『婚約破棄された令嬢ですが、王国は私抜きでは立てなかったようですね』

鷹 綾

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14話|帝国の空気

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14話|帝国の空気

 国境を越えた瞬間、空気が変わった。

 それは比喩ではない。
 街道の整備具合、検問の手際、兵の立ち姿――すべてが、同じ「静かな緊張」を帯びている。

 帝国は、動いている。
 無駄なく、迷いなく。

 馬車が関所で止まると、兵士が一礼し、淡々と手続きを進めた。
 質問は必要最低限。
 確認は迅速。
 余計な視線も、好奇の色もない。

「……どうぞ」

 それだけで、再び馬車は走り出す。

 エルゼリアは、窓越しに流れていく景色を見つめていた。
 道沿いの集落は整然としており、商人の往来も活発だ。
 掲示板には通達が分かりやすく貼られ、誰が見ても理解できるよう工夫されている。

 ――判断が、早い国。

 王国との違いは、明白だった。

 王国では、決定が下りるまでに時間がかかり、
 現場は常に「様子見」を強いられていた。
 帝国では、決まったことが、即座に現場へ届いている。

 それは、統制ではある。
 だが同時に、信頼でもあった。

 数時間後、馬車は帝国の主要都市の一つに入った。
 高い城壁。
 機能性を重視した建築。
 装飾は控えめだが、どれもが「使われている」形をしている。

 迎えに出ていたのは、帝国宰相府の文官だった。

「エルゼリア・クローヴェル様ですね」

「はい」

「本日は、お越しいただきありがとうございます。
 まずは、宿舎へご案内いたします」

 丁寧だが、過剰ではない態度。
 媚びも、探るような視線もない。

 エルゼリアは、ここでも違いを感じ取る。

 ――試されているが、疑われてはいない。

 それは、能力を見る者の視線だった。

 宿舎は、簡素だが整っていた。
 必要なものは揃っており、不要なものはない。

「会談は、明日の午前を予定しております」

 文官は淡々と告げる。

「それまで、ご自由にお過ごしください。
 ただし――」

 一瞬、言葉を切る。

「帝国では、“見られていない時間”というものは、ほとんど存在しません」

 忠告とも、説明とも取れる言葉だった。

「承知しました」

 エルゼリアは、静かに頷いた。

 文官が去った後、彼女は部屋の椅子に腰を下ろす。
 疲労はある。
 だが、心は不思議と冴えていた。

 ――ここでは、曖昧さは通じない。

 それは、恐怖ではない。
 むしろ、安心感に近い。

 夜、簡単な食事を終えた後、エルゼリアは資料に目を通していた。
 帝国側が事前に用意したものだ。

 経済指標。
 外交関係。
 近年の政策変更。

 どれもが、整理され、論点が明確だ。

「……なるほど」

 思わず、声が漏れる。

 帝国は、すでに問題を把握している。
 そして、その解決策も、いくつか想定している。

 彼らが求めているのは、
 「何が問題か」を指摘する人間ではない。

 「どれを選ぶべきか」を判断できる人間だ。

 その夜、別の場所で、ハインリヒ・ヴォルフは報告を受けていた。

「無事、帝国領内へ入りました」

「そうか」

 短い返答。

「特に問題は?」

「ありません。
 落ち着いた様子で、周囲をよく見ています」

 ハインリヒは、わずかに口角を上げた。

「……やはりな」

 多くの者は、帝国の圧に飲まれる。
 あるいは、必要以上に身構える。

 だが、エルゼリアは違う。

「彼女は、比較している」

 帝国を称賛するでもなく、
 王国を嘆くでもなく。

 ただ、事実として、差を見ている。

「会談が楽しみだ」

 そう言って、ハインリヒは資料を閉じた。

 一方、エルゼリアは窓を開け、夜の街を見下ろしていた。
 灯りは規則正しく並び、騒音は少ない。

 人々は、それぞれの役割を果たし、
 それが社会として機能している。

 ――この国は、動く理由を共有している。

 王国では、それが失われつつあった。
 誰もが、誰かの判断を待ち、
 責任を回避し、時間だけが過ぎていく。

 ここでは、違う。

 責任は重い。
 だが、その分、裁量もある。

 エルゼリアは、静かに息を吐いた。

 明日、自分は試される。
 だが同時に、選ぶ側にもなる。

 王宮に戻る道は、もうない。
 だが、それでいい。

 ――ここで、何ができるか。

 それを示すのが、明日だ。

 帝国の空気は、冷たい。
 だが、澄んでいる。

 エルゼリア・クローヴェルは、
 その空気を胸いっぱいに吸い込み、
 静かに目を閉じた。

 新しい舞台は、
 すでに彼女の前に開かれていた。
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