『婚約破棄された令嬢ですが、王国は私抜きでは立てなかったようですね』

鷹 綾

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13話|出立

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13話|出立

 クローヴェル侯爵家の屋敷は、夜明け前から静かに動き出していた。

 廊下を行き交う使用人たちの足音は控えめで、声も必要最低限。
 まるで、屋敷そのものが、これから起きる変化を察しているかのようだった。

 エルゼリア・クローヴェルは、私室の窓辺に立ち、薄く白み始めた空を見つめていた。
 王宮を去ってから、これほど早起きをするのは久しぶりだ。

 机の上には、すでにまとめられた旅装。
 派手な装飾も、余分な荷物もない。

 ――帝国へ行く。

 その事実は、もう揺るがない。

 ノックの音が響く。

「お嬢様、出立の準備が整いました」

「ありがとう。すぐに参ります」

 エルゼリアは短く答え、最後に部屋を見回した。
 この屋敷で育ち、この屋敷に戻り、そしてまた、ここを発つ。

 だが今回は、追い出されるわけではない。
 自分で選び、自分の意思で歩き出す。

 玄関ホールには、クローヴェル侯爵が立っていた。
 いつもと変わらぬ厳格な表情だが、どこか静かな覚悟が滲んでいる。

「……準備はいいか」

「はい」

 それだけで、十分だった。

 父は、娘に多くを語らない。
 それは信頼であり、干渉しないという選択でもある。

「帝国の人間は、甘くない」

「承知しています」

「だが――」

 一瞬、言葉が途切れる。

「……お前を、使い潰すほど愚かでもないだろう」

 それは、精一杯の気遣いだった。

「ありがとうございます」

 エルゼリアは一礼し、屋敷を後にした。

 門の外には、帝国から用意された馬車が待っている。
 装飾は控えめだが、造りは頑丈で、無駄がない。

 ――いかにも、彼らしい。

 まだ顔を合わせてもいない人物の姿が、自然と浮かぶ。

 馬車に乗り込む直前、エルゼリアはふと足を止めた。
 王都の方向を、ほんの一瞬だけ振り返る。

 そこに、未練はない。

 あるのは、整理のついた過去だけだ。

 馬車が走り出すと、屋敷はゆっくりと遠ざかっていった。

 一方、王宮では、朝から慌ただしさが増していた。

「クローヴェル侯爵家より、帝国へ向けて馬車が出立したとのことです」

 報告を受けたロネスは、思わず立ち上がった。

「……もう、出たのか」

 止める間もない。
 呼び止める権利もない。

 それでも、胸の奥がざわつく。

「殿下……」

 側近が、慎重に口を開く。

「今さらですが、彼女に接触なさるおつもりは?」

 ロネスは、答えなかった。

 頭の中に浮かぶのは、
 冷静な横顔。
 淡々とした声。
 そして、最後に向けられた、何の感情も含まない視線。

 ――あれは、怒りでも失望でもなかった。

 ただ、関心が失われただけの目。

「……意味がない」

 ロネスは、低く呟いた。

 自分が彼女に与えたのは、別れではない。
 切り捨てだ。

 切り捨てた相手が、別の場所で評価される。
 それを止める理由も、資格も、自分にはない。

 その事実が、じわじわと胸を締め付ける。

 一方、街道を進む馬車の中で、エルゼリアは静かに目を閉じていた。

 揺れは少なく、進行は安定している。
 帝国の準備が、どれほど周到であるかが分かる。

 彼女は、これから待ち受ける会談を思い描く。

 試されるだろう。
 値踏みもされる。

 だが、それでいい。

 今度は、沈黙を求められていない。
 意見を述べ、判断を下し、責任を持つ立場だ。

 それは、重い。
 だが、望んだ重さでもある。

 馬車は、国境へと近づいていく。

 王国と帝国を隔てる線。
 かつては、ただの地図上の境界にすぎなかった。

 だが今は、人生を分ける一線に思えた。

 エルゼリアは、静かに息を整える。

 ――行きましょう。

 過去ではなく、未来へ。

 王宮では、まだ誰も知らない。

 この出立が、
 単なる人事の移動ではなく――
 王国の立場そのものを変える一歩になるということを。

 そして、帝国側でもまた、
 ある男が、この報を静かに受け取っていた。

「……来るか」

 短く呟き、灰色の瞳を伏せる。

 すべては、これからだ。

 エルゼリア・クローヴェルが、
 自分の意思で踏み出したこの一歩が、
 どれほどの価値を持つのか。

 それを測る舞台は、すでに整っていた。
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