10 / 40
第十話 象徴であるという自覚
しおりを挟む
第十話 象徴であるという自覚
「……象徴、だと?」
その言葉が、王太子コンラートの耳に届いたのは、偶然だった。
だが、偶然という名の必然は、往々にして人の心を正確に刺す。
王宮の回廊。
薄く開いた扉の向こうで、重臣たちが低い声で会話を交わしていた。
「宰相府主導で問題はありませんな」 「ええ。現場は落ち着いておりますし……」 「王太子殿下は、まあ……象徴としておられれば」
そこで言葉は途切れた。
配慮なのか、無意識なのか。どちらにせよ、続きは必要なかった。
コンラートは、その場を離れた。
足音を立てず、誰にも気づかれないように。
――象徴。
頭の中で、その言葉が何度も反響する。
王太子とは、王になる前の存在だ。
未来の責任を背負う者であり、国を導く準備をする立場だ。
それが、象徴?
「……違う。そんなはずはない」
自室に戻り、扉を閉めた瞬間、彼は机に手をついた。
息が荒くなる。心臓の鼓動が、耳鳴りのように響く。
――私は、決断した。
――民のために、支援を行った。
――聖女を迎えた。
そう言い聞かせるたびに、別の声が重なってくる。
――では、なぜ説明できない。
――なぜ、誰も指示を求めてこない。
――なぜ、宰相府が回している。
答えは、分かっている。
だが、認めた瞬間、すべてが崩れる。
一方、宰相府では、ヴォルフガング・ハルトマンが静かに文書に目を通していた。
暫定措置は順調に機能し、流通も、財政も、最低限の安定を保っている。
「……人は、肩書きでは動かない」
独り言のように呟き、ペンを置く。
「動くのは、判断と責任だ」
その机の端には、ノクティア侯爵家からの報告があった。
エヴァレット・ノクティアの分析は、相変わらず簡潔で、冷静で、的確だった。
“象徴化が進行。実務の重心は完全に宰相府へ”
それを読んだヴォルフガングは、眉一つ動かさない。
「……彼女は、最後まで私情を挟まないな」
それが、評価だった。
ノクティア侯爵邸では、エヴァレットが、王都の情勢をまとめた報告を読み終えていた。
貴族サロン、商人組合、地方領主。
すべての言葉が、同じ方向を向き始めている。
「“殿下が決めるまで待つ”から、“宰相府で決めてほしい”へ……」
それは、明確な転換点だった。
「象徴という言葉は、便利ですわね」
エヴァレットは、皮肉でも嘲笑でもなく、事実としてそう思う。
象徴は、責められない。
同時に、評価もされない。
期待されず、失望もされず、
ただ、そこに“ある”だけ。
それは、王太子にとって最も耐え難い立場だ。
その頃、コンラートはエマと向き合っていた。
だが、かつてのような甘さは、空気にない。
「……エマ。皆が、私を象徴だと言っている」
問いかけは、弱々しかった。
「そ、そんな……殿下は、殿下です」
「それでは、足りない」
コンラートは、初めて強く言った。
「私は……決断する者でありたい」
エマは言葉に詰まる。
彼女には、決断を支える材料も、覚悟もない。
「祈ります……。神が、殿下に力を……」
「祈りでは、足りない!」
思わず声を荒げてしまい、コンラートは口を閉ざした。
その沈黙が、二人の距離をさらに広げる。
夜。
王宮の高い窓から、王都の灯りが見えた。
あの灯りは、今日も変わらず、回っている。
自分が何も決めなくても。
「……象徴、か」
コンラートは、椅子に深く腰を下ろす。
象徴であるということは、楽だ。
責任を取らなくていい。
判断を迫られない。
だが、それは同時に――
“不要である”という宣告でもある。
彼は、ようやく気づき始めていた。
象徴に甘んじるか、
決断する者に戻るか。
選ばなければならない。
同じ夜、エヴァレットは書斎の灯りを落とし、静かに窓を閉めた。
「……自覚した時点で、もう後戻りはできませんわ」
象徴という言葉の意味を理解した者は、
二度と、無自覚には戻れない。
王太子コンラートは、今、
初めて“選択”の前に立っていた。
それが、彼自身の意志によるものなのか、
追い詰められた末のものなのか――
その答えが示されるのは、
そう遠くない未来である。
「……象徴、だと?」
その言葉が、王太子コンラートの耳に届いたのは、偶然だった。
だが、偶然という名の必然は、往々にして人の心を正確に刺す。
王宮の回廊。
薄く開いた扉の向こうで、重臣たちが低い声で会話を交わしていた。
「宰相府主導で問題はありませんな」 「ええ。現場は落ち着いておりますし……」 「王太子殿下は、まあ……象徴としておられれば」
そこで言葉は途切れた。
配慮なのか、無意識なのか。どちらにせよ、続きは必要なかった。
コンラートは、その場を離れた。
足音を立てず、誰にも気づかれないように。
――象徴。
頭の中で、その言葉が何度も反響する。
王太子とは、王になる前の存在だ。
未来の責任を背負う者であり、国を導く準備をする立場だ。
それが、象徴?
「……違う。そんなはずはない」
自室に戻り、扉を閉めた瞬間、彼は机に手をついた。
息が荒くなる。心臓の鼓動が、耳鳴りのように響く。
――私は、決断した。
――民のために、支援を行った。
――聖女を迎えた。
そう言い聞かせるたびに、別の声が重なってくる。
――では、なぜ説明できない。
――なぜ、誰も指示を求めてこない。
――なぜ、宰相府が回している。
答えは、分かっている。
だが、認めた瞬間、すべてが崩れる。
一方、宰相府では、ヴォルフガング・ハルトマンが静かに文書に目を通していた。
暫定措置は順調に機能し、流通も、財政も、最低限の安定を保っている。
「……人は、肩書きでは動かない」
独り言のように呟き、ペンを置く。
「動くのは、判断と責任だ」
その机の端には、ノクティア侯爵家からの報告があった。
エヴァレット・ノクティアの分析は、相変わらず簡潔で、冷静で、的確だった。
“象徴化が進行。実務の重心は完全に宰相府へ”
それを読んだヴォルフガングは、眉一つ動かさない。
「……彼女は、最後まで私情を挟まないな」
それが、評価だった。
ノクティア侯爵邸では、エヴァレットが、王都の情勢をまとめた報告を読み終えていた。
貴族サロン、商人組合、地方領主。
すべての言葉が、同じ方向を向き始めている。
「“殿下が決めるまで待つ”から、“宰相府で決めてほしい”へ……」
それは、明確な転換点だった。
「象徴という言葉は、便利ですわね」
エヴァレットは、皮肉でも嘲笑でもなく、事実としてそう思う。
象徴は、責められない。
同時に、評価もされない。
期待されず、失望もされず、
ただ、そこに“ある”だけ。
それは、王太子にとって最も耐え難い立場だ。
その頃、コンラートはエマと向き合っていた。
だが、かつてのような甘さは、空気にない。
「……エマ。皆が、私を象徴だと言っている」
問いかけは、弱々しかった。
「そ、そんな……殿下は、殿下です」
「それでは、足りない」
コンラートは、初めて強く言った。
「私は……決断する者でありたい」
エマは言葉に詰まる。
彼女には、決断を支える材料も、覚悟もない。
「祈ります……。神が、殿下に力を……」
「祈りでは、足りない!」
思わず声を荒げてしまい、コンラートは口を閉ざした。
その沈黙が、二人の距離をさらに広げる。
夜。
王宮の高い窓から、王都の灯りが見えた。
あの灯りは、今日も変わらず、回っている。
自分が何も決めなくても。
「……象徴、か」
コンラートは、椅子に深く腰を下ろす。
象徴であるということは、楽だ。
責任を取らなくていい。
判断を迫られない。
だが、それは同時に――
“不要である”という宣告でもある。
彼は、ようやく気づき始めていた。
象徴に甘んじるか、
決断する者に戻るか。
選ばなければならない。
同じ夜、エヴァレットは書斎の灯りを落とし、静かに窓を閉めた。
「……自覚した時点で、もう後戻りはできませんわ」
象徴という言葉の意味を理解した者は、
二度と、無自覚には戻れない。
王太子コンラートは、今、
初めて“選択”の前に立っていた。
それが、彼自身の意志によるものなのか、
追い詰められた末のものなのか――
その答えが示されるのは、
そう遠くない未来である。
0
あなたにおすすめの小説
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
婚約者の私を見捨てたあなた、もう二度と関わらないので安心して下さい
神崎 ルナ
恋愛
第三王女ロクサーヌには婚約者がいた。騎士団でも有望株のナイシス・ガラット侯爵令息。その美貌もあって人気がある彼との婚約が決められたのは幼いとき。彼には他に優先する幼なじみがいたが、政略結婚だからある程度は仕方ない、と思っていた。だが、王宮が魔導師に襲われ、魔術により天井の一部がロクサーヌへ落ちてきたとき、彼が真っ先に助けに行ったのは幼馴染だという女性だった。その後もロクサーヌのことは見えていないのか、完全にスルーして彼女を抱きかかえて去って行くナイシス。
嘘でしょう。
その後ロクサーヌは一月、目が覚めなかった。
そして目覚めたとき、おとなしやかと言われていたロクサーヌの姿はどこにもなかった。
「ガラット侯爵令息とは婚約破棄? 当然でしょう。それとね私、力が欲しいの」
もう誰かが護ってくれるなんて思わない。
ロクサーヌは力をつけてひとりで生きていこうと誓った。
だがそこへクスコ辺境伯がロクサーヌへ求婚する。
「ぜひ辺境へ来て欲しい」
※時代考証がゆるゆるですm(__)m ご注意くださいm(__)m
総合・恋愛ランキング1位(2025.8.4)hotランキング1位(2025.8.5)になりましたΣ(・ω・ノ)ノ ありがとうございます<(_ _)>
「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして
東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。
破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。
恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ
棗
恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。
王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。
長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。
婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。
ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。
濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。
※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています
婚約破棄?悪役令嬢の復讐は爆速で。
ハチワレ
恋愛
「リリム・フォン・アスタロト! 貴様との婚約を破棄する!」
卒業パーティーの最中、婚約者である王太子エリオットから身に覚えのない罪を突きつけられた公爵令嬢リリム。隣には「真実の愛」を語るマシュマロ系男爵令嬢シャーリーの姿。
普通の令嬢なら泣き崩れる場面――だが、リリムは違った。
王妃様は死にました~今さら後悔しても遅いです~
由良
恋愛
クリスティーナは四歳の頃、王子だったラファエルと婚約を結んだ。
両親が事故に遭い亡くなったあとも、国王が大病を患い隠居したときも、ラファエルはクリスティーナだけが自分の妻になるのだと言って、彼女を守ってきた。
そんなラファエルをクリスティーナは愛し、生涯を共にすると誓った。
王妃となったあとも、ただラファエルのためだけに生きていた。
――彼が愛する女性を連れてくるまでは。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる