婚約破棄されたので、王太子はもう何も決めません

鷹 綾

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第三十三話 決めなかったという決断

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第三十三話 決めなかったという決断

 第十六週目の週次報告は、これまでと同じ数値を並べていた。

 税収、微増。
 流通量、横ばい。
 価格指数、安定。

 変化がない、という変化。
 それが、この数週間の共通項だった。

 だが、その朝、王太子コンラートの執務室に集まった空気は、いつもより張り詰めていた。
 理由は、数字ではない。

「……今日の議題は、一つです」

 午前の定例会議。
 コンラートは、資料を机に置かず、手ぶらで口を開いた。

「地方三都市から、同時に相談が来ている」

 実務官が、補足する。

「いずれも、事業継続か縮小かで迷っており、
 王宮としての“方向性”を求めています」

 方向性。
 それは、決断を代行してほしい、という意味でもある。

 会議室に、重い沈黙が落ちた。

 これまでの流れなら、
 何らかの指針を示し、
 条件を整え、
 判断を“支える”こともできただろう。

 だが、コンラートは、首を横に振った。

「……今回は、方向性を示さない」

 ざわめきが起きる。

「殿下?」

「責任放棄ではない」

 彼は、すぐに続けた。

「むしろ、責任を引き受ける判断だ」

 誰もが、その意味を測りかねている。

「彼らは、ここまで自分たちで考え、
 相談という形で言葉にした」

 それは、第三十二話で生まれた“声”の延長線だった。

「ここで王宮が“正解”を示せば、
 その瞬間、判断の主語は、再びこちらに戻る」

 ヴォルフガング・ハルトマンが、静かに頷く。

「……殿下は、
 “決めない”ことで、
 決断を返すおつもりですな」

「そうだ」

 コンラートは、肯定した。

「私は、選択肢は示す。
 条件も、情報も、すべて開示する」

 だが、と言葉を切る。

「どれを選ぶべきかは、言わない」

 会議室が、再び静まった。

 それは、逃げにも見える。
 冷酷にも見える。

 だが同時に、
 これまで積み上げてきた方針の、必然的な帰結でもあった。

 午後、王宮の小会議室に、三都市の代表が集められた。

 緊張した面持ち。
 期待と不安が、同時に滲んでいる。

「殿下」

 代表の一人が、口を開く。

「我々は、
 続けるべきか、
 縮めるべきか、
 判断に迷っています」

 コンラートは、深く頷いた。

「分かっている」

 だが、その先の言葉は、彼らの予想とは違った。

「私は、どれを選べとは言わない」

 空気が、一瞬で凍る。

「殿下……?」

「だが、材料はすべて出す」

 彼は、机の上に資料を並べた。

 需要予測。
 人口動態。
 技術継承のリスク。
 撤退した場合の影響。

「ここまで考えたのは、
 君たち自身だ」

 代表たちは、資料に目を落とし、言葉を失う。

「私は、
 “間違えない選択”を保証しない」

 はっきりと、そう告げる。

「だが、
 どの選択をしても、
 それを“失敗”とは呼ばせない」

 その言葉に、誰かが息を呑んだ。

「続けてもいい。
 縮めてもいい。
 一部を手放してもいい」

 彼は、静かに続ける。

「ただし、
 “王宮がそう言ったから”ではなく、
 “自分たちで選んだ”と言える形で、決めてほしい」

 長い沈黙のあと、
 代表の一人が、震える声で言った。

「……それは、
 とても怖いです」

「そうだろう」

 コンラートは、否定しない。

「だが、その怖さから逃げないことが、
 今の国には必要だ」

 会議は、それ以上進まなかった。
 結論も出ない。

 だが、誰も不満を口にしなかった。

 その夜、王都の酒場では、静かな話題として広がっていた。

「……王宮、決めなかったらしいな」 「ああ」 「普通なら、丸投げだって怒るところだが」 「……今回は、違う気がする」 「どう違う?」 「選べって言われた感じだ」 「……重いな」 「でも、逃げ場はない方が、腹はくくれる」

 “腹をくくる”。
 また、その言葉だ。

 ノクティア侯爵邸で、エヴァレット・ノクティアは、報告書を読み終え、静かに微笑んだ。

「……決めなかったという決断」

 それは、権力を振るわないという選択。
 最も誤解されやすく、
 最も孤独な判断だ。

「殿下は、
 もう“導く人”ではありませんわね」

 導くとは、前に立ち、道を示すこと。

 だが今の彼は違う。

「選ばせる人です」

 深夜、王宮の執務室。
 コンラートは、一人で椅子に座り、目を閉じていた。

「……決めなかった」

 それは、楽な判断ではない。
 批判も、誤解も、すべて引き受ける覚悟が要る。

 だが、
 誰かの人生を、
 誰かの街を、
 自分の言葉一つで縛らない。

「それが、
 今の私にできる、
 最大の責任だ」

 第十六週目は、
 何も決まらなかった週だった。

 だが――

 誰かが、自分で決めるための、
 最初の一歩が刻まれた週だった。

 王太子コンラートは、
 決断の重さを、
 自分一人で背負わないという決断を、
 静かに引き受けていた。
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