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「ごめんなさい、彩香……ごめんねぇ」
幼なじみの佳奈が、泣きじゃくりながら謝罪を繰り返す。そんな佳奈の肩を抱きながら、つい先ほどまで婚約者だと信じていた真二が、目の前に座る彩香を睨み付けてきた。
「佳奈を先に好きになったのはオレだ。責めるなら、オレを責めればいいだろう」
喫茶店にいるスタッフや客たちが、修羅場なテーブルに視線を集める。
休日の朝。彩香は大事な話があると、婚約者の真二に喫茶店に呼び出された。到着したそこには幼なじみの佳奈がいて、これまでの経験から嫌な予感がしていたが、案の定だった。
「佳奈を好きになった。別れてくれ」
頭を下げる真二の横で、佳奈が勝手に泣きはじめた。ちなみに彩香はショックからか、まだ一つも言葉を発していない。
可愛くて、綿菓子みたいな佳奈。可憐で、庇護欲をそそる女性。対して彩香は、お世辞にも可愛いとは言えず、引っ込み思案で、何事にもおどおどし、背中はいつも丸まっている。取り柄といえば、真面目なことだけ。
それが一番大切なことじゃないか。
婚約者だと信じていた男がそう言ってくれたのは、いつだっけ。
彩香はぼんやり、思った。
(……こうなることがわかっていれば、はじめから好きになんてならなかったのに)
白い天井を仰ぎ、彩香は必死に涙を堪えた。
「──そっか。わたし、日本人だったんだ」
唐突な台詞に、フェリシアの髪を梳かしていた侍女のグレンダが、頭に疑問符を浮かべた。フェリシアは少しだけ後ろを振り向くと、なんでもないわ、と笑った。
ハウエルズ公爵家の長女、フェリシア。十二歳。物心がつくようになったころからだろうか。いまいる世界と別の世界の記憶が入り交じるようになり、混乱することが多々あった。これはなんだろうと探り、別の世界のものであろう飛び飛びの記憶を統合していく日々。
それが、今日。パズルのピースがすべてピタッとはまったように、日本人だったころの記憶が溢れるように蘇ってきたのだ。
(……彩香。うん、そんな名前だった。だんだん、思い出してきたわ。それにしても)
鏡に映る、文句のつけようもない美少女に見惚れる。右手を頬に添えると、鏡の中の美少女も同じ動きをした。
(……昔から自分の顔が好きだったのも、コンプレックスのせいだったのね)
婚約者を幼なじみに寝取られてから、男性不信になり、さらには人間不信となった彩香は、二次元に逃げた。漫画やアニメを見ているとき、ゲームをしているときだけは、心穏やかでいられた。どうやって死んだのかはよく覚えてないが、生涯を独身で過ごしたのは間違いない。
(? でも、この顔どこかで……それに、フェリシアという名も)
「──さま。フェリシアお嬢様っ」
グレンダの呼び声に、現実に引き戻されたフェリシアは、はっとした。
「どうかされました? なにか気になることでも?」
「な、なんでもないわ」
「そうですか? 今日は大事な日なのですから、しゃんとなさってくださいね」
「大事な日……」
日本人だったころの記憶が一気に蘇ったせいか、現世の記憶が一瞬、曖昧になっていたフェリシアが、首を傾げた。その様子に、グレンダが口を半開きにした。
「う、嘘ですよね。あれだけ、第一王子と会えることを楽しみにしていらっしゃったのに……」
「第一王子──……クライブ、殿下?」
「そうですよ。というか、どうして疑問形なのですか?!」
心配なのか慌てているのかわからないグレンダを横目に、フェリシアは顎に手を当て、鏡の中の自分をじっくり観察してみた。
さらさらとした、薄紫色の髪。透き通るような空色の瞳。右目の下にある、泣きぼくろ。記憶にあるものより少し幼いが、どこかで見たことのある容姿。名前。
そして、ラントバ王国の第一王子。クライブ・レウ・ラントバ。
(途中で止めてしまったし、一度プレイしただけだからあまり詳しくは覚えてないけど、確か……異世界恋愛を舞台にした乙女ゲームに、この二人が出ていたような)
だとしたら、これは夢なのだろうか。それにしては、フェリシアとして過ごした時間が長すぎる。それに、夢の中でさらに夢を、もう何度も見た。
(創作でよく見た、転生……生まれ変わり)
──いや、まさか。
でも。
「フェリシアお嬢様! 早く準備をしないと間に合いませんよ!」
「……ええ」
急かされるまま、姿勢を正す。日本人だったころの思い出がはっきりしても、現世での記憶が消えたわけではなく、きっちりある。
今日は、この国の第一王子であるクライブの婚約者候補が、王宮に集まる日。王族の血を引く令嬢が、招待されている。
(ええと。主人公のヒロインには、攻略対象が五人いて、クライブ殿下は、その一人だったはず)
うんうん心で唸り、必死に記憶を探る。主人公のヒロインは平民だが、癒やしの力をもっており、後に聖女となる。だが、彩香はそのヒロインをあまり好きになれなかった。癒やしの力を操れるようになるまでは、はっきりいって守られるだけしか脳のないヒロインだったのに、何故か複数のイケメンに好かれ、愛されていた。そこがどうしても引っかかり、途中で止めてしまったのだ。
(……こんなことなら、最後までやればよかった)
『──この悪女め!』
脳内に響いた声。それは、クライブのもの。大好きだった声優さんが担当していたので、それは間違いない。
「そうだ……フェリシアは」
(フェリシアは、クライブ殿下の婚約者で。ヒロインを虐める悪役令嬢……)
「フェリシアお嬢様? なにか?」
「……え?」
「ぼーっとして、本当にどうされたのですか? ご気分が優れないのですか?」
心配そうなグレンダの声色に、フェリシアはいけないと気を引き締めた。
「大丈夫。少し、緊張してきただけ」
「そうですか。ずっと、クライブ殿下にお会いしたいと願っていましたものね」
「そう、ね」
クライブは次期国王でありながら、みなが見惚れるほどの容姿の持ち主。そしてその声は、思わずうっとりするほど、透き通っている。
(……あの声優さんが担当しているから、それは当たり前なんだけど──いや違う。いまはそんなことより)
これが夢でなく、現実なのだとしたら。そしてここが、彩香が知る乙女ゲームの中の世界なのだとしたら。
(……わたしは、フェリシアは最後、どうなるんだろう。クライブ殿下に婚約破棄されたところまではプレイしたけど)
フェリシアという婚約者がいながら、ヒロインばかり気にかけ、寄り添っていたクライブ。確かに虐めはよくないが、クライブにも問題はあったんじゃないか。その思いが強くなり、そこでゲームを止めてしまったのだ。
(どちらにせよ、婚約破棄はされる運命……か)
──こうなることがわかっていれば、はじめから好きになんてならなかったのに。
彩香だったときの思いが、脳内を過った。
フェリシアは、クライブを愛していた。だからこそ、ヒロインが憎かったのだろう。彩香はヒロインより、フェリシアの方に感情移入していた。それもあって、クライブの婚約破棄の宣言が許せなかったのかもしれない。
どうせ、嫌われるなら。
それがわかっているなら。
「……いっそ、婚約者に選ばれなければいい」
ぼそっと呟く。それは、後ろにいるグレンダには聞こえていなかったようだ。満足そうに「はい。髪のセット、終わりましたよ」と、笑っていたから。
「ありがとう、グレンダ。わたし、頑張ってくるね」
「はい! クライブ殿下のお心、がっちり掴んできてください!」
フェリシアはにっこり笑うだけで、それにはなにも答えなかった。
王宮の広間には、第一王子と似た年頃の、王族の血を引く令嬢が集まっていた。みながそわそわと頬を染めていたが、フェリシアだけは冷めた表情をしていた。
(どうせ、婚約破棄される運命なのに……)
窓に映る自身の姿を見る。こんなに綺麗で、きっと王妃教育だってたくさん頑張ってきたはずなのに、待っていたのは、悲惨な未来。
ヒロインの引き立て役の、悪役令嬢。
過ったのは、彩香だったころの嫌な記憶。
それまで年賀状など一度も送ってこなかった佳奈が、結婚してから毎年、写真付きの年賀状を送ってくるようになった。それはもちろん、家族写真で。最初は真二と二人の。次の年には、赤ちゃんを含めた三人のもの。
最初にもらったとき、彩香は佳奈に年賀状を送らなかったが、すかさず佳奈は親に告げ口をした。親からさんざん罵倒された彩香は、次の年からは嫌々、送らざるを得なくなった。
(……夢なのか生まれ変わりなのかわからないけど、神様も嫌味だなあ。よりにもよって、婚約破棄される悪役令嬢なんて)
惨めさを重ねていると、広間へと続く階段の一番上に、第一王子が姿を現した。
きゃあ。
黄色い声が、広間に響いた。
幼なじみの佳奈が、泣きじゃくりながら謝罪を繰り返す。そんな佳奈の肩を抱きながら、つい先ほどまで婚約者だと信じていた真二が、目の前に座る彩香を睨み付けてきた。
「佳奈を先に好きになったのはオレだ。責めるなら、オレを責めればいいだろう」
喫茶店にいるスタッフや客たちが、修羅場なテーブルに視線を集める。
休日の朝。彩香は大事な話があると、婚約者の真二に喫茶店に呼び出された。到着したそこには幼なじみの佳奈がいて、これまでの経験から嫌な予感がしていたが、案の定だった。
「佳奈を好きになった。別れてくれ」
頭を下げる真二の横で、佳奈が勝手に泣きはじめた。ちなみに彩香はショックからか、まだ一つも言葉を発していない。
可愛くて、綿菓子みたいな佳奈。可憐で、庇護欲をそそる女性。対して彩香は、お世辞にも可愛いとは言えず、引っ込み思案で、何事にもおどおどし、背中はいつも丸まっている。取り柄といえば、真面目なことだけ。
それが一番大切なことじゃないか。
婚約者だと信じていた男がそう言ってくれたのは、いつだっけ。
彩香はぼんやり、思った。
(……こうなることがわかっていれば、はじめから好きになんてならなかったのに)
白い天井を仰ぎ、彩香は必死に涙を堪えた。
「──そっか。わたし、日本人だったんだ」
唐突な台詞に、フェリシアの髪を梳かしていた侍女のグレンダが、頭に疑問符を浮かべた。フェリシアは少しだけ後ろを振り向くと、なんでもないわ、と笑った。
ハウエルズ公爵家の長女、フェリシア。十二歳。物心がつくようになったころからだろうか。いまいる世界と別の世界の記憶が入り交じるようになり、混乱することが多々あった。これはなんだろうと探り、別の世界のものであろう飛び飛びの記憶を統合していく日々。
それが、今日。パズルのピースがすべてピタッとはまったように、日本人だったころの記憶が溢れるように蘇ってきたのだ。
(……彩香。うん、そんな名前だった。だんだん、思い出してきたわ。それにしても)
鏡に映る、文句のつけようもない美少女に見惚れる。右手を頬に添えると、鏡の中の美少女も同じ動きをした。
(……昔から自分の顔が好きだったのも、コンプレックスのせいだったのね)
婚約者を幼なじみに寝取られてから、男性不信になり、さらには人間不信となった彩香は、二次元に逃げた。漫画やアニメを見ているとき、ゲームをしているときだけは、心穏やかでいられた。どうやって死んだのかはよく覚えてないが、生涯を独身で過ごしたのは間違いない。
(? でも、この顔どこかで……それに、フェリシアという名も)
「──さま。フェリシアお嬢様っ」
グレンダの呼び声に、現実に引き戻されたフェリシアは、はっとした。
「どうかされました? なにか気になることでも?」
「な、なんでもないわ」
「そうですか? 今日は大事な日なのですから、しゃんとなさってくださいね」
「大事な日……」
日本人だったころの記憶が一気に蘇ったせいか、現世の記憶が一瞬、曖昧になっていたフェリシアが、首を傾げた。その様子に、グレンダが口を半開きにした。
「う、嘘ですよね。あれだけ、第一王子と会えることを楽しみにしていらっしゃったのに……」
「第一王子──……クライブ、殿下?」
「そうですよ。というか、どうして疑問形なのですか?!」
心配なのか慌てているのかわからないグレンダを横目に、フェリシアは顎に手を当て、鏡の中の自分をじっくり観察してみた。
さらさらとした、薄紫色の髪。透き通るような空色の瞳。右目の下にある、泣きぼくろ。記憶にあるものより少し幼いが、どこかで見たことのある容姿。名前。
そして、ラントバ王国の第一王子。クライブ・レウ・ラントバ。
(途中で止めてしまったし、一度プレイしただけだからあまり詳しくは覚えてないけど、確か……異世界恋愛を舞台にした乙女ゲームに、この二人が出ていたような)
だとしたら、これは夢なのだろうか。それにしては、フェリシアとして過ごした時間が長すぎる。それに、夢の中でさらに夢を、もう何度も見た。
(創作でよく見た、転生……生まれ変わり)
──いや、まさか。
でも。
「フェリシアお嬢様! 早く準備をしないと間に合いませんよ!」
「……ええ」
急かされるまま、姿勢を正す。日本人だったころの思い出がはっきりしても、現世での記憶が消えたわけではなく、きっちりある。
今日は、この国の第一王子であるクライブの婚約者候補が、王宮に集まる日。王族の血を引く令嬢が、招待されている。
(ええと。主人公のヒロインには、攻略対象が五人いて、クライブ殿下は、その一人だったはず)
うんうん心で唸り、必死に記憶を探る。主人公のヒロインは平民だが、癒やしの力をもっており、後に聖女となる。だが、彩香はそのヒロインをあまり好きになれなかった。癒やしの力を操れるようになるまでは、はっきりいって守られるだけしか脳のないヒロインだったのに、何故か複数のイケメンに好かれ、愛されていた。そこがどうしても引っかかり、途中で止めてしまったのだ。
(……こんなことなら、最後までやればよかった)
『──この悪女め!』
脳内に響いた声。それは、クライブのもの。大好きだった声優さんが担当していたので、それは間違いない。
「そうだ……フェリシアは」
(フェリシアは、クライブ殿下の婚約者で。ヒロインを虐める悪役令嬢……)
「フェリシアお嬢様? なにか?」
「……え?」
「ぼーっとして、本当にどうされたのですか? ご気分が優れないのですか?」
心配そうなグレンダの声色に、フェリシアはいけないと気を引き締めた。
「大丈夫。少し、緊張してきただけ」
「そうですか。ずっと、クライブ殿下にお会いしたいと願っていましたものね」
「そう、ね」
クライブは次期国王でありながら、みなが見惚れるほどの容姿の持ち主。そしてその声は、思わずうっとりするほど、透き通っている。
(……あの声優さんが担当しているから、それは当たり前なんだけど──いや違う。いまはそんなことより)
これが夢でなく、現実なのだとしたら。そしてここが、彩香が知る乙女ゲームの中の世界なのだとしたら。
(……わたしは、フェリシアは最後、どうなるんだろう。クライブ殿下に婚約破棄されたところまではプレイしたけど)
フェリシアという婚約者がいながら、ヒロインばかり気にかけ、寄り添っていたクライブ。確かに虐めはよくないが、クライブにも問題はあったんじゃないか。その思いが強くなり、そこでゲームを止めてしまったのだ。
(どちらにせよ、婚約破棄はされる運命……か)
──こうなることがわかっていれば、はじめから好きになんてならなかったのに。
彩香だったときの思いが、脳内を過った。
フェリシアは、クライブを愛していた。だからこそ、ヒロインが憎かったのだろう。彩香はヒロインより、フェリシアの方に感情移入していた。それもあって、クライブの婚約破棄の宣言が許せなかったのかもしれない。
どうせ、嫌われるなら。
それがわかっているなら。
「……いっそ、婚約者に選ばれなければいい」
ぼそっと呟く。それは、後ろにいるグレンダには聞こえていなかったようだ。満足そうに「はい。髪のセット、終わりましたよ」と、笑っていたから。
「ありがとう、グレンダ。わたし、頑張ってくるね」
「はい! クライブ殿下のお心、がっちり掴んできてください!」
フェリシアはにっこり笑うだけで、それにはなにも答えなかった。
王宮の広間には、第一王子と似た年頃の、王族の血を引く令嬢が集まっていた。みながそわそわと頬を染めていたが、フェリシアだけは冷めた表情をしていた。
(どうせ、婚約破棄される運命なのに……)
窓に映る自身の姿を見る。こんなに綺麗で、きっと王妃教育だってたくさん頑張ってきたはずなのに、待っていたのは、悲惨な未来。
ヒロインの引き立て役の、悪役令嬢。
過ったのは、彩香だったころの嫌な記憶。
それまで年賀状など一度も送ってこなかった佳奈が、結婚してから毎年、写真付きの年賀状を送ってくるようになった。それはもちろん、家族写真で。最初は真二と二人の。次の年には、赤ちゃんを含めた三人のもの。
最初にもらったとき、彩香は佳奈に年賀状を送らなかったが、すかさず佳奈は親に告げ口をした。親からさんざん罵倒された彩香は、次の年からは嫌々、送らざるを得なくなった。
(……夢なのか生まれ変わりなのかわからないけど、神様も嫌味だなあ。よりにもよって、婚約破棄される悪役令嬢なんて)
惨めさを重ねていると、広間へと続く階段の一番上に、第一王子が姿を現した。
きゃあ。
黄色い声が、広間に響いた。
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