引きこもり聖女は祈らない

鷹 綾

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第30話 一人の人間としての祈り

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第30話 一人の人間としての祈り

 夜が更けても、嵐は収まらなかった。

 雨は屋根を叩き、風は壁を揺らし、遠雷が断続的に響く。
 スター公爵家の屋敷は頑丈だが、それでも自然の荒々しさは、確実に内部へと侵食してくる。

 ポーラ・スターは、椅子に座ったまま、静かに目を閉じていた。

 扉に貼ったメモは、もう剥がさない。
 あれ以上、書き足す言葉もない。

 伝えるべきことは、すべて書いた。

 届くかどうかは、相手次第だ。

 これまでの彼女は、祈ってきた。
 聖女として、世界のために。
 王国のために。
 人々のために。

 だがその祈りは、いつも「役目」だった。

 望まれたから祈る。
 期待されているから祈る。
 聖女だから祈る。

 そこに、彼女自身はいなかった。

 今、胸の奥にあるのは、別の感情だった。

 恐怖ではない。
 義務感でもない。

 ただ、静かな願い。

 ポーラは、ゆっくりと手を組んだ。

 誰に教わったわけでもない。
 決められた形式もない。

 それでも、自然とそうしていた。

 目を閉じると、外の気配が、より鮮明に伝わってくる。

 水を含みきった大地。
 増水した川の重み。
 橋にかかる負荷。

 そして、その上を進もうとする、人の存在。

 「……どうか」

 小さく、声が漏れた。

 それは、これまでのように、力を引き出すための言葉ではない。

 奇跡を起こすためでも、天候を操るためでもない。

 ただの、願いだった。

 「……無事で」

 誰かを救おうとする言葉でもない。
 世界を守ろうとする祈りでもない。

 一人の人間が、
 一人の人間に向けて抱いた、
 ささやかな想い。

 それだけだった。

 その瞬間、
 ポーラの中で、何かが変わった。

 力が、溢れる感覚はない。
 胸が熱くなることもない。

 ただ、
 外の気配が、わずかに揺らいだ。

 風向きが変わる。
 雨脚が、一瞬だけ弱まる。

 ほんの、刹那。

 奇跡と呼ぶには、あまりにも小さい変化。

 それでも、確かに――
 彼女の祈りは、世界に触れた。

 ポーラは、目を開けた。

 心臓の鼓動は、穏やかだった。

 これまでの祈りは、終わったあと、必ず疲労を残した。
 頭が重くなり、体が冷え、思考が鈍る。

 だが今は、違う。

 何も奪われていない。
 何も消耗していない。

 ただ、そこに「想った」という事実だけが残っている。

 「……これが」

 小さく、呟く。

 「人として、祈る……」

 それは、聖女の力とは、まったく別のものだった。

 力を行使するのではない。
 世界を操作するのでもない。

 ただ、願う。

 それだけ。

 外で、再び雷が鳴った。
 だが、その音は、どこか遠く感じられた。

 ポーラは立ち上がり、窓に近づく。

 今度は、迷いなくカーテンを開いた。

 夜の闇の中、
 川は相変わらず荒れている。

 だが、水の流れは、先ほどよりも、わずかに落ち着いているように見えた。

 橋は、まだ、持ちこたえている。

 「……」

 それを見て、胸の奥に、静かな安堵が広がった。

 救えたかどうかは、分からない。
 結果がどうなるかも、まだ分からない。

 それでも――
 彼女は、初めて、自分の意思で祈った。

 聖女だからではない。
 命じられたからでもない。

 ただ、自分が、そうしたかったから。

 ポーラは、窓を閉め、椅子に戻る。

 嵐は続いている。
 王国の混乱も、終わっていない。

 それでも、
 彼女の中で、確かな変化が生まれていた。

 聖女である前に、
 婚約者である前に、
 引きこもりである前に。

 ポーラ・スターは、
 一人の人間として、
 初めて、自分の心と向き合ったのだ。

 それは、とても小さな一歩だった。

 だが、この夜を境に、
 彼女の祈りは、
 もう、誰かに利用されることはない。

 嵐の音を子守歌のように聞きながら、
 ポーラは、静かに、目を閉じた。

 世界がどうなろうと、
 彼女はもう、
 「祈らされる存在」ではなかった。

 ただ、
 祈ることを選んだ、
 一人の人間だった。
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