婚約破棄されたので、王太子はもう何も決めません

鷹 綾

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第十四話 取り戻せないものを、取り戻そうとする愚かさ

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第十四話 取り戻せないものを、取り戻そうとする愚かさ

 王太子コンラートは、自分の名が呼ばれなくなったことに、ようやく慣れ始めていた。

 ――慣れてしまったこと自体が、異常だ。

 かつては、廊下を歩けば誰かが足を止め、会議に顔を出せば自然と視線が集まった。
 意見を求められ、判断を仰がれ、時には反論されることもあった。

 だが今は違う。

 人々は、彼の前を通り過ぎる。
 礼は尽くすが、用件はない。
 言葉を交わしても、それは形式的なものだけだ。

「……完全に、変わったな」

 自嘲気味に呟いた声は、誰にも届かない。

 失ったものは、地位ではない。
 肩書きでもない。

 ――影響力だ。

 そしてその事実が、彼の中に、焦りとは別の感情を生み始めていた。

 後悔。

 王宮の執務室で、コンラートは一通の古い書簡を手に取っていた。
 差出人は、エヴァレット・ノクティア。

 婚約が続いていた頃、彼女が送ってきた進言の一つだ。
 財政の偏りを指摘し、長期的な調整を提案する、簡潔で理知的な文面。

「……この時は、理解したつもりでいた」

 いや、理解していなかった。
 聞いていたふりをして、決断を彼女に押し付けていただけだ。

 今さら、その事実が、重く胸にのしかかる。

「……戻せばいいのか?」

 ふと、そんな考えが浮かぶ。

 エヴァレットを、再び引き戻す。
 彼女がいれば、状況は変わるのではないか。

 それは、理屈ではなく、縋りだった。

 一方、ノクティア侯爵邸では、エヴァレット・ノクティアが静かに紅茶を口にしていた。
 窓の外では、庭師が淡々と仕事をしている。

「……殿下が、動かれ始めましたわね」

 宰相府経由で届いた非公式の報告を、彼女は読み終えたところだった。

「“過去の助言を再評価している”……ですか」

 その文言に、感情は動かない。

 評価するのは、言葉ではなく、行動だ。
 そして彼女は、過去に戻るつもりはなかった。

 午後、宰相府では、ヴォルフガング・ハルトマンが同じ報告を受け取っていた。

「王太子殿下が、過去の進言を洗い直している、と」

「遅すぎるな」

 短い一言。
 それで十分だった。

「人は、失って初めて価値に気づく。だが、気づいた時点で、もう手元にはない」

 それは、突き放す言葉ではない。
 ただの現実だ。

 その日の夕刻、王宮から一通の書簡が、ノクティア侯爵邸へと届けられた。

 差出人――王太子コンラート。

 エヴァレットは、封を切る前に、しばし指を止めた。
 中身は、想像できる。

 謝罪か。
 再評価か。
 あるいは、協力の要請か。

 どれであっても、答えは変わらない。

 静かに封を切り、目を通す。

『君の助言は、正しかった。
 今こそ、力を貸してほしい』

 簡潔な文面だった。
 だが、そこに責任という言葉はない。

 エヴァレットは、紙を畳み、机に置いた。

「……やはり、ですわね」

 彼は、失敗を取り戻そうとしている。
 だが、それは“責任を引き受ける”という形ではない。

 ただ、元に戻そうとしているだけだ。

 ――それは、最も愚かな選択。

 失われた信頼は、巻き戻せない。
 取り戻すには、新しい行動と、明確な責任が必要だ。

 その夜、エヴァレットは短い返書を書いた。

『私は、すでに侯爵家の立場として、最善を尽くしております。
 今後の国政判断については、宰相府の決定に従う所存です』

 それ以上でも、それ以下でもない。

 王太子コンラートは、その返書を読み、長く黙り込んだ。

 拒絶ではない。
 罵倒でもない。

 だが、それ以上に残酷な答えだった。

 ――もう、あなたの判断を前提にしていない。

 その事実を、彼は否応なく突きつけられる。

「……戻らない、か」

 呟きは、力なく床に落ちた。

 同じ夜、宰相府の執務室で、ヴォルフガングは書類に目を通しながら、静かに結論づけていた。

「過去に縋る者は、未来を失う」

 王太子コンラートは、ようやく理解し始めている。
 失ったのは、地位ではなく、信頼だということを。

 だが、理解することと、引き受けることは違う。

 取り戻せないものを、取り戻そうとする限り、
 彼は前に進めない。

 そして国は、
 彼を待つことなく、前へ進み続ける。
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