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第5話:発狂の予兆
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2026年、6月。梅雨入りした関東地方は、連日ねっとりとした湿気に包まれていた。
松戸の古いアパート「コーポ松風」の201号室。
閉め切られた窓と遮光カーテンに阻まれ、室内の空気は澱みきっていた。カビと古本、そして何日も風呂に入っていない栗原智の体臭が混ざり合い、息を吸うだけで肺が重くなるような空間だった。
深夜の二時。雨音が単調なリズムを刻む中、突然、カチャリという乾いた音が響いた。
栗原の手から、インクの切れたボールペンが滑り落ちた音だった。
「……できた」
ひび割れた声が、暗い部屋にポツリと落ちた。
栗原の目の前には、110冊目に突入した大学ノートが開かれていた。最後のページまで、黒々とした文字がびっしりと埋め尽くされている。彼が数年間の隠遁生活のすべてを注ぎ込んだ、上演時間 数十時間に及ぶ「究極のネタ」の完成だった。
栗原は震える両手でノートを持ち上げ、充血した目で第一ページから読み返し始めた。
自分の圧倒的な知性が生み出した、人類のお笑い史を塗り替える傑作。それを確認し、安堵の涙を流すはずだった。しかし、ページをめくる栗原の顔から、次第に血の気が引いていった。
——なんだ、これは。
そこに書かれていたのは、高度な不条理劇などではなかった。
『笑いとは死の擬似体験であるゆえにコンマ五秒の空白が宇宙を形成し……』
『観客の網膜に焼き付くのは残像ではなくイデアであり……』
意味不明な哲学用語の羅列。脈絡のない飛躍。観客の存在を完全に無視した、ただの自己顕示欲の塊。それは「お笑いの台本」ですらなく、狂人が壁に書き殴った意味のない模様と同じだった。
栗原の喉から、ヒュッと息が漏れた。
「ちがう……こんなはずじゃ……俺の、俺の才能は……」
信じたくなかった。
ノートを床に叩きつけ、自分の髪を掻きむしる。
しかし、何度読み返しても、そこにあるのは「絶対に誰も笑わない、独りよがりなゴミ」だった。
15年間、彼を支え続けてきた「自分は世間に理解されないだけの天才なのだ」という唯一の砦が、音を立てて崩壊していく。
彼は天才などではなかった。ただ、舞台でスベって凡人だと突きつけられるのが怖くて、安全な部屋に引きこもり、小難しい理屈をこねて逃げ回っていただけの「臆病者」だったのだ。
その残酷すぎる真実を突きつけられた瞬間、栗原の脳内で、何かが決定的に『切れる』音がした。
——パチン。
突如として、幻聴が聞こえた。
『ドッ!』という、テレビのバラエティ番組で使われる、あの下品で暴力的な笑い声(ラフトラック)だ。
「やめろ……」
栗原は耳を塞いだが、笑い声は脳の奥底から直接響いてくる。
『ギャハハハハ!』
『クリチョウ、つまんねー!』
『なんだよその顔!』
大衆の嘲笑が、遠藤の出演する番組の安っぽい効果音とともに、津波のように栗原の意識を飲み込んでいく。
フラフラと立ち上がり、洗面所へ向かった。
薄汚れた鏡の前に立つ。そこには、落ち窪んだ目に無精髭をはやし、怯えたように肩を震わせる三十代後半の哀れな男が映っていた。
その時だ。
鏡の中の自分の顔が、一瞬、人間のそれではなく見えた。
耳が尖り、目が異様に吊り上がり、口元が卑屈に歪んでいる。首には、重々しい革の首輪が巻かれているような気がした。
——いっそ、なにも考えない獣になりたい。
栗原の心の底から、ドロドロとした真っ黒な感情が湧き上がってきた。
こんなにも高尚なプライドを持ちながら、何も生み出せなかった自分。そんな惨めな「人間・栗原智」であることに、もう耐えられなかった。
知性など要らない。
プライドなど捨ててしまえ。
いっそ、自分が最も軽蔑していた「思考停止した大衆の奴隷」に、何も考えずに札束で頬を叩かれ、嘲笑されるだけの「ペット」に成り下がってしまえば、この苦しい自尊心から解放されるのではないか。
自分を罰したい。徹底的に汚されたい。
「ニャン……」
無意識のうちに、栗原の口から裏返った奇声が漏れた。
それは、かつて自分が最も忌み嫌っていた、テレビのひな壇芸人が放つような、媚びに満ちた気持ちの悪い声だった。
「ニャンニャンニャーン!! クリチョウ、大・爆・発!!」
静まり返った深夜のアパートに、狂気に満ちた大声ギャグが響き渡った。
万年床で眠っていた尚が、悲鳴を上げて飛び起きた。
「智……!? どうしたの、ねえ!」
尚が駆け寄ろうとするが、栗原は四つん這いになり、信じられないほどの敏捷さで彼女の脇をすり抜けた。
「俺を見るなあああっ!」
栗原は玄関のドアを蹴り開け、土砂降りの雨が降る外の世界へと飛び出した。
傘もささず、靴すら履いていない。
泥水を跳ね上げながら、彼は夜の松戸の街を狂ったように走り出した。
雨が体を叩きつけるたびに、人間としての記憶や理性が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく感覚があった。代わりに、大衆に愛されたい、笑われたい、チップをもらって稼ぎたいという、崇高な芸人からかけ離れた。
卑しい獣の欲望だけが全身を支配していく。
気がつけば、常磐線の始発列車に乗り込み、日暮里で山手線に乗り換えていた。
泥だらけで裸足の男を、乗客たちは気味悪そうに避けた。しかし、栗原の目にはもう、彼らが「自分を評価する観客」ではなく、「餌(チップ)をくれる飼い主の群れ」にしか見えていなかった。
早朝の新宿駅。
栗原は東口の改札を抜け、雨に濡れたアスファルトを踏みしめながら、歌舞伎町へと向かって歩き出した。
眠らない街の巨大なネオンサインが、曇天の下で毒々しく光っている。欲望と金と暴力が渦巻くその街は、堕ちきった獣が身を隠すには、あまりにもお誂え向きのジャングルだった。
この日から、松戸のアパートに「天才芸人・栗原智」が帰ってくることは二度となかった。
そして数日後、歌舞伎町の裏社会で複数の店を経営する金城(かねしろ)社長のもとに、薄汚れた一匹の奇妙な男が転がり込むことになる。
高潔な芸人としてのプライドを自らへし折り
落としても気づかないような小銭で嘲笑でその身を汚されることを至上の喜びとする、
哀しき「お笑いネコ」の誕生であった。
松戸の古いアパート「コーポ松風」の201号室。
閉め切られた窓と遮光カーテンに阻まれ、室内の空気は澱みきっていた。カビと古本、そして何日も風呂に入っていない栗原智の体臭が混ざり合い、息を吸うだけで肺が重くなるような空間だった。
深夜の二時。雨音が単調なリズムを刻む中、突然、カチャリという乾いた音が響いた。
栗原の手から、インクの切れたボールペンが滑り落ちた音だった。
「……できた」
ひび割れた声が、暗い部屋にポツリと落ちた。
栗原の目の前には、110冊目に突入した大学ノートが開かれていた。最後のページまで、黒々とした文字がびっしりと埋め尽くされている。彼が数年間の隠遁生活のすべてを注ぎ込んだ、上演時間 数十時間に及ぶ「究極のネタ」の完成だった。
栗原は震える両手でノートを持ち上げ、充血した目で第一ページから読み返し始めた。
自分の圧倒的な知性が生み出した、人類のお笑い史を塗り替える傑作。それを確認し、安堵の涙を流すはずだった。しかし、ページをめくる栗原の顔から、次第に血の気が引いていった。
——なんだ、これは。
そこに書かれていたのは、高度な不条理劇などではなかった。
『笑いとは死の擬似体験であるゆえにコンマ五秒の空白が宇宙を形成し……』
『観客の網膜に焼き付くのは残像ではなくイデアであり……』
意味不明な哲学用語の羅列。脈絡のない飛躍。観客の存在を完全に無視した、ただの自己顕示欲の塊。それは「お笑いの台本」ですらなく、狂人が壁に書き殴った意味のない模様と同じだった。
栗原の喉から、ヒュッと息が漏れた。
「ちがう……こんなはずじゃ……俺の、俺の才能は……」
信じたくなかった。
ノートを床に叩きつけ、自分の髪を掻きむしる。
しかし、何度読み返しても、そこにあるのは「絶対に誰も笑わない、独りよがりなゴミ」だった。
15年間、彼を支え続けてきた「自分は世間に理解されないだけの天才なのだ」という唯一の砦が、音を立てて崩壊していく。
彼は天才などではなかった。ただ、舞台でスベって凡人だと突きつけられるのが怖くて、安全な部屋に引きこもり、小難しい理屈をこねて逃げ回っていただけの「臆病者」だったのだ。
その残酷すぎる真実を突きつけられた瞬間、栗原の脳内で、何かが決定的に『切れる』音がした。
——パチン。
突如として、幻聴が聞こえた。
『ドッ!』という、テレビのバラエティ番組で使われる、あの下品で暴力的な笑い声(ラフトラック)だ。
「やめろ……」
栗原は耳を塞いだが、笑い声は脳の奥底から直接響いてくる。
『ギャハハハハ!』
『クリチョウ、つまんねー!』
『なんだよその顔!』
大衆の嘲笑が、遠藤の出演する番組の安っぽい効果音とともに、津波のように栗原の意識を飲み込んでいく。
フラフラと立ち上がり、洗面所へ向かった。
薄汚れた鏡の前に立つ。そこには、落ち窪んだ目に無精髭をはやし、怯えたように肩を震わせる三十代後半の哀れな男が映っていた。
その時だ。
鏡の中の自分の顔が、一瞬、人間のそれではなく見えた。
耳が尖り、目が異様に吊り上がり、口元が卑屈に歪んでいる。首には、重々しい革の首輪が巻かれているような気がした。
——いっそ、なにも考えない獣になりたい。
栗原の心の底から、ドロドロとした真っ黒な感情が湧き上がってきた。
こんなにも高尚なプライドを持ちながら、何も生み出せなかった自分。そんな惨めな「人間・栗原智」であることに、もう耐えられなかった。
知性など要らない。
プライドなど捨ててしまえ。
いっそ、自分が最も軽蔑していた「思考停止した大衆の奴隷」に、何も考えずに札束で頬を叩かれ、嘲笑されるだけの「ペット」に成り下がってしまえば、この苦しい自尊心から解放されるのではないか。
自分を罰したい。徹底的に汚されたい。
「ニャン……」
無意識のうちに、栗原の口から裏返った奇声が漏れた。
それは、かつて自分が最も忌み嫌っていた、テレビのひな壇芸人が放つような、媚びに満ちた気持ちの悪い声だった。
「ニャンニャンニャーン!! クリチョウ、大・爆・発!!」
静まり返った深夜のアパートに、狂気に満ちた大声ギャグが響き渡った。
万年床で眠っていた尚が、悲鳴を上げて飛び起きた。
「智……!? どうしたの、ねえ!」
尚が駆け寄ろうとするが、栗原は四つん這いになり、信じられないほどの敏捷さで彼女の脇をすり抜けた。
「俺を見るなあああっ!」
栗原は玄関のドアを蹴り開け、土砂降りの雨が降る外の世界へと飛び出した。
傘もささず、靴すら履いていない。
泥水を跳ね上げながら、彼は夜の松戸の街を狂ったように走り出した。
雨が体を叩きつけるたびに、人間としての記憶や理性が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく感覚があった。代わりに、大衆に愛されたい、笑われたい、チップをもらって稼ぎたいという、崇高な芸人からかけ離れた。
卑しい獣の欲望だけが全身を支配していく。
気がつけば、常磐線の始発列車に乗り込み、日暮里で山手線に乗り換えていた。
泥だらけで裸足の男を、乗客たちは気味悪そうに避けた。しかし、栗原の目にはもう、彼らが「自分を評価する観客」ではなく、「餌(チップ)をくれる飼い主の群れ」にしか見えていなかった。
早朝の新宿駅。
栗原は東口の改札を抜け、雨に濡れたアスファルトを踏みしめながら、歌舞伎町へと向かって歩き出した。
眠らない街の巨大なネオンサインが、曇天の下で毒々しく光っている。欲望と金と暴力が渦巻くその街は、堕ちきった獣が身を隠すには、あまりにもお誂え向きのジャングルだった。
この日から、松戸のアパートに「天才芸人・栗原智」が帰ってくることは二度となかった。
そして数日後、歌舞伎町の裏社会で複数の店を経営する金城(かねしろ)社長のもとに、薄汚れた一匹の奇妙な男が転がり込むことになる。
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