婚約破棄されたので、王太子はもう何も決めません

鷹 綾

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第八話 王太子の沈黙と、埋められていく空白

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第八話 王太子の沈黙と、埋められていく空白

 沈黙というものは、音がないからこそ、時に叫び声よりも大きく響く。

 王太子コンラートは、まさにその沈黙の中心に立たされていた。
 いや、立っている“つもり”でいるだけで、実際には、立場という名の足場はすでに脆く崩れ始めている。

 王宮の回廊を歩くたび、彼は気配の変化を感じていた。
 以前なら、足を止めて頭を下げてきた者たちが、今は一瞬ためらい、距離を測るような視線を向けてくる。

「……どうなっている」

 小さく呟いた言葉は、誰にも拾われない。

 執務室に戻ると、机の上には今日も書簡が積まれていた。
 地方領主、商人組合、騎士団関係者。
 内容はすべて同じだ。

 ――今後の方針を示してほしい。
 ――責任者としての見解を示してほしい。

 コンラートは、一通を手に取り、苛立ちを隠せず投げ出した。

「なぜ、私ばかりが……!」

 彼の脳裏には、かつての光景が浮かぶ。
 エヴァレット・ノクティアが、淡々と書類を整え、判断材料を揃え、決断の“形”を用意していた日々。

 ――あれは、当たり前ではなかったのか?

 その疑問が浮かび、すぐに振り払われる。

「いや……あれは、婚約者としての義務だったはずだ」

 そう言い聞かせなければ、自分が無能であることを認めることになる。

 一方、王宮の別の場所では、静かに空白が埋められつつあった。

 宰相府の会議室。
 ヴォルフガング・ハルトマンの前には、複数の領主代理と、商人組合の代表が並んでいる。

「本日は、今後の暫定的な運用について、実務的な合意を形成する」

 淡々とした宣言に、誰も異を唱えない。

「王太子殿下の最終判断を待つ、という選択肢もある。しかし、その間に停滞が生じることは許容できない」

 彼は、資料を一枚、机の中央に置いた。

「よって、宰相府の権限において、三ヶ月間の暫定措置を実行する」

 それは、本来、王太子が音頭を取るべき内容だった。
 だが、今や誰も、その不在を口にしない。

「……異論は?」

 沈黙。
 それは、同意の証だった。

 王国は、止まれない。
 止まらないために、誰かが舵を取る必要がある。

 ノクティア侯爵邸では、エヴァレット・ノクティアがその動きを、静かに把握していた。

「宰相府が、暫定措置を正式に始動……」

 報告を読み、彼女は小さく頷く。

「想定通りですわ」

 それは、彼女が望んだ結果ではない。
 だが、予測した結果ではあった。

 王太子が沈黙すれば、空白が生まれる。
 空白があれば、誰かが埋める。

 それが、組織というものだ。

「……責められるべきは、沈黙そのものではありません」

 エヴァレットは、そう考えている。
 問題なのは、“沈黙しても代わりがいる”と、周囲に示してしまうことだ。

 午後、王宮で開かれた小規模な会合に、コンラートは遅れて現れた。

 部屋に入った瞬間、彼は違和感を覚える。
 視線が集まるが、その中に、以前のような期待や敬意はない。

「……始めよう」

 そう言ったが、誰も動かない。

 しばしの沈黙の後、年配の貴族が口を開いた。

「殿下。まず、今後の財政方針について、お考えをお聞かせ願えますか」

 問いは丁寧だった。
 だが、逃げ道はない。

「それは……現在、検討中だ」

 答えた瞬間、空気がさらに重くなる。

「検討、とは……具体的に、いつまででしょうか」

「……」

 言葉が出てこない。

 誰かが小さく息を吸う音がした。
 それは、失望の音だった。

 会合は、形だけで終わった。
 決定はなく、方向性も示されない。

 部屋を出るとき、コンラートは確かに感じた。

 ――自分が、ここにいなくても、会合は成立する。

 その事実が、胸を締め付ける。

 夜、エヴァレットは書斎で一通の覚書を閉じた。
 宰相府からの非公式な報告だ。

「……もう、“王太子待ち”ではありませんのね」

 静かに呟く。

 それは、政変でも、反逆でもない。
 ただの実務の流れだ。

 だが、その流れに取り残された者は、確実に存在する。

 コンラートは、まだ王太子だ。
 だが、決断の場にいない王太子は、肩書きだけの存在になる。

「空白は、もう半分以上、埋まりましたわ」

 エヴァレットは窓辺に立ち、夜の王都を見下ろした。

 灯りは、変わらずとも、
 その下で動く力関係は、確実に変わっている。

 沈黙は、守りではない。
 沈黙は、席を譲る行為なのだ。

 そして今、王太子コンラートは、
 自らの沈黙によって、その席を手放しつつあった。
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