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30. もう一人
しおりを挟む(あ、沈んだわ)
私は目の前で崩れ落ちたハインリヒ様の姿を見てそう思った。
地面への沈み方があちらで沈んでいる両親とそっくり。
「……」
それにしても、あれだけ私が婚約破棄を主張し、復縁を拒否し続けていたのに、まだ謝れば考え直して貰えるかも……そう思える神経がすごいと思うわ。
(いえ、鈍いだけなのかも)
だから、アルミンの中に裏切ったという自覚はない。
ヘンリエッテを救うためだった……きっとそう信じている───……
「……ハインリヒ、再起不能になってないか?」
リヒャルト様がそんなことを言いながら私の隣に並ぶ。
その視線は床に沈んだハインリヒ様に向けられている。
「ボロボロにしちゃいました! これから“あの日”のことも追及したかったのですけど」
「あー……今は無理かもしれないな」
「……ですよね」
私も頷きながら沈んだハインリヒ様に視線を戻して見下ろした。
────ハインリヒ様の前世のアルミン。
彼は侯爵子息。
国内で身分だけなら彼がヘンリエッテの相手として一番釣り合いの取れる令息だった。
今となっては真偽は分からないけれど、おそらく、アルミンこそがヘンリエッテのお相手の有力候補だったのだと思う。
だから、周囲はどうしても二人を引き合わせたかった。
そうして、ヘンリエッテに縁談から逃げられ話が一度頓挫してから約三年後。
彼は再びヘンリエッテの元に現れることが出来た。
『今日から姫の護衛騎士の一人に任命されましたアルミンと申します』
三年が経っていて見た目の雰囲気が変わり、爽やかな好青年になっていたこと。
そもそも、ヘンリエッテが縁談から逃げた相手は彼一人ではなかったこと。
また、挨拶や顔合わせ時にじろじろと品定めされるような目で見られることはアルミンに限らず多かったこと。
そんなこともあり、ヘンリエッテは最初、アルミンに気付かなかった。
でも、テオバルトはすぐに気付いていてずっとアルミンを警戒して目を光らせていた。
『……ねえ、テオバルト。気のせいかしら? アルミンの私を見る目が、その……』
最初は好青年を装っていたアルミンも、油断したのかそれとも大丈夫と思えたのか……だんだん本性が出て来るようになり、なんとも言えない気持ち悪さをテオバルトに明かしてみた。
『そもそも彼は三年くらい前にヘンリエッテ様が縁談をすっぽかした相手ですよ』
『……いっぱいいるんだけど?』
『気持ち悪い視線を送ってくるとか言っていたでしょう?』
『……思い当たる人が何人もいるんだけど?』
テオバルトはそこでアルミンが三年前の縁談すっぽかした相手だと教えてくれて、ヘンリエッテもしばらくしてからようやく思い出し、父親の国王の所に話をするために向かった。
……でも。
『配属を変える予定はない。彼はお前の護衛だ』
アルミンの配属は変わらなかった。
(──当時、ヘンリエッテがテオバルトに想いを寄せていたのはバレバレだったから)
テオバルトを傍に置いているのはあくまでも騎士としてであって伴侶にするためじゃない。
伯爵令息は伴侶として相応しくない───
だから、アルミンをヘンリエッテの元に送り込み留まらせたのだと思う。
(テオバルトが護ってくれていなければ、アルミンに何をされていたか……)
そう思うとゾッとする。
そこから、キレたヘンリエッテが持ち前の押しの強さを発揮して周りを説得し続けて、煮え切らない態度を取るテオバルトにも本音を吐かせて、無事にテオバルトとの婚約を勝ち取ることは出来たけれど──……
(結婚は……出来なかった)
当時、今回と同じでテオバルトとの結婚式の日は迫っていた。
『テオバルト! 見て! どう?』
『……』
完成したウェディングドレスの試着したところを見せたら、なぜかテオバルトは目を大きく見開いたまま口元を手で押さえて固まってしまった。
そんなテオバルトの様子にヘンリエッテは一気に不安になる。
自分ではすごく似合っているつもりだったけど、実は変? もしくはテオバルトの好みではない?
『なんで黙るの?』
『……』
『テオバルト? ねぇってば!』
『……』
ヘンリエッテはゆさゆさとテオバルトの肩を揺らす。
それでもテオバルトは強情でなかなか答えない。
───ヘンリエッテ様があまりにも美しくて綺麗で……それでいて可愛いくて涙が出そうです……
真っ赤になったテオバルトから、そんな言葉を引き出すのにとてもとても苦労した。
でも、その言葉が嬉しくてヘンリエッテは最高に幸せだった。
こうしてヘンリエッテは、ウェディングドレスも完成し、はしゃいで幸せな花嫁になることを夢見ていた。
その矢先に───……
「……」
(あ、そうだ……)
そこまで思い出して、色々と聞かないといけないことがある人がもう一人いたことを思い出す。
私は視線の先を変えた。
「ヴァネッサ様」
「……ひっ!?」
呆然としていた様子の彼女は私の呼びかけに驚いて大きく肩を震わせた。
「ヘヘヘヘヘヘンリエッテ……さま」
怯えた様子の彼女は後退りしながら、前世の名で私のことを呼ぶ。
「私はナターリエですけど?」
「うっ……ナ、ナターリエ様」
ため息しか出ない。
ハインリヒ様もそうだったけれど、ヴァネッサ嬢もかなり前世に囚われている。
「……あなたの家がどれだけの金額を払ってくれるかは分かりませんけど、きっちり慰謝料請求は男爵家の方にもさせていただきますので」
「えっ!? 慰謝料請求!? む、無理……!」
「無理で済む問題ではないと分かっているでしょう?」
本当に何も知らない貴族になったばかりの男爵令嬢ならまだしも、彼女はコルネリアだった頃の記憶がある。
それならこうなることを分からないはずがない。
おそらく、ハインリヒ様とヴァネッサ嬢は結婚させられる。
ハインリヒ様が嫌だと猛反対しても。
けれど、ベルクマン侯爵家はこれから様々な捜査が待っており、最悪降爵処分も免れない。
嫁いだヴァネッサ嬢の未来は幸せどころか苦難の道。
(甘い汁だけ吸おうと画策したツケが回って来たといったところかしらね)
「で、でも……だって……わたし……」
うるうるとした涙を見せるヴァネッサ嬢。
今ならよく分かる。これはコルネリアの特技だった。
「泣けばどうにかなると?」
「え……?」
「泣いた所で無駄よ。嘘泣きなのも分かっている。あなたはハインリヒ様の婚約者の存在を知りながら不貞を続けていたのだから」
「……うぅ、どうしてよ……上手く……上手く言っていたのに!!」
「……」
ヴァネッサ嬢が錯乱したように叫び出す。
「奇跡……今世でも巡り合えた……運命だって思ったのに」
「……」
「家の事情で定められた婚約者がいる? 何それ! と、思ったわ」
「……」
「だったら、その相手を苦しめてとことん追い込んでやろうって……」
(あの推測……ほぼその通りって感じね)
ただ、そんな発想になることに恐怖を感じるわ……
ハインリヒ様とお似合いなんじゃない?
「それに、それに、それに! わたしはヘンリエッテのことも大っ嫌いだったわ」
「!」
「ヘンリエッテは何でも持ってるくせに……アルミン様の心まで奪っていた!」
急に前世に話が飛んだあたり、ヴァネッサ嬢は相当頭が混乱していることが窺える。
コルネリアがヘンリエッテの侍女になったのは、アルミンが護衛騎士になってすぐ。
その頃のアルミンはまだ、本性が出る前で見た目も中身も爽やかな好青年だったので多くの令嬢が熱を上げていた。
コルネリアもその一人だった……
「憎くて憎くて憎くて……何度消えてくれればと思ったことか」
「……」
そんな憎くて憎くて憎くてしょうがない相手にそっくりの顔で生まれて、前世の頃から恋していた人のためならその女のフリまでする……
ヘンリエッテとコルネリアの性格は随分違ったはずだからかなり大変だったでしょうに。
(まぁ、ハインリヒ様が見た目に騙されて、多少の違和感があっても流されていただけだとは思うけれど)
「ヘンリエッテさえいなくなれば、アルミン様だってわたしのことを見てくれるはず……だったのに」
「!」
コルネリアの記憶を持つヴァネッサ嬢のその言葉を聞いたとき、私は確信した。
────もう一人の裏切り者はコルネリアだ、と。
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