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7話
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「私が悪者になって、全てのしがらみを壊してあげる」
耳元で囁かれた葵の言葉に、意識が眩んだ。
状況を漠然と理解すると同時に、胃の中に鉛が流し込まれたような錯覚を覚える。
「ほら、美味しそうだよ」
金縛りにあったように動けない俺に、葵が耳元で言葉を続ける。
テーブルの上には出前の寿司が並んでいて、母は既に席について俺たちの方をニコニコと見つめていた。
佳矢がソファから立ち上がって、背伸びしながらテーブルに向かう。
「さあ、一緒に食べよう」
とん、と背中を押される。
俺は操り人形のようにリビングに足を進め、いつもの席についた。
思考が奪われたように何も考えることができなかった。
「ところで瞬矢、善治さんにはもう報告したの?」
母が機嫌良さそうに問いかけてくる。
善治さん。葵の父親だった。
母親の美樹さんは五年前に亡くなっていて、今は善治さんと二人暮らしになっている。
「葵ちゃんを見習いなさいよ。ちゃんと挨拶に来てくれたんだから。あんたも善治さんにもちゃんとご挨拶しないと」
「……ああ」
掠れた声が、喉から漏れた。
頭が回らない。
どう行動すべきなのか、どう振る舞うべきなのか、皆目検討もつかなかった。
「いやあ、それにしても幼馴染同士で付き合うなんてあるのねぇ。なんだかドラマみたいじゃない?」
「私にもイケメンの幼馴染がいたら良かったのに」
佳矢が不満そうに言いながら寿司に箸をのばす。
「あんたは女同士でしか遊んでなかったものね。あ、葵ちゃんも食べてね」
思考が定まらないうちに、どんどん状況が進んでいく。
得体の知れない焦燥感と不安感が綯い交ぜになって、巨大な何かになって膨れ上がっていく。
気づけば、全身が汗でぐっしょりと濡れていた。
体温と同時に思考が奪われて蒸発していくような錯覚があった。
「母さん」
震える声で、口を開く。
母が不思議そうに俺を見た。
「俺は」
言わなければならなかった。
全ては葵の嘘なのだと。俺は結衣と付き合う事になったのだと。
渇き切った喉を、その為に震わせなければならなかった。
「俺は――」
「――ねえ、瞬矢」
俺の声を遮るように、横から葵の声が届いた。
視線を向けると、いつもの眠たそうな顔がそこにあった。
「私、嬉しかったよ」
いつもの眠そうな表情。
僅かに開いた瞳孔だけが、いつもと違った。
「はじめは確かに動揺したけど、嬉しかったんだ。帰ってから、ずっと瞬矢の言葉を思い出してた」
そう言って、葵は微笑んだ。
「だから私は、ずっと瞬矢と一緒にいたいって心からそう思ったの」
言葉が出てこなかった。
体温も、思考も、言葉も全てがどこかへ消え去っていった。
一度は開いた口が、自然と閉じる。
それを見て葵は笑みを深くした。
「もう葵さん、こんなところでノロけないでくださいよ」
佳矢が顔をしかめて手をひらひらとさせる。
母の笑い声が重なり、和やかな雰囲気が場に広がった。
俺は渇いた笑い声をあげて、目の前の寿司に箸をのばした。
そのまま、口に出しかけた言葉と一緒に飲み込む。
「ねえ、美味しい?」
すぐ隣で、葵が首を傾げる。
味は、何一つしなかった。
◇◆◇
「……どういうつもりだ?」
夕食後、葵を自室に呼び出すと彼女はいつもの眠そうな表情で俺を見た。
「どういうつもりって?」
葵はそう言って、ゆっくりと部屋を見渡す。
「昔とあまり変わらないね」
彼女が眼の前を通った時、柔軟剤の甘い香りがした。
「葵とは付き合えないと言ったはずだ」
「そうだったかな」
とぼとけるような言葉とともに、葵は薄い笑みを浮かべた。
「嘘は言ってないよ。おばさんには瞬矢から告白されたって言っただけ」
葵の眼球が、俺を舐めるように動く。
「そして、私も好きだって伝えた。それだけ。とてもシンプルな話じゃない?」
「葵……俺たちは――」
「――ねえ」
俺の言葉を遮るように、葵が静かに口を開く。
「二人っきりだね」
言葉が出なかった。
沈黙が落ち、同時に葵がクスクスと笑う。
「当ててみせようか。瞬矢はいま、きっと緊張してる」
葵がゆっくりと動く。俺を見つめながら、弧を描くように。
「心拍数があがって、どきどきしてる。少しだけ発汗もあるはず」
葵の細い指先が、俺の頬を撫でた。
そっと頸動脈に沿うように首筋に落ちていく。
「やっぱり。少しだけ脈が早いし汗ばんでる」
「葵」
一歩、後ずさる。
葵はいつもの眠たそうな表情でクスクスと笑って、それからすぐに笑うのをやめた。
「ねえ」
どこか真剣な顔で、彼女は切り出した。
僅かに開いた瞳孔が、真っ直ぐ俺に向けられていた。
「きっと私も同じ。確かめてみる?」
葵の手が、制服の第一ボタンにのびた。
ゆっくりとボタンが外され、鎖骨が覗いた。
大人びた葵の顔つきが、普段よりも色っぽく見えた。
「葵、やめるんだ」
俺の言葉に葵は手を止め、それから不意をつくように一歩前に出た。
彼女の細い指先が、再び俺の首筋に添えられる。
「脈、あがってる。汗だって」
すぐ目の前で、葵がクスクスと笑う。
甘い吐息が首筋にかかった。
「やっぱり瞬矢は私のことが好きで、意識してるんだ」
返す言葉が見つからない中、葵が言葉を続ける。
「昔から瞬矢の心の天秤は、常に良心と常識に傾いてる。瞬矢はいつだって自分の気持ちの優先度を一番下にしてる。損な生き方をしてるって、私は知ってる」
だから、と葵は俺を見上げた。
「その天秤を、私が壊してあげるの。粉々にして、瞬矢が正直になれるようにしてあげる」
葵は最後に穏やかな笑みを浮かべて、それから後ろに下がった。
「今日はもう帰るよ。続きはまた今度ね」
踵を返して部屋から出ていく葵を、俺は黙って見送ることしかできなかった。
◇◆◇
雨が降っていた。
秋の雨は、身に染みるように冷たい。
台風が近づいているのだと朝の天気予報でやっていた。
俺は傘を差して、早足で校門をくぐった。
下駄箱は大勢の生徒で溢れていた。
傘の水気を落として靴を履き替える。
ズボンが水を吸って重くなっていた。
ハンカチで水気を吸ってから教室に向かい、引き戸を開ける。
途端、それまで騒がしかった教室が静かになった。同時に教室中の視線が集まる。
奇異の視線だった。
想定外の事態に、俺は思わず動きを止めた。
「瞬矢」
教室の奥から拓海が向かってくる。
「ちょっと良いか」
拓海は俺を廊下に押し出すと、そのまま耳打ちするように小声で話し始めた。
「なあ、昨日の昼休み、長宮に告白して失敗したって言ってたよな?」
「……ああ」
話が見えない。
短く頷くと、拓海は周囲を気にするような素振りを見せてから更に声を小さくして言った。
「お前、昨日の今日でどうなってるんだ? 葛城がお前と付き合うことになったって学年中に言い触らしてるぞ」
耳元で囁かれた葵の言葉に、意識が眩んだ。
状況を漠然と理解すると同時に、胃の中に鉛が流し込まれたような錯覚を覚える。
「ほら、美味しそうだよ」
金縛りにあったように動けない俺に、葵が耳元で言葉を続ける。
テーブルの上には出前の寿司が並んでいて、母は既に席について俺たちの方をニコニコと見つめていた。
佳矢がソファから立ち上がって、背伸びしながらテーブルに向かう。
「さあ、一緒に食べよう」
とん、と背中を押される。
俺は操り人形のようにリビングに足を進め、いつもの席についた。
思考が奪われたように何も考えることができなかった。
「ところで瞬矢、善治さんにはもう報告したの?」
母が機嫌良さそうに問いかけてくる。
善治さん。葵の父親だった。
母親の美樹さんは五年前に亡くなっていて、今は善治さんと二人暮らしになっている。
「葵ちゃんを見習いなさいよ。ちゃんと挨拶に来てくれたんだから。あんたも善治さんにもちゃんとご挨拶しないと」
「……ああ」
掠れた声が、喉から漏れた。
頭が回らない。
どう行動すべきなのか、どう振る舞うべきなのか、皆目検討もつかなかった。
「いやあ、それにしても幼馴染同士で付き合うなんてあるのねぇ。なんだかドラマみたいじゃない?」
「私にもイケメンの幼馴染がいたら良かったのに」
佳矢が不満そうに言いながら寿司に箸をのばす。
「あんたは女同士でしか遊んでなかったものね。あ、葵ちゃんも食べてね」
思考が定まらないうちに、どんどん状況が進んでいく。
得体の知れない焦燥感と不安感が綯い交ぜになって、巨大な何かになって膨れ上がっていく。
気づけば、全身が汗でぐっしょりと濡れていた。
体温と同時に思考が奪われて蒸発していくような錯覚があった。
「母さん」
震える声で、口を開く。
母が不思議そうに俺を見た。
「俺は」
言わなければならなかった。
全ては葵の嘘なのだと。俺は結衣と付き合う事になったのだと。
渇き切った喉を、その為に震わせなければならなかった。
「俺は――」
「――ねえ、瞬矢」
俺の声を遮るように、横から葵の声が届いた。
視線を向けると、いつもの眠たそうな顔がそこにあった。
「私、嬉しかったよ」
いつもの眠そうな表情。
僅かに開いた瞳孔だけが、いつもと違った。
「はじめは確かに動揺したけど、嬉しかったんだ。帰ってから、ずっと瞬矢の言葉を思い出してた」
そう言って、葵は微笑んだ。
「だから私は、ずっと瞬矢と一緒にいたいって心からそう思ったの」
言葉が出てこなかった。
体温も、思考も、言葉も全てがどこかへ消え去っていった。
一度は開いた口が、自然と閉じる。
それを見て葵は笑みを深くした。
「もう葵さん、こんなところでノロけないでくださいよ」
佳矢が顔をしかめて手をひらひらとさせる。
母の笑い声が重なり、和やかな雰囲気が場に広がった。
俺は渇いた笑い声をあげて、目の前の寿司に箸をのばした。
そのまま、口に出しかけた言葉と一緒に飲み込む。
「ねえ、美味しい?」
すぐ隣で、葵が首を傾げる。
味は、何一つしなかった。
◇◆◇
「……どういうつもりだ?」
夕食後、葵を自室に呼び出すと彼女はいつもの眠そうな表情で俺を見た。
「どういうつもりって?」
葵はそう言って、ゆっくりと部屋を見渡す。
「昔とあまり変わらないね」
彼女が眼の前を通った時、柔軟剤の甘い香りがした。
「葵とは付き合えないと言ったはずだ」
「そうだったかな」
とぼとけるような言葉とともに、葵は薄い笑みを浮かべた。
「嘘は言ってないよ。おばさんには瞬矢から告白されたって言っただけ」
葵の眼球が、俺を舐めるように動く。
「そして、私も好きだって伝えた。それだけ。とてもシンプルな話じゃない?」
「葵……俺たちは――」
「――ねえ」
俺の言葉を遮るように、葵が静かに口を開く。
「二人っきりだね」
言葉が出なかった。
沈黙が落ち、同時に葵がクスクスと笑う。
「当ててみせようか。瞬矢はいま、きっと緊張してる」
葵がゆっくりと動く。俺を見つめながら、弧を描くように。
「心拍数があがって、どきどきしてる。少しだけ発汗もあるはず」
葵の細い指先が、俺の頬を撫でた。
そっと頸動脈に沿うように首筋に落ちていく。
「やっぱり。少しだけ脈が早いし汗ばんでる」
「葵」
一歩、後ずさる。
葵はいつもの眠たそうな表情でクスクスと笑って、それからすぐに笑うのをやめた。
「ねえ」
どこか真剣な顔で、彼女は切り出した。
僅かに開いた瞳孔が、真っ直ぐ俺に向けられていた。
「きっと私も同じ。確かめてみる?」
葵の手が、制服の第一ボタンにのびた。
ゆっくりとボタンが外され、鎖骨が覗いた。
大人びた葵の顔つきが、普段よりも色っぽく見えた。
「葵、やめるんだ」
俺の言葉に葵は手を止め、それから不意をつくように一歩前に出た。
彼女の細い指先が、再び俺の首筋に添えられる。
「脈、あがってる。汗だって」
すぐ目の前で、葵がクスクスと笑う。
甘い吐息が首筋にかかった。
「やっぱり瞬矢は私のことが好きで、意識してるんだ」
返す言葉が見つからない中、葵が言葉を続ける。
「昔から瞬矢の心の天秤は、常に良心と常識に傾いてる。瞬矢はいつだって自分の気持ちの優先度を一番下にしてる。損な生き方をしてるって、私は知ってる」
だから、と葵は俺を見上げた。
「その天秤を、私が壊してあげるの。粉々にして、瞬矢が正直になれるようにしてあげる」
葵は最後に穏やかな笑みを浮かべて、それから後ろに下がった。
「今日はもう帰るよ。続きはまた今度ね」
踵を返して部屋から出ていく葵を、俺は黙って見送ることしかできなかった。
◇◆◇
雨が降っていた。
秋の雨は、身に染みるように冷たい。
台風が近づいているのだと朝の天気予報でやっていた。
俺は傘を差して、早足で校門をくぐった。
下駄箱は大勢の生徒で溢れていた。
傘の水気を落として靴を履き替える。
ズボンが水を吸って重くなっていた。
ハンカチで水気を吸ってから教室に向かい、引き戸を開ける。
途端、それまで騒がしかった教室が静かになった。同時に教室中の視線が集まる。
奇異の視線だった。
想定外の事態に、俺は思わず動きを止めた。
「瞬矢」
教室の奥から拓海が向かってくる。
「ちょっと良いか」
拓海は俺を廊下に押し出すと、そのまま耳打ちするように小声で話し始めた。
「なあ、昨日の昼休み、長宮に告白して失敗したって言ってたよな?」
「……ああ」
話が見えない。
短く頷くと、拓海は周囲を気にするような素振りを見せてから更に声を小さくして言った。
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