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第6話:暗がりからの声
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「来るな!」
遠藤慎二が錆びついた非常階段に足をかけようとした瞬間、頭上の暗がりから飛んできたのは、悲鳴のような拒絶だった。
ネオンの光も届かない、歌舞伎町の雑居ビルの隙間。饐(す)えた生ゴミの匂いが充満する谷底で、遠藤は階段を見上げたまま立ち尽くした。
「……頼む。そこから上に登らないでくれ。今の俺の姿を、お前には……お前だけには、絶対に見られたくないんだ」
暗闇の中から降ってくる声は、激しく震えていた。
間違いない。その理知的な発声の奥底に潜む、ひどく神経質な響き。千葉大学の部室で、あるいは幕張メッセの舞台で、冷徹に笑いの構造を語っていたあの天才、栗原智の声だった。
しかし、先ほどゴミ袋の山から這い出してきた彼の姿は、あまりにも異常だった。ホスト崩れのような柄シャツ、革のチョーカー、そして頭に乗せたファンシーな猫耳。
「栗原……本当にお前なのか? どうしてこんな所にいる。松戸のアパートはどうした? その首輪と、千円札は一体何なんだよ」
遠藤は、混乱する頭を必死に抑えつけながら問いかけた。
「お前、天才だったじゃないか。なんでこんなゴミ溜めで、猫の真似をして這いずり回ってるんだ!」
沈黙が降りた。
遠くの大通りから、パトカーのサイレンと酔客の奇声が微かに聞こえてくる。
やがて、非常階段の上の暗闇から、カチャリ、と首輪の金具が鳴る音がした。そして、自嘲するような、ひどく乾いた笑い声が漏れた。
「……天才。そうだな。俺もずっと、自分のことをそう信じ込もうとしていた。だが、その中身は、薄っぺらい張り子だったのさ」
栗原は、絞り出すように語り始めた。
「去年だ。俺は自分の書いたネタが、何一つ笑えないゴミであることに気づき、発狂した。裸足のまま雨の降る街を逃げ出し、気づけばこの歌舞伎町を這いずり回っていた」
栗原の言葉は、まるで他人の不幸を客観的に実況しているかのように淡々としていたが、その奥には底知れぬ絶望が黒々と渦巻いていた。
「三日三晩、何も食わずに路地裏を彷徨った。空腹と疲労で、人間としての理性が薄れかけていた時だ。俺は、この街で複数の店を経営している金城という男に拾われた」
「金城……?」
「ああ。成金で、悪趣味で、他人の尊厳を金で踏みにじることに無上の喜びを感じる男だ。あいつは、ゴミ箱を漁っていた俺の目を見て言った。
『お前、プライドだけは一丁前に高いインテリの目をしているな。そういう奴が一番ムカつくんだよ』と」
遠藤は息を呑んだ。
そんな人間の底意地が悪い欲望の塊のような男に、あの自尊心の塊だった栗原が屈するはずがない。かつての彼なら、唾を吐きかけて睨み返したはずだ。
「金城は、泥だらけの地面に千円札を一枚落として、こう言ったんだ。『腹が減ってるんだろ。お前みたいな偉そうなインテリが、四つん這いになって猫の真似をして、俺を笑わせたら、この金で飯を食わせてやる』とな」
暗闇の中で、栗原の息づかいが荒くなった。
彼がその時、どれほどの屈辱と葛藤を味わったか。遠藤は想像すらしたくなかった。
「俺は……泣き叫びながら、這いつくばったよ」
栗原の声が、不意に裏返った。
「そして、猫耳のヘッドセットをつけられ、首輪を巻かれ、自分が一番軽蔑していた大声のギャグを、顔をクシャクシャにして叫んだんだ。
『ニャンニャン! クリチョウ、大爆発ニャン!』ってな。……金城は腹を抱えて笑ったよ。最高の見世物だと言って、俺の首輪に千円札をねじ込んだ」
「やめろッ!」
遠藤はたまらず叫んだ。
「もういい! そんなふざけた男のところにいる必要はない。俺が金なら出す。病院に行こう。尚ちゃん(妻)のところに帰るんだ!」
遠藤が階段に足をかけようとした瞬間、暗闇の中から鋭い殺気が放たれた。
「来るなと言っているだろうが!!」
獣の咆哮のような怒声に、遠藤は足を進めることができなかった。
「帰る? どこへだ。俺にはもう、帰る場所なんてない。それに……俺自身がもう、人間界に戻ることを望んでいないんだ」
「何を言ってるんだ……正気か?」
「俺の体を見てみろ。いや、見なくていい」
ガサリ、と栗原が身じろぎする音がした。
「最近、俺の体には恐ろしい変化が起きている
……精神の変化だ。
金城の前で卑屈なギャグを叫び、チップをもらう瞬間、俺の脳内に強烈な『快楽物質』が出るようになったんだ。
プライドを捨て、ただ条件反射で大衆に媚びを売る。それが、こんなにも心地よく、安らぐものだとは知らなかった」
栗原の言葉は、狂気に侵されているというよりは、あまりにも残酷な真実を冷静に自己分析しているようだった。それゆえに、遠藤には背筋が凍るほど恐ろしかった。
「俺は今、急速に『お笑いネコ』という獣になりつつある。一日のうち、人間としての理性がある時間は、日に日に短くなっている。
さっきお前の顔を見た時、一瞬『チップをくれる新しい客だ』と思って擦り寄ろうとした自分がいた。……それが、たまらなく恐ろしかった」
栗原の呼吸が、次第に浅く、不規則になっていく。
彼の中に残る「人間の部分」が、必死に獣の本能に抗い、悲鳴を上げているのがわかった。
「……遠藤」
不意に、栗原の声が、再び静かな、しかし異様に澄んだトーンに変わった。
それは、今にも消え入りそうなロウソクの炎が、最後にパッと明るく燃え上がるような、そんな危うい明瞭さだった。
「俺の頭の中には、まだ『芸人・栗原智』としての意識がわずかに残っている。
だが、それも時間の問題だ。
完全に理性を失い、言葉を忘れる前に、どうしてもお前に託しておきたいことがあるんだ」
遠藤慎二が錆びついた非常階段に足をかけようとした瞬間、頭上の暗がりから飛んできたのは、悲鳴のような拒絶だった。
ネオンの光も届かない、歌舞伎町の雑居ビルの隙間。饐(す)えた生ゴミの匂いが充満する谷底で、遠藤は階段を見上げたまま立ち尽くした。
「……頼む。そこから上に登らないでくれ。今の俺の姿を、お前には……お前だけには、絶対に見られたくないんだ」
暗闇の中から降ってくる声は、激しく震えていた。
間違いない。その理知的な発声の奥底に潜む、ひどく神経質な響き。千葉大学の部室で、あるいは幕張メッセの舞台で、冷徹に笑いの構造を語っていたあの天才、栗原智の声だった。
しかし、先ほどゴミ袋の山から這い出してきた彼の姿は、あまりにも異常だった。ホスト崩れのような柄シャツ、革のチョーカー、そして頭に乗せたファンシーな猫耳。
「栗原……本当にお前なのか? どうしてこんな所にいる。松戸のアパートはどうした? その首輪と、千円札は一体何なんだよ」
遠藤は、混乱する頭を必死に抑えつけながら問いかけた。
「お前、天才だったじゃないか。なんでこんなゴミ溜めで、猫の真似をして這いずり回ってるんだ!」
沈黙が降りた。
遠くの大通りから、パトカーのサイレンと酔客の奇声が微かに聞こえてくる。
やがて、非常階段の上の暗闇から、カチャリ、と首輪の金具が鳴る音がした。そして、自嘲するような、ひどく乾いた笑い声が漏れた。
「……天才。そうだな。俺もずっと、自分のことをそう信じ込もうとしていた。だが、その中身は、薄っぺらい張り子だったのさ」
栗原は、絞り出すように語り始めた。
「去年だ。俺は自分の書いたネタが、何一つ笑えないゴミであることに気づき、発狂した。裸足のまま雨の降る街を逃げ出し、気づけばこの歌舞伎町を這いずり回っていた」
栗原の言葉は、まるで他人の不幸を客観的に実況しているかのように淡々としていたが、その奥には底知れぬ絶望が黒々と渦巻いていた。
「三日三晩、何も食わずに路地裏を彷徨った。空腹と疲労で、人間としての理性が薄れかけていた時だ。俺は、この街で複数の店を経営している金城という男に拾われた」
「金城……?」
「ああ。成金で、悪趣味で、他人の尊厳を金で踏みにじることに無上の喜びを感じる男だ。あいつは、ゴミ箱を漁っていた俺の目を見て言った。
『お前、プライドだけは一丁前に高いインテリの目をしているな。そういう奴が一番ムカつくんだよ』と」
遠藤は息を呑んだ。
そんな人間の底意地が悪い欲望の塊のような男に、あの自尊心の塊だった栗原が屈するはずがない。かつての彼なら、唾を吐きかけて睨み返したはずだ。
「金城は、泥だらけの地面に千円札を一枚落として、こう言ったんだ。『腹が減ってるんだろ。お前みたいな偉そうなインテリが、四つん這いになって猫の真似をして、俺を笑わせたら、この金で飯を食わせてやる』とな」
暗闇の中で、栗原の息づかいが荒くなった。
彼がその時、どれほどの屈辱と葛藤を味わったか。遠藤は想像すらしたくなかった。
「俺は……泣き叫びながら、這いつくばったよ」
栗原の声が、不意に裏返った。
「そして、猫耳のヘッドセットをつけられ、首輪を巻かれ、自分が一番軽蔑していた大声のギャグを、顔をクシャクシャにして叫んだんだ。
『ニャンニャン! クリチョウ、大爆発ニャン!』ってな。……金城は腹を抱えて笑ったよ。最高の見世物だと言って、俺の首輪に千円札をねじ込んだ」
「やめろッ!」
遠藤はたまらず叫んだ。
「もういい! そんなふざけた男のところにいる必要はない。俺が金なら出す。病院に行こう。尚ちゃん(妻)のところに帰るんだ!」
遠藤が階段に足をかけようとした瞬間、暗闇の中から鋭い殺気が放たれた。
「来るなと言っているだろうが!!」
獣の咆哮のような怒声に、遠藤は足を進めることができなかった。
「帰る? どこへだ。俺にはもう、帰る場所なんてない。それに……俺自身がもう、人間界に戻ることを望んでいないんだ」
「何を言ってるんだ……正気か?」
「俺の体を見てみろ。いや、見なくていい」
ガサリ、と栗原が身じろぎする音がした。
「最近、俺の体には恐ろしい変化が起きている
……精神の変化だ。
金城の前で卑屈なギャグを叫び、チップをもらう瞬間、俺の脳内に強烈な『快楽物質』が出るようになったんだ。
プライドを捨て、ただ条件反射で大衆に媚びを売る。それが、こんなにも心地よく、安らぐものだとは知らなかった」
栗原の言葉は、狂気に侵されているというよりは、あまりにも残酷な真実を冷静に自己分析しているようだった。それゆえに、遠藤には背筋が凍るほど恐ろしかった。
「俺は今、急速に『お笑いネコ』という獣になりつつある。一日のうち、人間としての理性がある時間は、日に日に短くなっている。
さっきお前の顔を見た時、一瞬『チップをくれる新しい客だ』と思って擦り寄ろうとした自分がいた。……それが、たまらなく恐ろしかった」
栗原の呼吸が、次第に浅く、不規則になっていく。
彼の中に残る「人間の部分」が、必死に獣の本能に抗い、悲鳴を上げているのがわかった。
「……遠藤」
不意に、栗原の声が、再び静かな、しかし異様に澄んだトーンに変わった。
それは、今にも消え入りそうなロウソクの炎が、最後にパッと明るく燃え上がるような、そんな危うい明瞭さだった。
「俺の頭の中には、まだ『芸人・栗原智』としての意識がわずかに残っている。
だが、それも時間の問題だ。
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