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第十二話 あなたは笑っていい
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第十二話 あなたは笑っていい
夜は、昼の社交よりずっと正直だった。
昼間は背筋を伸ばしていられる。紅茶を持つ手の角度に気をつけ、笑う回数を数え、何を聞かれても答えを選べる。けれど夜になると、そういう細い糸が少しずつ緩む。
ドルレアン侯爵家の自室で、サビーネは窓辺に立っていた。
外はもう暗い。庭園の輪郭は月の光に薄く浮き、噴水の水音だけが遠くに聞こえる。昼間はあれほど整って見えた庭が、夜には少しだけ別の顔になるのが不思議だった。
きれいで、静かで、少し寂しい。
まるで今の自分みたいだ、と思って、すぐに嫌になった。
そういう感傷に浸るのは、どうにも性に合わない。
なのに胸の奥は、ちゃんと疲れている。茶会に出て、王宮からの手紙を受け取り、父と話し、ベルナール監督官まで来て、頭では立っていられても、体の方は案外正直らしかった。
扉が控えめに叩かれる。
「お嬢様」
「入って」
マルゴかと思った。だが入ってきたのは若い侍女で、「旦那様より、今夜はお休みくださいと」とだけ告げて一礼し、すぐに下がった。
お休みください。
父なりの気遣いなのだろう。明日の王宮での話し合いに備えろという意味でもあるし、これ以上何かを考え続けるなという意味でもある。
サビーネは少しだけ苦く笑った。
考えない、というのは案外難しい。
扉が再び叩かれる。
今度こそマルゴだった。トレイの上にティーポットと小さな焼き菓子を乗せている。
「夜食です」
「私、そんなに弱って見える?」
「はい」
即答だった。
サビーネは眉をひそめる。
「少しは迷いなさいよ」
「迷う余地がございませんので」
マルゴはテーブルに茶器を並べながら続けた。
「本日のお嬢様は、昼までが“勝つ顔”、夕方からが“考え込みすぎる顔”、そして今は“ろくでもないことを思い出している顔”です」
「最後、言い方がいやだわ」
「実態に沿っております」
茶が注がれる。夜向きなのか、昼のものより少し香りがやわらかい。マルゴなりの配慮だろう。
サビーネはソファに腰を下ろした。
「座っていいわよ」
「ありがとうございます」
侍女のくせに、そういう時だけ躊躇なく向かいへ座るのがこの女らしい。
しばらく二人とも黙っていた。
沈黙が気まずくないのは、ありがたいことだ。変に慰められるより、こういう間の方が今は楽だった。
先に口を開いたのは、やはりマルゴだった。
「明日、怖いですか」
あまりにもまっすぐで、サビーネは一瞬だけ目を瞬いた。
こういうことを真正面から聞く人は少ない。たいていは“ご緊張なさらず”とか“きっとうまくまいります”とか、曖昧な布を一枚かける。
でもマルゴは、そういう布を使わない。
「……ええ」
サビーネは答えた。
「怖いわ」
「何が一番?」
問いが重なる。
サビーネは少しだけ視線を落とした。カップの縁に指先を添え、ゆっくり考える。
「うまく言えないけれど」
「はい」
「王宮へ行くことも嫌だし、あちらが何を言うかも嫌。でも、一番嫌なのはたぶん……」
言葉が少しつかえる。
喉の奥が妙に熱い。
「明日、あの人たちが何事もなかったみたいな顔をして、“少し感情的になりすぎましたね”みたいにまとめようとすること」
マルゴは黙って聞いている。
「私が傷ついたことも、壇上であんなふうに上げられたことも、侯爵家が侮られたことも、全部ぼんやり薄めて、“まあ、お若い方同士にはよくあること”みたいにされるのが、たぶん一番嫌」
言い切ってから、自分で少し驚いた。
ああ、やっぱり自分はそこが嫌なのか、と改めてわかる。
婚約が壊れたことだけではない。
あれを“たいしたことではない出来事”として片づけられることが許せないのだ。
マルゴが言う。
「では、お嬢様の敵は明確です」
「明確?」
「はい。“なかったことにする力”です」
サビーネは顔を上げた。
それは思いがけず、しっくりくる表現だった。
王子でも、オディールでも、王宮の政務官でもない。
もちろん彼らは当事者だ。でももっと大きな敵は、こういう時に動き出す“うやむやにする力”“曖昧に丸める力”“仕方のないことだったと塗り替える力”なのかもしれない。
「……ずいぶん厄介ね」
「ええ。とても」
マルゴは平然とうなずく。
「ですが、お嬢様もすでに一度、それを壊しておいでです」
「壇上で?」
「はい」
マルゴはやわらかい声で言った。
「あの場で泣いて退かなかった時点で、“なかったことにする筋書き”は壊れております」
サビーネはソファの背へ少しだけもたれた。
そう言われると、少しだけ息がしやすい。
明日が怖くなくなるわけではない。けれど、すでに自分は一度あれを壊している。最初の一撃は終わっている。そう思うと、何も持たずに行くわけではない気がした。
「ねえ、マルゴ」
「はい」
「私、ちゃんとやれているのかしら」
思わずこぼれた問いだった。
勝つ顔をしろ、と言われてきた。引っ込むなとも言われた。記録を持て、事実を並べろと父にも監督官にも言われた。
でもそれら全部を守っていたとして、本当に自分は前へ進めているのだろうか。
ただ意地で立っているだけではないのか。
マルゴは少しだけ目を細めた。
「お嬢様は、たまに確認の仕方が雑です」
「どういう意味よ」
「“完璧にできているか”か“全部だめか”の二択で考えるからです」
ぐうの音も出ない。
「今のお嬢様は、完璧ではございません」
「そこは容赦ないのね」
「ですが、ちゃんと前へ進んでいます」
マルゴは一つずつ区切るように言った。
「泣き崩れず、引きこもらず、王宮からの手紙を父上に通し、監督官の話も聞き、茶会にも出た。十分です」
十分。
その言葉が、妙に温かく響いた。
大成功でも、完全勝利でもなくていい。十分。今の自分にはそのくらいの言葉がちょうどよかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
マルゴは間を置いてから、ふと声を落とした。
「でも、お嬢様」
「何」
「本当に一番痛いところは、まだ別ではありませんか」
サビーネの指先が止まる。
別。
その一言に、胸の奥がざわついた。
「別って……」
「殿下がどうとか、王宮がどうとか、社交界がどうとか、そういう外側ではなく」
マルゴは目を逸らさない。
「お嬢様が、本当に悔しかったことです」
サビーネは答えられなかった。
悔しかったこと。
いくらでもある。壇上に上げられたこと。悪女扱いされたこと。侯爵家が侮られたこと。オディールが隣に立っていたこと。
でも、もっと奥に何かあるのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の中に急に鮮やかな感情が浮かんだ。
惨めだったのだ。
自分が。
ずっと支えてきた相手に、便利に使われていただけだったのかもしれないと知ったことが。
自分の努力も気遣いも、愛情ですらなく、ただ“都合のいい手”として消費されていたのだと突きつけられたことが。
どうしようもなく、惨めで、悔しかった。
「……私」
声が少し掠れる。
「私ね、あの人のこと、ちゃんと支えようと思っていたの」
マルゴは黙っている。
「完璧な殿下だなんて思っていなかったわ。失言も多いし、気分屋だし、見栄っ張りだし……わかっていた。だからこそ、少しでも整えたかったの。婚約者として、王家に嫁ぐなら、それくらいは当然だと思っていたし」
そこまで言って、喉が詰まる。
「でも、あの人にとって私は……」
言葉の続きが、少しだけ苦しかった。
「私は、ただ後ろで縫い物をしてる手みたいなものだったのかもしれないって思ったら」
涙が出るかと思った。
でも、不思議とこぼれなかった。
代わりに、胸の奥がじくじく熱かった。
「……それが、一番みじめだった」
言い切ったあと、部屋がしんと静まる。
恥ずかしいことを言った気がした。婚約が破綻したあとで、まだこんなことで傷ついているなんて、あまりにも間抜けではないかと。
でもマルゴは笑わなかった。
慰めもしなかった。
ただ、まっすぐに言った。
「ええ。みじめだったでしょうね」
その一言だけで、サビーネは肩の力が抜けそうになる。
違う、そうじゃない、と否定されなかった。
“そんなことありません”と軽く流されなかった。
みじめだったでしょうね、と事実として受け取られたことが、なぜだかひどくありがたかった。
「……ひどい侍女だわ」
「よく言われます」
「そんなことまで認めなくてよかったのに」
「認めるべきことを認めないと、お嬢様は次へ進めませんので」
またそれだ。
甘やかさないくせに、置いてもいかない。
この侍女は本当に厄介だ。
「でも」
マルゴは少しだけ声をやわらげた。
「その“みじめだった”は、お嬢様の価値とは別の話です」
サビーネは目を上げる。
「別、なの?」
「はい。殿下が見る目を持っていなかったことと、お嬢様が軽い人間だったことは、同じではありません」
はっきり言われて、胸の奥が痛いような、温かいような感覚になる。
「殿下は、整えられた結果だけを自分の力と勘違いしておいでだったのでしょう」
マルゴは続ける。
「ですが、それは殿下の愚かさであって、お嬢様の価値を下げる話ではございません」
言葉は簡単だ。簡単なのに、そこへたどり着くまでが難しい。
サビーネはカップに残っていた茶を飲み干した。もう少し冷めていたが、そのくらいでよかった。
「……ねえ」
「はい」
「私、笑っていいのかしら」
ぽつりと出た言葉だった。
泣いてもいい。傷ついてもいい。怒ってもいい。
そこまではわかる。
でも、笑っていいのかはわからなかった。
こんな目にあったあとで、笑うのは軽薄だろうか。痛みをなかったことにするみたいだろうか。
マルゴは少しだけ目を丸くした。
それから、あきれたように小さく息を吐く。
「もちろんです」
「そんなに即答するのね」
「はい。なぜなら、お嬢様がずっと真面目すぎるからです」
サビーネは眉を寄せた。
「真面目すぎる?」
「ええ」
マルゴはうなずく。
「お嬢様は、傷ついたらそれに見合うだけちゃんと苦しまなければならない、とどこかで思っておいでです」
図星だった。
痛いのだから、軽く笑ってはいけない。悔しいのだから、すぐに明るい顔をしてはいけない。あんなことがあったのだから、しばらくは沈んでいるのが自然だ。
どこかで、そう思っていた。
「でも、違います」
マルゴはきっぱり言った。
「笑える時に笑ってよろしいのです。痛いことと、笑ってはいけないことは別です」
サビーネは何も言わなかった。
「お嬢様は、殿下の愚かさを見て呆れてもよろしいし、監督官の妙な言い回しで笑ってもよろしいし、わたくしの名助言に感心してもよろしいのです」
「最後だけ自分を盛ったわね」
「当然です」
そこで、ようやくサビーネは笑った。
ちゃんと、笑った。
大きな声ではない。でも、少し肩が揺れるくらいには。
泣いていたわけでもないのに、笑った瞬間に胸のつかえが少し軽くなる。
ああ、とサビーネは思う。
自分はずっと、笑うことまで誰かに許可を求めていたのかもしれない。
傷ついた娘は、しばらく痛い顔をしていなければならない。そういう役まで、自分で背負い込んでいたのだ。
でももういい。
壇上で悪女役を押しつけられたのだから、そのあとくらい、自分で表情を選んでいいはずだ。
「……そうね」
サビーネは笑みの余韻を残したまま言った。
「笑っていいのよね」
「ええ。大いに」
「じゃあ、明日王宮で誰かが“若い方同士のすれ違いでして”なんて言ったら、笑ってしまうかもしれないわ」
「そこは我慢してください」
マルゴが真顔で返すので、サビーネはまた笑った。
笑ったあとで、自分でも驚くほど呼吸が楽になっていることに気づく。
痛みが消えたわけではない。惨めだった記憶もなくならない。
でも、それらを抱えたまま、笑ってもいい。
それはたぶん、前へ進むために必要な自由だった。
窓の外では、月が少し高くなっていた。
明日は王宮だ。面倒で、嫌で、気を抜けない一日になるだろう。
それでも今夜、サビーネは少しだけ救われていた。
泣いてもいい。怒ってもいい。笑ってもいい。
自分の顔くらい、自分で選んでいいのだと。
そのことを、ようやく思い出せたのだから。
夜は、昼の社交よりずっと正直だった。
昼間は背筋を伸ばしていられる。紅茶を持つ手の角度に気をつけ、笑う回数を数え、何を聞かれても答えを選べる。けれど夜になると、そういう細い糸が少しずつ緩む。
ドルレアン侯爵家の自室で、サビーネは窓辺に立っていた。
外はもう暗い。庭園の輪郭は月の光に薄く浮き、噴水の水音だけが遠くに聞こえる。昼間はあれほど整って見えた庭が、夜には少しだけ別の顔になるのが不思議だった。
きれいで、静かで、少し寂しい。
まるで今の自分みたいだ、と思って、すぐに嫌になった。
そういう感傷に浸るのは、どうにも性に合わない。
なのに胸の奥は、ちゃんと疲れている。茶会に出て、王宮からの手紙を受け取り、父と話し、ベルナール監督官まで来て、頭では立っていられても、体の方は案外正直らしかった。
扉が控えめに叩かれる。
「お嬢様」
「入って」
マルゴかと思った。だが入ってきたのは若い侍女で、「旦那様より、今夜はお休みくださいと」とだけ告げて一礼し、すぐに下がった。
お休みください。
父なりの気遣いなのだろう。明日の王宮での話し合いに備えろという意味でもあるし、これ以上何かを考え続けるなという意味でもある。
サビーネは少しだけ苦く笑った。
考えない、というのは案外難しい。
扉が再び叩かれる。
今度こそマルゴだった。トレイの上にティーポットと小さな焼き菓子を乗せている。
「夜食です」
「私、そんなに弱って見える?」
「はい」
即答だった。
サビーネは眉をひそめる。
「少しは迷いなさいよ」
「迷う余地がございませんので」
マルゴはテーブルに茶器を並べながら続けた。
「本日のお嬢様は、昼までが“勝つ顔”、夕方からが“考え込みすぎる顔”、そして今は“ろくでもないことを思い出している顔”です」
「最後、言い方がいやだわ」
「実態に沿っております」
茶が注がれる。夜向きなのか、昼のものより少し香りがやわらかい。マルゴなりの配慮だろう。
サビーネはソファに腰を下ろした。
「座っていいわよ」
「ありがとうございます」
侍女のくせに、そういう時だけ躊躇なく向かいへ座るのがこの女らしい。
しばらく二人とも黙っていた。
沈黙が気まずくないのは、ありがたいことだ。変に慰められるより、こういう間の方が今は楽だった。
先に口を開いたのは、やはりマルゴだった。
「明日、怖いですか」
あまりにもまっすぐで、サビーネは一瞬だけ目を瞬いた。
こういうことを真正面から聞く人は少ない。たいていは“ご緊張なさらず”とか“きっとうまくまいります”とか、曖昧な布を一枚かける。
でもマルゴは、そういう布を使わない。
「……ええ」
サビーネは答えた。
「怖いわ」
「何が一番?」
問いが重なる。
サビーネは少しだけ視線を落とした。カップの縁に指先を添え、ゆっくり考える。
「うまく言えないけれど」
「はい」
「王宮へ行くことも嫌だし、あちらが何を言うかも嫌。でも、一番嫌なのはたぶん……」
言葉が少しつかえる。
喉の奥が妙に熱い。
「明日、あの人たちが何事もなかったみたいな顔をして、“少し感情的になりすぎましたね”みたいにまとめようとすること」
マルゴは黙って聞いている。
「私が傷ついたことも、壇上であんなふうに上げられたことも、侯爵家が侮られたことも、全部ぼんやり薄めて、“まあ、お若い方同士にはよくあること”みたいにされるのが、たぶん一番嫌」
言い切ってから、自分で少し驚いた。
ああ、やっぱり自分はそこが嫌なのか、と改めてわかる。
婚約が壊れたことだけではない。
あれを“たいしたことではない出来事”として片づけられることが許せないのだ。
マルゴが言う。
「では、お嬢様の敵は明確です」
「明確?」
「はい。“なかったことにする力”です」
サビーネは顔を上げた。
それは思いがけず、しっくりくる表現だった。
王子でも、オディールでも、王宮の政務官でもない。
もちろん彼らは当事者だ。でももっと大きな敵は、こういう時に動き出す“うやむやにする力”“曖昧に丸める力”“仕方のないことだったと塗り替える力”なのかもしれない。
「……ずいぶん厄介ね」
「ええ。とても」
マルゴは平然とうなずく。
「ですが、お嬢様もすでに一度、それを壊しておいでです」
「壇上で?」
「はい」
マルゴはやわらかい声で言った。
「あの場で泣いて退かなかった時点で、“なかったことにする筋書き”は壊れております」
サビーネはソファの背へ少しだけもたれた。
そう言われると、少しだけ息がしやすい。
明日が怖くなくなるわけではない。けれど、すでに自分は一度あれを壊している。最初の一撃は終わっている。そう思うと、何も持たずに行くわけではない気がした。
「ねえ、マルゴ」
「はい」
「私、ちゃんとやれているのかしら」
思わずこぼれた問いだった。
勝つ顔をしろ、と言われてきた。引っ込むなとも言われた。記録を持て、事実を並べろと父にも監督官にも言われた。
でもそれら全部を守っていたとして、本当に自分は前へ進めているのだろうか。
ただ意地で立っているだけではないのか。
マルゴは少しだけ目を細めた。
「お嬢様は、たまに確認の仕方が雑です」
「どういう意味よ」
「“完璧にできているか”か“全部だめか”の二択で考えるからです」
ぐうの音も出ない。
「今のお嬢様は、完璧ではございません」
「そこは容赦ないのね」
「ですが、ちゃんと前へ進んでいます」
マルゴは一つずつ区切るように言った。
「泣き崩れず、引きこもらず、王宮からの手紙を父上に通し、監督官の話も聞き、茶会にも出た。十分です」
十分。
その言葉が、妙に温かく響いた。
大成功でも、完全勝利でもなくていい。十分。今の自分にはそのくらいの言葉がちょうどよかった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
マルゴは間を置いてから、ふと声を落とした。
「でも、お嬢様」
「何」
「本当に一番痛いところは、まだ別ではありませんか」
サビーネの指先が止まる。
別。
その一言に、胸の奥がざわついた。
「別って……」
「殿下がどうとか、王宮がどうとか、社交界がどうとか、そういう外側ではなく」
マルゴは目を逸らさない。
「お嬢様が、本当に悔しかったことです」
サビーネは答えられなかった。
悔しかったこと。
いくらでもある。壇上に上げられたこと。悪女扱いされたこと。侯爵家が侮られたこと。オディールが隣に立っていたこと。
でも、もっと奥に何かあるのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の中に急に鮮やかな感情が浮かんだ。
惨めだったのだ。
自分が。
ずっと支えてきた相手に、便利に使われていただけだったのかもしれないと知ったことが。
自分の努力も気遣いも、愛情ですらなく、ただ“都合のいい手”として消費されていたのだと突きつけられたことが。
どうしようもなく、惨めで、悔しかった。
「……私」
声が少し掠れる。
「私ね、あの人のこと、ちゃんと支えようと思っていたの」
マルゴは黙っている。
「完璧な殿下だなんて思っていなかったわ。失言も多いし、気分屋だし、見栄っ張りだし……わかっていた。だからこそ、少しでも整えたかったの。婚約者として、王家に嫁ぐなら、それくらいは当然だと思っていたし」
そこまで言って、喉が詰まる。
「でも、あの人にとって私は……」
言葉の続きが、少しだけ苦しかった。
「私は、ただ後ろで縫い物をしてる手みたいなものだったのかもしれないって思ったら」
涙が出るかと思った。
でも、不思議とこぼれなかった。
代わりに、胸の奥がじくじく熱かった。
「……それが、一番みじめだった」
言い切ったあと、部屋がしんと静まる。
恥ずかしいことを言った気がした。婚約が破綻したあとで、まだこんなことで傷ついているなんて、あまりにも間抜けではないかと。
でもマルゴは笑わなかった。
慰めもしなかった。
ただ、まっすぐに言った。
「ええ。みじめだったでしょうね」
その一言だけで、サビーネは肩の力が抜けそうになる。
違う、そうじゃない、と否定されなかった。
“そんなことありません”と軽く流されなかった。
みじめだったでしょうね、と事実として受け取られたことが、なぜだかひどくありがたかった。
「……ひどい侍女だわ」
「よく言われます」
「そんなことまで認めなくてよかったのに」
「認めるべきことを認めないと、お嬢様は次へ進めませんので」
またそれだ。
甘やかさないくせに、置いてもいかない。
この侍女は本当に厄介だ。
「でも」
マルゴは少しだけ声をやわらげた。
「その“みじめだった”は、お嬢様の価値とは別の話です」
サビーネは目を上げる。
「別、なの?」
「はい。殿下が見る目を持っていなかったことと、お嬢様が軽い人間だったことは、同じではありません」
はっきり言われて、胸の奥が痛いような、温かいような感覚になる。
「殿下は、整えられた結果だけを自分の力と勘違いしておいでだったのでしょう」
マルゴは続ける。
「ですが、それは殿下の愚かさであって、お嬢様の価値を下げる話ではございません」
言葉は簡単だ。簡単なのに、そこへたどり着くまでが難しい。
サビーネはカップに残っていた茶を飲み干した。もう少し冷めていたが、そのくらいでよかった。
「……ねえ」
「はい」
「私、笑っていいのかしら」
ぽつりと出た言葉だった。
泣いてもいい。傷ついてもいい。怒ってもいい。
そこまではわかる。
でも、笑っていいのかはわからなかった。
こんな目にあったあとで、笑うのは軽薄だろうか。痛みをなかったことにするみたいだろうか。
マルゴは少しだけ目を丸くした。
それから、あきれたように小さく息を吐く。
「もちろんです」
「そんなに即答するのね」
「はい。なぜなら、お嬢様がずっと真面目すぎるからです」
サビーネは眉を寄せた。
「真面目すぎる?」
「ええ」
マルゴはうなずく。
「お嬢様は、傷ついたらそれに見合うだけちゃんと苦しまなければならない、とどこかで思っておいでです」
図星だった。
痛いのだから、軽く笑ってはいけない。悔しいのだから、すぐに明るい顔をしてはいけない。あんなことがあったのだから、しばらくは沈んでいるのが自然だ。
どこかで、そう思っていた。
「でも、違います」
マルゴはきっぱり言った。
「笑える時に笑ってよろしいのです。痛いことと、笑ってはいけないことは別です」
サビーネは何も言わなかった。
「お嬢様は、殿下の愚かさを見て呆れてもよろしいし、監督官の妙な言い回しで笑ってもよろしいし、わたくしの名助言に感心してもよろしいのです」
「最後だけ自分を盛ったわね」
「当然です」
そこで、ようやくサビーネは笑った。
ちゃんと、笑った。
大きな声ではない。でも、少し肩が揺れるくらいには。
泣いていたわけでもないのに、笑った瞬間に胸のつかえが少し軽くなる。
ああ、とサビーネは思う。
自分はずっと、笑うことまで誰かに許可を求めていたのかもしれない。
傷ついた娘は、しばらく痛い顔をしていなければならない。そういう役まで、自分で背負い込んでいたのだ。
でももういい。
壇上で悪女役を押しつけられたのだから、そのあとくらい、自分で表情を選んでいいはずだ。
「……そうね」
サビーネは笑みの余韻を残したまま言った。
「笑っていいのよね」
「ええ。大いに」
「じゃあ、明日王宮で誰かが“若い方同士のすれ違いでして”なんて言ったら、笑ってしまうかもしれないわ」
「そこは我慢してください」
マルゴが真顔で返すので、サビーネはまた笑った。
笑ったあとで、自分でも驚くほど呼吸が楽になっていることに気づく。
痛みが消えたわけではない。惨めだった記憶もなくならない。
でも、それらを抱えたまま、笑ってもいい。
それはたぶん、前へ進むために必要な自由だった。
窓の外では、月が少し高くなっていた。
明日は王宮だ。面倒で、嫌で、気を抜けない一日になるだろう。
それでも今夜、サビーネは少しだけ救われていた。
泣いてもいい。怒ってもいい。笑ってもいい。
自分の顔くらい、自分で選んでいいのだと。
そのことを、ようやく思い出せたのだから。
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スペイラ帝国では身分に縛られず働ける。エマは前世の技術を活かし、石を磨いてアクセサリーを作る小さな露店を始める。石に意味を込めた腕輪やペンダントは人々の心を掴み、体験教室も開かれるようになる。伯爵夫人だった頃よりも、今の方がずっと「生きている」と実感していた。
ある朝、ロドリゲスが市場を訪れ、エマの作ったタイガーアイの腕輪を購入する。ところがその夜、彼は驚いた様子で戻り、腕輪が力を一・五倍に高める魔道具だと判明したと告げる。エマ自身は無意識だったが、彼女の作るアクセサリーには確かな力が宿っていた。
後日二人は食事に出かけ、エマは自分が貴族の妻として離縁された過去を打ち明ける。ロドリゲスは強く憤り、「最悪な貴族だ」と彼女と一緒になって怒ってくれた。その気持ちが、エマにとって何よりの救いだった。彼は次に防御力を高める腕輪を依頼し、冒険者ギルドで正式な鑑定を受けるよう勧める。
翌日、冒険者ギルドで鑑定を行った結果、エマの腕輪は高い防御効果を持つことが判明。さらに彼女自身を鑑定すると、なんと「付与特化型聖女」であることが明らかになる。聖女が付与した魔道具は現実の力として強く発現するのだ。
価値がないと切り捨てられた人生は、ここでは確かな力となった。スペイラ帝国で、聖女エマの新しい人生が、静かに、そして輝かしく始まる。
第12回ネット小説大賞コミック部門入賞・コミカライズ企画進行「婚約破棄ですか? それなら昨日成立しましたよ、ご存知ありませんでしたか?」完結
まほりろ
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