婚約破棄されたので、王太子はもう何も決めません

鷹 綾

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第二十七話 「戻らない」という選択

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第二十七話 「戻らない」という選択

 第十週目の週次報告は、数字そのものよりも、比較表が目を引いた。

 前週比、前々週比、そして――危機が表面化する直前の水準との比較。

 王太子コンラートは、無言でその表を眺めていた。

 税収は、まだ低い。
 流通量も、完全な回復には程遠い。

 だが、急落は止まり、
 極端なばらつきも消えている。

「……戻ってはいないが」

 小さく、そう呟く。

「戻らなくても、いい」

 その言葉に、側近がわずかに目を見開いた。

「殿下?」

「元の状態に、戻す必要はない」

 はっきりとした口調だった。

「戻そうとするから、無理が生じる。
 今は、“新しい安定”を選ぶ段階だ」

 それは、これまで誰も言わなかった判断だった。

 午前の定例会議。
 第十週目の数値が正式に読み上げられる。

「主要指標は、横ばいを維持。
 一部地域で、取引単価の緩やかな上昇を確認」

 実務官の声は、淡々としている。
 だが、会議室の空気は、以前とは違う。

 悲観も、期待もない。

 受け入れている空気だ。

「殿下」

 一人の官僚が、慎重に口を開いた。

「このまま安定が続けば、
 危機前の水準へ戻す施策を検討すべきでは?」

 その問いは、もっともだった。
 従来の王政なら、疑問ですらない。

 だが、コンラートは首を横に振った。

「戻さない」

 即答だった。

 ざわめきが起きる。

「危機前の水準は、
 不安定さを内包したまま積み上げられた数字だ」

 彼は、比較表を指し示す。

「見かけ上は良かった。
 だが、少しの不安で、あっさり崩れた」

 誰も反論できなかった。

「今の水準は低い。
 だが、現場が自分で支え、判断している」

 コンラートは、ゆっくりと視線を巡らせる。

「私は、戻るより、定着を選ぶ」

 ヴォルフガング・ハルトマンが、静かに頷いた。

「……勇気の要る判断ですな」

「ええ」

 コンラートは、否定しない。

「“戻さない”という選択は、
 必ず批判を呼ぶ」

 実際、その日のうちに、声は上がった。

「なぜ元に戻さない?」 「以前の水準に戻れば、皆が楽になる」 「慎重すぎるのではないか」

 だが、怒号ではない。
 議論の声だった。

 夜の説明の場。
 コンラートは、いつもより時間を取った。

「第十週目、数字は安定している」

 前置きは短い。

「だが、私は元の水準に戻す施策を取らない」

 ざわめきが広がる。

「理由は単純だ。
 戻すとは、以前と同じ構造に戻すということだからだ」

 資料が示される。
 危機前の歪な流通、過剰な信用、無理な拡大。

「この構造は、
 再び同じ不安を生む」

 批判が上がる。

「では、我慢し続けろというのか」 「いつまで、この水準なのか」

 コンラートは、逃げなかった。

「我慢を強いるつもりはない。
 だが、無理な回復もさせない」

 その言葉に、会場が静まる。

「今の水準を、
 基準にする」

 誰かが、息を呑んだ。

「ここから、少しずつ積み上げる。
 急がず、壊さず、現場の判断を前提に」

 それは、派手な約束ではない。
 だが、現実的だった。

 説明会の後、王都の酒場では、こんな会話が交わされていた。

「……戻らないってさ」 「ああ」 「正直、きついな」 「でも、無茶はしないって意味だろ」 「……それなら、やりようはあるか」

 “やりようがある”。

 その言葉が、自然に出てくる。

 ノクティア侯爵邸で、エヴァレット・ノクティアは報告を読み、静かに微笑んだ。

「……殿下は、もう数字に縛られていませんわね」

 以前なら、
 数字を戻すことが目的だった。

 今は違う。

「数字は、結果でしかない。
 基準をどこに置くかが、判断です」

 それを、彼は理解した。

 深夜、王宮の執務室。
 コンラートは、比較表を閉じ、灯りを落とした。

「……戻らない」

 もう一度、呟く。

 それは、諦めではない。
 選択だ。

 楽な道を捨て、
 不安定な成功を捨て、
 地味で壊れにくい道を選ぶ。

 王太子コンラートは、
 “以前より良く見える未来”ではなく、
 “崩れない未来”を選んだ。

 それは、拍手を生まない。
 だが、国を長く支える。

 この国は、もう戻らない。

 ――そして、
 それこそが、
 初めて前に進んだ証だった。
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