引きこもり聖女は祈らない

鷹 綾

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第29話 初めて開いた窓

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第29話 初めて開いた窓

 昼になっても、空は明るさを取り戻さなかった。

 雲は低く垂れ下がり、湿った風が絶え間なく屋敷の外壁をなぞる。雨は止んだり降ったりを繰り返し、まるで空そのものが迷っているかのようだった。

 スター公爵家の一室。

 分厚いカーテンの向こうで、ポーラ・スターは静かに立っていた。

 彼女は、ずっと部屋に籠もってきた。
 外を見る必要がなかったからではない。
 外を「見なくても分かっていた」からだ。

 風の向き。
 空気の重さ。
 遠くで鳴る雷の反響。

 それらは、閉ざされた部屋の中にいても、彼女には伝わってくる。

 だが今日は、違った。

 胸の奥で、これまでにない違和感が、静かに波打っている。

 ポーラは、ゆっくりとカーテンに手をかけた。

 その指先が、わずかに震える。

 怖いわけではない。
 外が嫌なわけでもない。

 ただ――
 これまで、必要がなかっただけだ。

 それでも今は、
 見なければならない気がしていた。

 ほんの少しだけ、隙間を作る。

 光が、差し込んだ。

 灰色の光。
 優しくも、厳しい現実の色。

 窓の外には、増水した川が見えた。
 濁った水が、重たく流れている。
 いつもより水位が高く、流れも速い。

 城前の橋。
 石造りの古い橋は、まだ形を保っているが、橋脚の周囲で水が激しく渦を巻いているのが分かる。

 「……やっぱり」

 声に出さず、心の中で呟く。

 見えてしまった。

 それだけで、確信が深まった。

 今夜、このまま雨が続けば、
 あの橋は、耐えきれない。

 ポーラは、窓から視線を離し、ゆっくりとカーテンを閉じた。

 胸の奥が、静かに締めつけられる。

 自分が何者か、
 聖女なのか、
 ただの引きこもりの令嬢なのか。

 そんなことは、今はどうでもいい。

 分かってしまった事実だけが、そこにある。

 人が、危険な場所へ向かっている。

 そして、その中心に――
 王太子リチャードがいる。

 彼は、嵐の中でここを訪れ、
 一方的に言葉を投げつけていった。

 聖女に戻れ。
 婚約を元に戻す。

 それらは、提案ではなかった。
 命令でもなく、
 相談でもなかった。

 ただ、決定事項として告げられた。

 ポーラは、机に向かい、椅子に腰を下ろす。

 ペンを取る。

 紙の上に、静かに文字を書く。

 「川の水位が、危険です」

 一行書いて、止まる。

 これだけでは、足りない。

 次の言葉を、慎重に選ぶ。

 「城前の橋は、今夜、耐えられません」

 書き終えたあと、
 しばらく、その文字を見つめる。

 貼るべきか。
 貼らざるべきか。

 ポーラは、迷っていた。

 これまで、彼女のメモは、
 淡々と事実を伝えるものだった。

 命令もしない。
 感情も込めない。

 それでも、人は、
 必要な時には、受け取ってくれた。

 だが、今は違う。

 王太子は、
 彼女の言葉を、
 都合のいい意味にしか解釈しない。

 危険だ、と書けば、
 「復帰の準備で忙しい」と無視される。

 急ぐな、と書けば、
 「同意した」と受け取られる。

 言葉が、届かない。

 その事実が、
 静かに、彼女の胸を締めつけた。

 ポーラは、紙を折り、
 机の端に置いた。

 まだ、貼らない。

 今は、まだ。

 外では、再び雨が強くなり始めていた。
 風が、方向を変え、
 水の匂いが、より濃くなる。

 彼女は、再び窓に近づき、
 今度は、ほんの少しだけ、カーテンを大きく開いた。

 これまで、決してしなかったこと。

 外の世界を、
 はっきりと見る。

 城前の橋の上を、
 人影が横切るのが見えた。

 急いでいる様子。
 護衛らしき姿。

 王太子だ。

 胸が、わずかにざわめく。

 彼は、城へ戻ろうとしている。

 この嵐の中を。

 この水位の川を越えて。

 「……」

 ポーラは、目を伏せた。

 自分が、何をすべきかは、
 もう分かっている。

 聖女としてではない。
 婚約者としてでもない。

 一人の人間として。

 彼女は、机に戻り、
 先ほどの紙を取り上げ、
 文字を書き足した。

 「今、渡らないでください」

 それは、願いに近かった。
 だが、祈りではない。

 彼女にできるのは、
 事実を伝えることだけだ。

 ポーラは、立ち上がり、
 分厚い扉へと歩み寄る。

 そして、静かに、
 その紙を、扉に貼った。

 貼った瞬間、
 胸の奥が、少しだけ軽くなる。

 届くかどうかは、分からない。
 受け取られるかどうかも、分からない。

 それでも――
 見てしまった以上、
 書かずにはいられなかった。

 再び、雷が鳴った。

 その音は、
 これまでよりも近く、
 重かった。

 ポーラは、カーテンを閉め、
 椅子に座り直す。

 外の世界は、
 確実に、限界へと近づいている。

 そして彼女自身もまた、
 静かに、
 これまでとは違う一歩を踏み出していた。

 それは、
 窓を開いたこと。

 ただそれだけの、
 小さな変化。

 だがその変化は、
 やがて王国全体を揺るがす、
 大きな分岐点となる。

 嵐は、
 まだ、終わらない。

 だが、
 ポーラは、初めて、
 真正面から、
 その現実を見つめていた。
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