白い結婚なので無効にします。持参金は全額回収いたします

鷹 綾

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第八話 崩れゆく獅子

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第八話 崩れゆく獅子

 王都の空気が、明らかに変わり始めていた。

 それは噂ではなく、数字として現れる変化だった。

 聖マリアンヌ修道院の薬品は、すでに王都の医療市場の三割を占めている。さらに地方都市からも注文が入り始め、港湾を経由した流通網は想定以上に広がっていた。

 私は帳簿を閉じ、窓の外を見る。

 石壁の向こうで、商人の荷馬車が出入りしている。修道院は祈りの場であると同時に、静かな経済拠点となりつつあった。

「次は何をお考えですか」

 院長が穏やかに問う。

「教育です」

「教育」

「医療と並び、知識は最大の資産です」

 私は図面を広げる。

「写本工房を拡張し、若い修道女に会計と法を教えます。将来的には、貴族令嬢も受け入れる形で」

 院長はわずかに笑った。

「修道院が学府になると」

「秩序は知識から生まれます」

 私は確信していた。

 祈りだけでは守れないものがある。だが知識は、未来を形作る。

 ◇

 その頃、ヴァルケン家の大広間では重苦しい会議が開かれていた。

 返還期限は目前。

 鉱山はすでに修道院管理。港湾収益も消えた。

 残るは借金。

「南方領を売却すれば、半分は賄えます」

「半分では足りぬ」

 レオナルトの声は低い。

「銀行は融資を断りました」

「なぜだ」

「教会との裁定を理由に、信用が不安定と」

 それは当然だ。

 教会の裁定は、単なる離婚ではない。

 婚姻無効。

 つまり契約の不履行に近い印象を与える。

 貴族社会では、信用は血より重い。

 彼は初めて、婚姻無効の本当の意味を知る。

 それは名誉の傷ではない。

 信用の剥奪だ。

 ◇

 修道院では、新しい図書室の基礎工事が始まっていた。

 石材が積み上がり、若い修道女たちが興味深そうに設計図を覗き込む。

「ここが会計室になります」

「修道院に会計室が?」

「祈りと帳簿は矛盾しません」

 私は微笑む。

 むしろ、帳簿があるから祈りが守られる。

 夕方、商会の代表が訪れた。

「修道院様、追加発注の件ですが——」

「価格は変わりません」

「市場価格が上がっておりますが」

「慈善の名目は崩しません」

 商人は苦笑する。

「あなたは、恐ろしいほど冷静だ」

「冷静でなければ、白は守れません」

 彼はそれ以上何も言わなかった。

 ◇

 王都の夜会では、ついに噂が現実になる。

 ヴァルケン家、南方領売却。

 家格は維持されたが、影は濃い。

 愛人は姿を消した。

 支えていた商会も距離を置く。

 獅子は、静かに檻の中へ追い込まれていく。

 ◇

 修道院の塔から、私は王都を見下ろす。

 遠くの灯りの中に、かつての屋敷もあるだろう。

 あの寝室の空白は、もう思い出としても痛まない。

 触れられなかった三年間は、私を損なわなかった。

 むしろ、守った。

 院長が隣に立つ。

「後悔はないのですね」

「ございません」

「もし、別の道があったとしても」

「完成しなかった契約に、未練はありません」

 それは事実だ。

 白いまま終わった誓い。

 だがその白さは、私の価値を高めた。

 鐘が鳴る。

 修道女たちが礼拝堂へ向かう。

 私は最後に空を見上げる。

 崩れゆく獅子と、静かに拡張する修道院。

 どちらが強いかは明白だ。

 祈りは静かだが、力を持つ。

 白は弱さではない。

 白は、最も強い盾となる。
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