婚約破棄されたので、王太子はもう何も決めません

鷹 綾

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第五話 王都に走る違和感と、静観する者

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第五話 王都に走る違和感と、静観する者

 王都の空気が、わずかに変わり始めたのは、その数日後のことだった。

 表向き、街はいつも通りの賑わいを保っている。市場では商人が声を張り上げ、パン屋には焼きたての香りが漂い、酒場では王太子コンラートと新たな“聖女”エマの話題が、相変わらず好意的に語られていた。

「殿下はやはり民思いだ」 「支援金のおかげで、今月は助かったよ」 「エマ様の祈りも、本物だって噂だ」

 だが、その言葉の端々には、微妙な引っかかりが混じり始めていた。

「……ただ、次はいつ支給されるんだ?」 「来月も、同じように出るのかね?」

 問いは、答えを伴わないまま、宙に浮く。

 ノクティア侯爵邸の書斎で、エヴァレット・ノクティアはその様子を記した報告書を読み終え、静かに紙を重ねた。
 市場の動向、商人組合からの聞き取り、地方から上がってきた非公式な声。それらは、すべて彼女の予測通りに推移している。

「“不満”ではありませんわね……まだ」

 彼女はそう分析する。
 民は、怒ってはいない。
 ただ、首を傾げ始めているのだ。

 支援はあった。確かに助かった。
 だが、それが“続くのかどうか”が見えない。

 不安とは、怒りよりも厄介だ。
 声を上げる前に、静かに広がる。

 エヴァレットは、ペンを取り、いくつかの数字を書き留める。
 支援金の支給日、金額、流通への影響。
 それらを線で結ぶと、一つの事実が浮かび上がった。

「……継続性が、完全に考慮されていない」

 政策として、致命的だ。

 同じ頃、王宮ではコンラートが、上機嫌とは言い難い表情で玉座の前に立っていた。

「なぜだ。なぜ、また陳情が増えている?」

 彼の前には、地方から届いた要望書が山のように積まれている。
 内容は似通っていた。

 ――次回の支援について。
 ――今後の方針について。
 ――約束は、継続されるのか。

「不安が広がっているのです、殿下」

 側近の一人が、慎重に言葉を選びながら答える。

「支援を一度行った以上、次を期待するのは自然かと……」

「だから、安心させればいい!」

 コンラートは苛立ちを隠さず、声を荒げた。

「エマ、君はどう思う?」

 名を呼ばれ、エマは一瞬、言葉に詰まった。
 彼女は聖女だが、政策に関しては何の訓練も受けていない。

「えっと……わ、わたしは……殿下のお考えが正しいと思います。民の心は、信じることで救われますから……」

 曖昧な答えだったが、コンラートは満足げに頷いた。

「そうだ。民は、信じたいのだ。ならば、私はそれに応える」

 そう言って、彼は新たな命令書に署名する。

 ――次回支援の検討開始。

 だが、検討と実行は違う。
 その差を、彼は深く考えなかった。

 一方、宰相府では、ヴォルフガング・ハルトマンが静かに状況を見守っていた。

「王太子は、次の一手を打つつもりだな」

「はい。ただし……財源の目処は、相変わらず不明です」

 補佐官の報告に、ヴォルフガングは短く息を吐く。

「想定通りだ。彼は“期待”で時間を稼ぐつもりだろう」

「止めますか?」

 その問いに、ヴォルフガングは即答しなかった。
 しばし沈黙し、やがて静かに言う。

「いや。まだだ」

 彼は机上の書類に目を落とす。
 そこには、エヴァレット・ノクティアの分析が添えられていた。

「今、止めれば“妨害”になる。だが、もう少し進めば――“検証”になる」

 王太子の政策が、善意だけで成り立たないことを、誰の目にも明らかにするために。

 ノクティア侯爵邸では、夕暮れの庭をエヴァレットが歩いていた。
 風は穏やかで、木々の葉が静かに揺れている。

「……焦り始めるのは、もう少し先」

 支援が一度あると、人はそれを“基準”にしてしまう。
 次がないと知った瞬間、違和感は疑念に変わる。

 そして疑念は、必ず問いを生む。

「なぜ、続かないのか」 「なぜ、説明がないのか」

 それらは、感情ではなく、理屈だ。
 最も誤魔化しにくい。

 エヴァレットは立ち止まり、空を見上げた。
 まだ嵐の兆しはない。だが、風向きは確実に変わっている。

「……次は、“説明責任”ですわね」

 誰かを責める必要はない。
 ただ、問いに答えられない者が、表に出るだけだ。

 王太子コンラートは、まだ自分が主導権を握っていると思っている。
 だが、その足元では、静かに、確実に、別の基準が形成されつつあった。

 それを作っているのは、
 声高に叫ぶ者ではない。

 何もせず、ただ“見ている”者だった。
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