婚約破棄されたので、王太子はもう何も決めません

鷹 綾

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第三十五話 責任が戻る場所

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第三十五話 責任が戻る場所

 第十八週目の朝、王宮の回廊は、どこか落ち着いた空気に包まれていた。
 慌ただしく書類を運ぶ文官の足取りも、以前ほど切迫していない。

 王太子コンラートは、執務室の机に置かれた報告書の束を眺め、静かに息を吐いた。

 税収、微増。
 流通量、横ばい。
 価格指数、安定。

 もはや、危機を示す赤字はどこにもない。
 だが、それ以上に彼の目を引いたのは、数字の合間に挟まれた、いくつもの短い報告だった。

『地方都市エルヴァーン、事業統合後の初月報告』
『職人組合、再編後の稼働状況』
『縮小対象地区における住民説明会の実施』

 それらは、いずれも王宮の指示ではない。
 自分たちで決めた結果を、自分たちで報告してきている。

「……責任が、戻ってきているな」

 その言葉に、側近は小さく頷いた。

「はい。
 陳情ではなく、報告です」

 それが意味するものは、大きい。

 午前の定例会議では、久しぶりに、怒号も悲鳴も上がらなかった。

「エルヴァーンでは、統合による一時的な失業が発生していますが、
 職人組合が自主的に再配置を進めています」

「縮小を選んだ都市では、
 反対運動もありましたが、
 説明会後は沈静化しています」

 報告は淡々としていた。
 そこには、「どうにかしてください」という言葉がない。

 代わりにあるのは、
 「こうしました」
 「こうなっています」
 という、現在進行形の事実だけだ。

 コンラートは、静かに頷いた。

「……想定通りだ」

 誰かが、恐る恐る口を開く。

「殿下。
 このまま、王宮は何もしなくてよいのでしょうか」

 その問いに、彼は即答しなかった。

 少し考え、そして答える。

「何もしない、というのは違う」

 会議室の視線が集まる。

「責任を引き取らないだけだ」

 その言葉に、理解した者から、静かな息が漏れた。

「困っている現場を見捨てるわけではない。
 だが、決断までを肩代わりしない」

 ヴォルフガング・ハルトマンが、低く笑った。

「……殿下は、
 ようやく“王宮の役割”を整理なさったようですな」

「ええ」

 コンラートは肯定する。

「王宮は、
 考えるための材料を整える場所だ。
 決める場所ではない」

 午後、王都の市街では、再編の噂が市民の間に浸透し始めていた。

「……あの街、縮めたんだってな」 「苦しいだろうに」 「でも、逃げなかったらしい」 「王宮が決めたんじゃないんだろ?」 「ああ。
 自分たちで決めたって」

 評価は分かれている。
 同情もある。
 不満もある。

 だが、決定的に違うのは、
 怒りの矛先が王宮に向いていないことだった。

「文句はあるけどさ」 「決めたのが自分たちなら、
 言い過ぎるのも違う気がするな」

 それは、国の空気が変わり始めている証だった。

 ノクティア侯爵邸では、エヴァレット・ノクティアが各地の報告を読み比べていた。

「……失敗しても、
 すぐに“殿下のせい”とは書かれていませんわね」

 侍女が、静かに答える。

「はい。
 責任の所在が、文章からも分かります」

 それは、記録の変化であり、
 同時に、歴史の変化でもあった。

「これまで、
 王宮は責任を集めすぎていました」

 エヴァレットは、ゆっくりと目を閉じる。

「集めすぎた責任は、
 判断を鈍らせ、
 現場を黙らせます」

 だが今は違う。

「責任が、
 本来あるべき場所へ戻り始めています」

 夜、王宮の執務室。
 コンラートは、一通の短い手紙を読んでいた。

『再編は、正直つらい決断でした。
 ですが、
 自分たちで決めたからこそ、
 逃げずに向き合えています』

 署名は、地方都市の代表。

 彼は、手紙を丁寧に畳み、机に置いた。

「……これでいい」

 称賛はいらない。
 感謝も、必要ない。

 必要なのは、
 決めた人間が、
 その結果と向き合えること。

「責任を返すとは、
 突き放すことではない」

 むしろ、その逆だ。

「自分の人生を、
 自分のものとして扱わせることだ」

 第十八週目は、
 派手な出来事のない週だった。

 だが、国の中で、
 静かに、確実に、
 責任の重心が動いている。

 王太子コンラートは、
 王宮に集まらなくなった責任の重さを、
 不安ではなく、
 健全さとして受け止めていた。

 それは、王が強くなった証ではない。
 国が、自分の足で立ち始めた証だった。
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