『身代わりに差し出された令嬢ですが、呪われた公爵に溺愛されて本当の幸せを掴みました』

鷹 綾

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第10話 触れてはならない場所

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第10話 触れてはならない場所

 その夜、ノインは眠れずにいた。

 寝台に横たわり、天蓋越しに揺れる燭台の光を眺めながら、昼間の会話を何度も反芻する。

(呪いの“中心”……)

 フェルディナンドの言葉は、静かだった。
 だが、その裏に潜む重さは、はっきりと伝わってきた。

 ――触れれば、戻れない場所。

 それでも、怖さより先に浮かんだのは、彼の背中だった。

 * * *

 翌朝、ノインはいつもより早く目を覚ました。

 身支度を整え、廊下を歩く。
 執務室の扉の前で、一瞬だけ足が止まった。

(……大丈夫)

 小さく息を吸い、ノックする。

「入れ」

 聞き慣れた低い声。

 中に入ると、フェルディナンドはすでに書類を片づけていた。
 いつもの執務机ではなく、部屋の奥――暖炉の前に置かれた椅子が向かい合っている。

「……今日は、仕事を休む」

 唐突な宣言に、ノインは目を瞬かせた。

「え……?」

「君の言った通りだ。準備が必要だろう」

 そう言って、彼は手袋を外し、机の上に置いた。

 むき出しになった手。
 人の形をしているが、よく見れば、わずかに残る異質さ――呪いの痕跡。

 ノインは、無意識に喉を鳴らした。

「……怖いか?」

 不意に、問われる。

「……少し」

 正直に答える。

「でも……触れない方が、もっと怖いです」

 フェルディナンドは、短く息を吐いた。

「君は、本当に……」

 言葉を探し、やめたように首を振る。

「座れ」

 促され、ノインは向かいの椅子に腰を下ろした。
 距離は、腕一本分。

「今日は、“癒す”必要はない」

 彼は静かに言う。

「ただ、感じろ」

「感じる……?」

「ああ。私の魔力の流れ、呪いの滞り……」

 そして、低く告げる。

「拒否するなら、今だ」

 ノインは、一瞬だけ目を伏せ――すぐに顔を上げた。

「……拒否しません」

 彼女は、ゆっくりと手を伸ばす。

 指先が、空気を切り、ためらいながら近づく。

 ――触れた。

 その瞬間。

 ぞくり、と背中を冷たいものが走った。

(……なに、これ)

 痛みではない。
 恐怖でもない。

 ただ、重い。

 深く、暗く、底の見えない感覚。

 ノインの視界が、一瞬だけ揺らぐ。

 耳鳴り。
 遠くで、何かが軋む音。

「……っ」

 思わず、息を詰める。

「無理はするな」

 フェルディナンドの声が、すぐそばで聞こえた。

「……大丈夫です」

 そう言いながらも、ノインの手は震えていた。

(これが……“中心”の手前……?)

 今まで触れてきたのは、せいぜい“外殻”だったのだと、理解する。

 ここは違う。

 触れてはいけないと、本能が告げてくる場所。

 ノインは、意識を集中させた。

 癒そうとしない。
 溶かそうともしない。

 ただ、感じる。

 すると――

(……声?)

 言葉にならない何かが、胸の奥に流れ込んでくる。

 怒り。
 諦め。
 押し殺された孤独。

 ノインの喉が、きゅっと締まった。

「……フェルディナンド様」

 名を呼ぶ。

「あなた……ずっと、ひとりで……」

 その先は、言葉にならなかった。

 フェルディナンドは、目を閉じたまま答える。

「……ああ」

 否定しなかった。

「だから、ここから先は……」

 彼は、静かに続ける。

「触れれば、君も見ることになる」

 過去。
 傷。
 呪いが生まれた理由。

 ノインは、手を離さなかった。

「……見ます」

 小さく、しかし迷いなく言う。

「一緒に……背負います」

 その言葉に、フェルディナンドの指が、わずかに動いた。

 ――握り返す。

 それは、初めてだった。

 無意識ではなく、
 彼の意思で、誰かの手を取ったのは。

 暖炉の火が、ぱちりと音を立てる。

 静かな部屋の中で、
 ふたりは、まだ誰も踏み込んだことのない場所の入口に立っていた。

 呪いの核は、
 すぐそこまで、迫っている。
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