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トコロテン

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第4話:尊大な羞恥心

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2024年、冬。千葉県松戸市。




 常磐線の線路沿いに建つ、築四十年の木造アパート


「コーポ松風」


剥がれかけた外壁と、風が吹くたびに軋むトタン屋根が、この建物の年輪を物語っていた。



その二階の角部屋、201号室。

そこが、かつて「白学才子」と呼ばれた天才芸人・栗原智の、そして彼の才能に殉じようとする妻・尚(なお)の生活のすべてだった。




 部屋の中は、外界の時間を拒絶するような異様な空気に包まれていた。

 六畳の和室の中央には、万年床が敷きっぱなしにされている。



その周囲には、インクの切れた大量のボールペンと、文字がびっしりと書き込まれた大学ノートが、まるで狂信者の儀式の跡のように散乱していた。



窓には分厚い遮光カーテンが引かれたままで、昼夜の区別すらない。

ただ、遠くを走る常磐線の列車の震動だけが、定期的にこの密室に外の世界の存在を知らせていた。





 栗原はちゃぶ台に向かい、背中を丸めてノートに文字を書き殴っていた。



 三十代後半という実年齢以上に、彼は酷く老け込んで見えた。髪は伸び放題でフケが浮き、無精髭が頬を覆っている。



かつて舞台上で見せていた、あの研ぎ澄まされた刃のような鋭さは消え失せ、代わりに宿っているのは、飢えた野犬のような濁った光だった。

目の下にはどす黒い隈が張り付き、不規則な生活と極度の栄養不良を物語っている。

 彼が今、一心不乱に書き綴っているのは、大衆に迎合したショートコントでも、テレビサイズの分かりやすい漫才でもなかった。

 彼自身が「究極の笑い」と呼ぶ、上演時間一時間にも及ぶ壮大な一人芝居の台本である。

 仮タイトルは『実存の喜劇、あるいは沈黙の証明』。

サルトルやカミュの不条理哲学をベースに、人間の存在そのものの滑稽さを、一切の分かりやすいボケやツッコミ、顔芸、大声を排して表現するというものだ。

観客には一切の妥協を許さず、高度な文学的教養と哲学的な前提知識を要求する。

一瞬の沈黙すらも伏線として機能する、針の穴を通すような緻密な構成。






「……違う。ここでの『間』は三秒じゃない。二・五秒だ。このコンマ五秒のズレが、全体のロジックを崩壊させる。観客の無意識下にある不安を煽るためには、言葉の意味そのものをゲシュタルト崩壊させなければならない……」




 栗原はブツブツと独り言を呟きながら、一度書いたページを黒く塗りつぶし、また新しいページへと向かった。

 なぜ、彼はこの「究極のネタ」を書き上げた後、どこの舞台にも立とうとしないのか。

 地下の小さなライブハウスでもいい、自主開催の単独ライブでもいい。発表の場はいくらでもあったはずだ。しかし、栗原は決して外へ出ようとはしなかった。
 彼は自分にこう言い聞かせていた。





『今の日本の客層には、この高度な文脈を理解できる知能がない。豚に真珠を投げてやる義理はない。俺の芸術は、時代が俺に追いついた時に初めて世に出るべきものだ』と。






 だが、本当の理由は違った。







 彼の心の奥底、最も柔らかく、最も腐敗した部分に巣食う「臆病な自尊心」が、舞台に立つことを強烈に拒絶していたのだ。



 もし、この持てるすべてを注ぎ込んだ「究極のネタ」を披露して、客席が冷まり返ったら?




 もし、自分が軽蔑してやまない大衆から、「つまらない」「意味がわからない」「ただの痛いおじさんだ」と嘲笑されたら?





 15年前、幕張メッセで千人を支配したあの栄光の記憶だけが、今の彼を支える唯一の杖だった。その杖が折れてしまった時、自分には何も残らない。自分が「本物の天才」ではなく、ただの「偏屈な凡人」であるという残酷な現実を突きつけられる恐怖。それが恐ろしくてたまらなかったのだ。





 己の珠(才能)を信じながらも、それが偽物であると判明する恐怖から、決して磨こうとはしない。舞台という現実の砥石にかけることを避け、安全な密室の中で「俺は天才だ」と自己完結し続ける。それが栗原の「臆病な自尊心」の正体だった。







 ガチャリ、と玄関のドアが開く音がした。







 冷たい隙間風と共に、妻の尚が帰ってきた。






彼女は近所のスーパーのレジ打ちと、早朝のオフィスビルの清掃バイトを掛け持ちし、栗原との生活を一人で支えていた。かつて栗原の才能に誰よりも惚れ込み、彼の理解者であろうとした彼女の顔にも、今や隠しきれない深い疲労と諦念が張り付いていた。




 尚は、薄暗い部屋の中でノートに向かう夫の背中を見て、小さくため息をついた。




「智……ご飯、買ってきたよ。少し休んだら?」




 尚はコンビニの袋から、見切り品のシールが貼られた弁当を取り出し、ちゃぶ台の端に置いた。







「……」





 栗原は返事をしない。



ペンの音だけがカリカリと響く。



「ねえ、智。アパートの更新料、来月なんだけど……少しでいいから、バイトとか、できないかな。深夜の仕分けとかなら、人と関わらなくても……」



 その言葉の途中で、ピタリとペンの音が止まった。
 栗原はゆっくりと振り返り、血走った目で尚を睨みつけた。






「俺に、労働者の真似事をしろと言うのか?」






「そうじゃないよ。でも、現実問題としてお金が……」








「黙れッ!」






 栗原の怒声が狭い部屋に響き、尚はビクッと肩を震わせた。






「俺は今、お笑いの歴史を変える革命の途中なんだ! あと少し、あと少しでこのネタは完成する。これが世に出れば、すべての価値観がひっくり返るんだ。凡人の時間軸や、たかが数万の小銭の話で、俺の思考を止めるな!」






 それは、弱々しい犬が己を大きく見せるために吠えるような、悲痛で滑稽な自己防衛だった。
 尚は悲しげに目を伏せ、何も言わずに台所へと引っ込んだ。水道の蛇口を捻る音に混じって、微かな嗚咽が聞こえたような気がしたが、栗原はそれを無視して再びノートに向かった。




 夜中。尚が寝静まった後、栗原は部屋の隅にある小さなテレビの電源をつけた。




 音量を極限まで絞り、画面だけを睨みつける。



 映し出されたのは、深夜のバラエティ番組だった。

ひな壇の中央で、あの遠藤が司会者として番組を回している。若手芸人が頭から粉を被り、遠藤が「豆鉄砲食らったか!」と大げさにツッコミを入れる。画面のテロップが派手な色で踊り、作り物の笑い声(ラフトラック)が絶え間なく流れていた。





 栗原の奥歯がギリリと鳴った。




 あんなものは芸ではない。あんなものは、視聴者という名の白痴を喜ばせるための、ただの排泄物だ。


 あんな恥知らずな真似をして、顔に泥を塗り、プライドをドブに捨ててまで、社会に認められたいのか。俺は違う。俺は孤高の芸術家だ。妥協して泥に塗れるくらいなら、誰にも理解されなくていい。飢え死にしたとしても、俺は俺の高潔さを守り抜く。




 これが栗原の「尊大な羞恥心」だった。




 しかし、ブラウン管の光に照らされた彼の顔は、憎悪と同時に、どうしようもない嫉妬に歪んでいた。遠藤のあの笑顔の裏には、社会的な成功、温かい食事、世間からの承認がある。自分が手放したすべてのものが、あの下劣な画面の中にある。





 なぜ、あんな凡人が評価され、この天才である自分がこんな四畳半で腐っていかなければならないのか。



 世界が間違っている。社会が狂っている。大衆が馬鹿なのだ。



 栗原はテレビの電源を乱暴に切り、暗闇の中で頭を抱えた。


 頭の中で、無数の声が反響し始めていた。


『スタンドアップコメディの天才・栗原智』
『十年の一人の逸材』
『……でも、あいつ今どこで何してんの?』
『ただのプライド高いだけのニートじゃん』
『一発屋にすらなれなかった敗北者』
『痛いおじさん』







「違う……俺は、俺はッ……!」





 栗原は爪が食い込むほどに自分の頭を掻きむしった。
 2024年の冬が終わろうとしていた。



彼の精神はすでに限界の淵から足を踏み外していた。











 ノートの文字はもはや日本語としての意味を成さず、ただの黒い線の羅列になっていた。











鏡に映る自分の顔が、時折、人間のそれではない「別の何か」に見えることがあった。




 それは、彼の中の肥大化しきった自尊心と羞恥心が、物理的な形を持とうとしている兆候だった。






彼が「自分の中の獣」を明確に意識し始める、あの決定的な発狂の夜は、もうすぐそこまで迫っていた。



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