日、笑う時はたいていマルゴの毒舌に押し出される形だったのに、今は違った。

 この地味な男は、本当に飾りがない。

 それなのに、話していると変に息が詰まらない。

 父が娘の笑いを横目で見てから、わざとらしく咳払いした。

「ベルナール監督官」

「はい」

「娘に戦い方を教えるのは結構だが、ほどほどにしておけ」

 サビーネは一瞬固まった。

 それはどういう意味なの、お父様。

 だが父の顔は真面目で、からかっているようには見えない。たぶん本当に、娘が妙にこの監督官の言葉を素直に聞いているのを見て、少し警戒したのだろう。

「心得ております」

 ヨアヒムはまったく乱れずに答えた。

 そこは乱れないのね、とサビーネは思う。

「本日は確認だけですので、これで失礼いたします」

 彼はそう言って立ち上がった。

 父も席を立ち、サビーネもそれに続く。

 扉のところで見送る間際、ヨアヒムはサビーネへ向き直った。

「侯爵令嬢」

「はい」

「昨日の茶会、行かれたそうですね」

 どこまで知っているの、この人は。

 サビーネは少しだけ目を丸くした。

「ええ」

「賢明です」

 短い。

 でも、やはりその一言は妙に胸へ残る。

「ありがとうございます」

「引っ込まなかったことに意味があります」

 それだけ告げると、ヨアヒムは本当にそれ以上何も足さずに退出した。

 扉が閉まり、応接室に父と娘だけが残る。

 しばらくしてから父が言った。

「妙な男だな」

「また同じことを」

「事実だ」

「でも、役には立つのでしょう?」

 前に父自身が言ったことを返すと、父は少しだけ不満そうな顔をした。

「……役には立つ」

 その言い方が少し可笑しくて、サビーネはまた微かに笑った。

 父は書類へ手を伸ばしながら、娘を見ずに言う。

「お前、あの男の前だと少し気が緩むな」

 どきりとした。

「そんなこと」

「ある」

 父はきっぱり言った。

「普段のお前なら、もっと飾った返事をする」

 サビーネは思わず黙る。

 否定しづらい。

 自分でも少し、そう感じていたからだ。

「別に悪いとは言わん」

 父が続ける。

「ただ、珍しいと思っただけだ」

 それだけ言って、また書類へ目を落とした。

 追及するつもりはないらしい。

 サビーネは窓の方へ視線を向けた。昼の光は少し傾き、庭の木々に長い影を落としている。

 気が楽になる。

 取り繕わなくていい。

 それは、強い言葉や甘い言葉より、ずっと深く効くものなのかもしれない。

 そして王宮ではその頃、セドリックが再び机に向かいながら苛立ちを募らせていた。

「なぜクラヴェル伯爵夫人の茶会へ、サビーネが出たとわざわざ報告する必要がある」

 そう言いながらも、彼は報告書から視線を外せない。

 出た。

 しかも、平然と。

 あれだけのことがあった翌日に。

 それはセドリックにとって、思った以上に嫌な報せだった。

 傷ついて引きこもっていてくれた方が、ずっと扱いやすかったのに。

「……あの女は」

 思わずこぼれた呟きに、返事をする者はいない。

 執務室の空気は重い。

 綻びは、もう誰の目にも見え始めている。

 それでもサビーネは、もうその縫い目を拾いに来ない。

 それが、セドリックには腹立たしくてたまらなかった。
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